『サピエンス全史(上巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】

「ユヴァル・ノア・ハラリ」著、「柴田裕之」翻訳の『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』は、我々「ホモ・サピエンス」の歴史を壮大なスケールで描くベストセラーだ。

「歴史を描く」と言っても、世界史本のような内容ではなく、著者が提示しているテーマと着眼点が非常に面白い本で、短いまとめや図解などを読んで内容を把握した気になってしまうのはもったいない。

当記事では、著者が何を主張しているのか理解できるように解説を交えながら、『サピエンス全史』を要約した

要約としてはやや長めになるが、実際の章立てに沿って、引用などもしながら、なるべく原文の意図を伝えることを心がけた。

「いちど読んでみたけど難しかったという人」「よりしっかりと理解したい人」「読了後に内容の再確認をしたい人」にとっては有用な記事になったと思う。よければ参考にしていってほしい。

第1章 唯一生き延びた人類

章題である「唯一生き延びた人類」というのは、我々「ホモ・サピエンス」のことだ。

かつて地球には、我々「ホモ・サピエンス種」とは、違う「種」でありながら、同じ「人類(ホモ属)」である人類がいた。

共通の祖先を持つ同じ「属」でありながら、交配しても子孫を残せないほどに分化してしまうと、異なる「種」に分類される。違う「種」にまで文化してしまうと、たとえ身体的特徴が似ていても、繁殖力のある子孫を残すことができない。

例えば、「馬」と「ロバ」は、交尾をするように仕向けられれば「ラバ」という子供を残すが、「ラバ」は繁殖力を持たない。我々「ホモ・サピエンス」と「他の人類種」も、同様の関係にあり、仮に交尾をして子供ができても、その子供が繁殖力を持たない程度には遺伝的に離れていたとされる。

「ホモ・ルドルフェンシス」「ホモ・エレクトス」「ホモ・ネアンデルターレンシス」「ホモ・ソロエンシス」などのサピエンス以外の人類種は、我々と同じ「人類(ホモ属)」でありながら、それぞれ違う「種」だった。そして、今の地球には、我々「ホモ・サピエンス」しか存在しない。

他の人類種たちは、火を使って調理することもできたし、仲間を埋葬する習慣を持っていたとされ、「ホモ・サピエンス」よりも知能が劣っていたわけではない。サピエンスよりも脳が大きかった種も存在する。にもかかわらず、彼らはことごとく歴史から姿を消した。

多くの人が何となくイメージしている、「猿から直線的に進化して人間になった」というのは、大きな欺瞞を孕んでいる。実際のところは、様々な人類がいた中で、我々「ホモ・サピエンス」だけが唯一生き残ったのだ。

滅んでしまった人類種に関して、「交雑説」と「交代説」の二つがある。「交雑説」は、他の人類種のDNAが「サピエンス」と混ざっていったので、我々の中に他の人類種のDNAが残っているというもので、「交代説」は、混ざらずに完全に消えてしまったというもの。これに関して、ハラリは以下のように述べている。

二つの説をめぐる論争には、多くがかかっている。進化の視点に立つと、七万年というのは比較的短い期間だ。もし交代説が正しければ、今生きている人類は全員ほぼ同じ遺伝子コードを持っており、人種的な違いは無視できるほどにすぎない。だが、もし交雑説が正しいと、何十年前も前までさかのぼる遺伝的な違いがアフリカ人とヨーロッパ人とアジア人の間にあるかもしれない。これはいわば人種差別的なダイナマイトで、一触即発の人類説の材料を提供しかねない。

「人間は平等」という立場からすれば、「交代説」のほうがずっと穏当だ。しかし、技術革新が進んで、DNA解析が可能になると、現代人に特有のDNAのうち数%を、ネアンデルタール人やデニソワ人という人類と共有していることがわかった。「交雑説」は部分的に正しかったのだ。

とはいえ、それぞれの種が一体化したというよりも、他の人類の遺伝子のごく一部が、サピエンスの遺伝子に入り込んだにすぎない。つまり、「交代説」が間違っているわけではないが、部分的には「交雑説」も正しいということだ。

ネアンデルタール人とデニソワ人は、今日の私たちのゲノムにほんのわずかのDNAしか与えていないので、サピエンスと他の人類種が「一体化」したとは、とても言えない。両者の間の違いは、交合して子孫を残すのを完全に防げるほど大きくはなかったとはいえ、そのような交合はやはり非常に稀だったはずだ。

遺伝的な差異が積み重なることで「種」に分化していくが、完全に分化しきる前のグレーゾーンのような状態があり、そこでは、ごく稀に交合して繁殖力のある子孫を残すことのできる時期があった。

そのため、滅んでしまった人類種とサピエンスは、ほんのわずかにDNAを共有している。しかし、その一方で、我々サピエンス以外の人類が絶滅してしまったという事実は動かしがたい。

POINT

  • かつては「ホモ・サピエンス(我々)」と異なる「人類」がいたが、サピエンス以外は絶滅してしまった
  • 他の人類とサピエンスは、交合によって一体化したわけではないが、サピエンスの遺伝子にはごくわずかに他の人類種のDNAが混ざっている

 

第2章 虚構が協力を可能にした

『サピエンス全史』が衝撃を持って読まれた理由のひとつは、「我々が犯してきた罪」に焦点を当てているからだ。サピエンスにとって不都合な歴史をごまかしたがる学者は多いが、数々の証拠を検証する限り、「サピエンスが他の人類を滅ぼした」と考えるのが妥当だとハラリは論じている。

しかし、なぜ「ホモ・サピエンス」は、他のホモ属を残らず滅ぼすことができるほど強かったのだろうか。もし能力が拮抗していたのあれば、異なる人類種が共存する未来もあり得たかもしれない。だが実際のところ、サピエンスは、短期間の間に他の人類種を地球上から一掃してしまうほどの力を持っていた

サピエンスは、個々の能力が突出して高かったわけではない。脳の大きさや身体能力に関して言えば、むしろサピエンスより優れていた人類種も存在した。だが、およそ7万年前から3万年前にかけてのどこかの段階で、サピエンスのDNAにある革命的な変化が起こった。それは「認知革命」と言われている。

「認知革命」によって、サピエンスの脳は「虚構(フィクション)」を信じることができるようになった

見知った者同士が協力し合える自然な集団の大きさは、およそ150人が限度であることが、社会学の研究などによってわかっている。一方で、「虚構」は、150人の制限を大きく越える大規模な協力を可能にする。虚構を語る能力と、虚構を信じ込む能力によって、会ったこともない集団同士が、大きな規模で協力し合えるようになる。

また、「虚構」は、「協力の仕方を短期間に変える」ことを可能にする。通常の生物は、「遺伝子の変化」という非常に緩やかな形でしか、自らの行動パターンを変えることができない。一方、虚構の内容の変化によって行動パターンが変化するサピエンスは、通常ならば数万年かかるような変化を、一晩のうちに行ってしまうことすら可能だ。「虚構」によるゲノムを介さない行動パターンの変化は、他の生物の変化を圧倒するスピードだった。

「虚構(フィクション)」は、

  • 見知った者同士の集団を超えた、大規模な数の協力を可能にする
  • 虚構の内容を変化させることで、ゲノムを介さずに集団の行動パターンを変化させることができる

「虚構」の力は、サピエンスを、他の人類よりも圧倒的に驚異的な種に押し上げた。

一対一で喧嘩をしたら、ネアンデルタール人はおそらくサピエンスを打ち負かしただろう。だが、何百人という規模の争いになったら、ネアンデルタール人にはまったく勝ち目がなかったはずだ。彼らはライオンの居場所についての情報は共有できたが、部族の精霊についての物語を語ったり、改訂したりすることは、おそらくできなかった。彼らは虚構を創作する能力を持たなかったので、大人数が効果的に協力できず、急速に変化していく問題に社会的行動を適応させることもできなかった。

個体の能力で見れば、個々のサピエンスは他の人類種に特別勝るわけではない。だが、「虚構」によって大規模に協力し、行動パターンを柔軟に変化させることのできる「サピエンスという種」は、他の人類種を簡単に駆逐してしまえるくらい強かった。

POINT

  • 約7年前に「認知革命」が起こり、サピエンスは「虚構」を信じられるようになった
  • 「虚構」は、「大規模な協力」と「圧倒的なスピードでの行動パターンの変化」を可能にした
『サピエンス全史』は何が衝撃的だったのか?サピエンスの「罪」と「能力」について

 

第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし

サピエンスは、約1万年前から農耕を始め、過去200年前ほどから都市労働者やオフィスワーカーとして働くようになった。しかしその年月は、私たちの祖先が狩猟と採集をして過ごしてきた膨大な時間と比べて、遺伝子が適応する間がないほど短い。そのため、いまだにサピエンスの特徴のほとんどを、狩猟採集民の時代に形成されたものが占める。

「狩猟採集民の特徴」と「現代の環境」は、多くの齟齬を起こしている。3万年前の狩猟採集民が手に入れられる甘い食べ物は、熟れた果実くらいしかなく、それを見つけたときは、他の動物に食べつくされる前に素早く自分で食べてしまうのが理に適った行動だった。そのため、カロリーの高い食べ物を見つけるとすぐに食べたくなる本能は、私たちの遺伝子に刻まれているのだが、それと「現代の環境」とに齟齬があり、豊かな社会においては肥満が深刻な問題になる。

実は、狩猟採集生活は、多くの人が想像するほど貧しいものではなく、むしろ農耕民の暮らしよりずっと豊かだった。現代人と比べても、労働時間は短く、退屈な単純作業のような仕事もなく、手に入る食物には多様性があり健康的で、単一の作物に頼る農耕社会と比べても飢えるリスクはずっと少なかった。また、家畜に由来する感染症の被害を受けずに済んだので、病気の被害も少なかった。

研究によって太古の生活が明らかになるにつれ、刺激的な仕事、短い労働時間、健康的な食生活、飢えや病気のリスクの少なさなどから、多くの専門家が、農耕以前の狩猟採集社会を「原初の豊かな社会」と定義するに至った。

一方で、過去の痕跡から健康状態や平均寿命などを類推することはできても、暮らしの詳細については、確かなことがわからない場合が多い。古代の狩猟採集民が使った道具の大半は木で出来ていたからだ。また、信仰や人間関係や習慣などについても、多くが謎に包まれている。

彼らがどの霊に祈っていたのかや、どのような祝祭を催していたのか、あるいは、どのようなタブーを遵守していたのかはわからない。そしてこれが肝心だが、彼らがどのような物語を語っていたかを私たちは知らない。これは人類史の理解に空いた最大級の穴と言えるだろう。

狩猟採集民の文化がどのようなものだったかを類推する手がかりとしては、現代まで生き延びている狩猟採集社会が研究の対象になる。もちろん、彼らに当てはまることが何万年も前の社会に当てはまると考えることは難しい。

ただ、ハラリが言うには、最も注目に値する狩猟採集社会の特徴は、その「多様性」だ。狩猟採集の時代は、現代と比べてまったく統一が進んでいない多様な世界であり、それゆえに、狩猟採集社会が一般的にどのようなものだったのかを述べることはできない。

POINT

  • 現在の我々の遺伝的性質のほとんどは、狩猟採集民の時代に形成されたものだ
  • 狩猟採集社会の生活は、農耕社会の生活よりも豊かだった
  • 狩猟採集社会の特徴は「多様性」だが、過去の彼らの生活を探る手がかりは失われた

 

第4章 史上最も危険な種

「狩猟採集社会は自然と共存していた」というイメージを持つ人は多いかもしれないが、ハラリはその欺瞞を指摘する。

農耕が始まる以前の狩猟採集民の時代から、サピエンスは、踏み入れた土地の生態系を荒らし回ってきた。多くの学者が、大型動物たちを絶滅させた罪を気候変動などになすりつけようともしてきたが、「人間のせいではない」とするのが難しい証拠がいくつも見つかっている。歴史上の様々な痕跡を眺めると、サピエンスは、紛れもない生態系の連続殺人犯だ。

一つの結論に必然的に導かれる。それは、サピエンス移住の第一波は生態学的惨事をもたらし、それは動物界を見舞った悲劇のうちでも、とりわけ規模が大きく、短時間で起こった、というのものだ。最大の被害者は毛皮で覆われた大型の動物たちだった。認知革命のころの地球には、体重が50キログラムを超える大型の陸上哺乳動物がおよそ200属生息していた。それが、農業革命のころには、100属ほどしか残っていなかった。ホモ・サピエンスは、車輪や書記、鉄器を発明するはるか以前に、地球の大型動物のおよそ半数を絶滅に追い込んだのだ。

サピエンスは、「虚構」によってゲノムを介さずに行動パターンを変化させることができる。一方で、緩やかに変化していく生態系は、サピエンスの驚異的な変化のスピードについていくことができない。多くの大型動物は、サピエンスの驚異に適応するように進化する必要があったが、それを果たす前に狩り尽くされて絶滅した。

POINT

  • 狩猟採集の時代から、サピエンスは他の生物を滅ぼしまくっていた
  • 「虚構」によって行動パターンを変化させるサピエンスの驚異的なスピードに、「遺伝子」によって行動パターンが変化する他の生物は対応できなかった

 

第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇

約7万年前に、「虚構」を信じられるようになる「認知革命」が起こったが、約1万2000年前には、作物を育て、動物を家畜化し、定住を行う「農業革命」が起こった。

一方で、「農業革命は罠だったのだ」とハラリは述べる。「農耕によって人々は楽に食糧を生み出し、より豊かになった」という幸せな話ではなく、むしろ、農耕のせいで人々の生活は以前よりもずっと悲惨なものになった。

農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。

ハラリは、「小麦が自らに有利な形でサピエンスを操り、サピエンスは小麦に家畜化された」というユニークな見方をしている。小麦の魅力にとりつかれた人類は、小麦のために一箇所に定住せざるを得なくなり、小麦の世話のために生涯のほとんどの時間を費やすようになる。小麦は、狩猟採集社会よりも劣悪で不健康な食を提供し、天候や病気や虫害によって人々の生活のリスクが増し、富の蓄積により格差が発生することで、より多くの暴力に晒されやすくなってしまった。

長期的な視野で見れば、小麦は人類の発展に大きく寄与している。単位面積当たりの土地から多くの食物が得られるようになったので、サピエンスの人口は大きく増えた。しかし、その当時の個々の人間が、未来の人類の発展のために、自主的に劣悪な環境のなか栄養失調で死んでいく苦しみを受け入れようと思ったわけではない。「個の幸福」と「種の繁栄」は別物だ。

ハラリは、「人々は、自らの決定がもたらす結果の全貌を捉え切れない」と主張する。もともとは生活を楽にするためのものだった農耕によって、より生活が苦しくなった。それでも人口が増えすぎてしまったので、狩猟採集には後戻りできなくなっていた。農耕などの技術革新に抵抗する勢力もいたが、農耕民は狩猟民を数で圧倒できたので、生き残るために全員が農耕を始めなければならなくなる。

もっとも、以上のような現象は農耕に限った話でもない。

歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。人々は、ある贅沢品にいったん慣れてしまうと、それを当たり前と思うようになる。そのうち、それに頼り始める。そしてついには、それなしでは生きられなくなる。私たちの時代から、別の馴染み深い例を引こう。私たちは過去数十年間に、洗濯機、電気掃除機、食器洗い機、電話、携帯電話、コンピューター、電子メールなど、時間を節約して生活にゆとりをもたらしてくれるはずの、無数の機会や手段を発明した。以前は、手紙を書き、封筒に宛先を書いて切手を貼り、ポストに持っていくのはけっこうな手間だった。そして、返事がくるまでに何日も、何週間も、ことによると何ヶ月もかかることがあった。それが今では、電子メールを地球の裏側までさっと送り、(相手がオンラインならば)一分後には返事が受け取れる。私は以前の手間と暇をすべて省けたわけだが、前よりもゆとりある生活を送っているだろうか?

人々はより楽な生活を求めるが、その力は、誰もが想像したり望んだりしていなかった形で世界を変える。当時の人間の誰もが「農業革命」のようなことを意図したわけではなかったが、一度それが起こると、後戻りする道は閉ざされてしまう。

また、サピエンスは、「農業革命」によって家畜化された被害者であると同時に、加害者でもある。

人間たちは、自分たちの必要性に合わせて動物を選別し、家畜を作り出してきた。気性の荒い個体や好奇心旺盛な個体が選択的に殺され、従順な個体が生き残り、世代を経るごとに、家畜は従順になっていく。

進化の視点に立つと、牛、ブタ、ニワトリたちは成功者だが、同時にそのような家畜化された動物たちは、「これまで生を受けた生き物のうちでも、極端なまでに惨めなのではないか」とハラリは疑問を投げかける。多くの動物たちが、人間の都合の良いように、残酷な形で改造されていったのだ。

「進化上の成功」と「その個体が幸福であること」がイコールになるわけではないことは、歴史上の教訓だ。

POINT

  • 「農業革命」によって、サピエンスは「種」としては繁栄したが、「個」としての幸福度は下がった
  • 人間は、自らの決定がもたらす結果の全貌を捉えきれず、想像もしていなかった形で世界を変えてしまう
  • サピエンスは「農業革命」の被害者でもあるが、数多くの動物たちを残酷な形で家畜化してきた加害者でもある

 

第6章 神話による社会の拡大

狩猟採集社会は、長期的な計画には限界があった。一方で農耕社会では、開墾して畑を増やしたり、灌漑水路を掘ったり、作物を追加で植えつけたりと、未来に対して何らかの手を打つことが可能だった。対処可能なものであるからこそ、「未来」がそれ以前とは比べ物にならないほど重要なものになった。人々は常に「未来」を視野に入れて活動するようになり、農耕が始まってから、未来に対する不安は、人間の心という舞台の常連となった。

一方で、過酷な労働を続けても、農耕民が長期的な経済的安定を達成できることは少なく、至る所で支配層やエリート層が台頭するようになった。多くの農耕民は、余剰の食料を徴収され、生きていくのが精一杯の状況に置かれがちだったが、富の蓄積は、政治や戦争、芸術、哲学の原動力となった。

大きな村落は町になり、都市になり、王国や商業ネットワークとして結び付けられた。一方、たとえ倉庫にあり余るほどの余剰があったとしても、争いは絶えなかった。狩猟採集時代に作られたサピエンスの生物学的特徴は、小さな生活集団にしか適応していなかった。つまり大規模な協力のための本能を人間は持っていないのだ。「虚構」による社会の変化のスピードは、当のサピエンス自身にとっても早すぎるものだった。そして、様々な争いを引き起こしながらも、「虚構」は、より大規模な協力のネットワークを築き上げるようになっていった。

古代メソポタミアの都市から秦やローマの帝国まで、こうした協力ネットワークは、「想像上の秩序」だった。すなわち、それらを維持していた社会規範は、しっかり根づいた本能や個人的な面識ではなく、共有された神話を信じる気持ちに基づいていたのだ。

社会秩序は、いくら普遍的な原理に基づいているように見えるものでも、サピエンスの豊かな想像による創作物にすぎないと、ハラリは言う。

例えば、バビロニア帝国のハンムラビ法典は、大規模な「秩序」を成り立たせることに成功していたが、その内容は、現代の価値観からすればひどく差別的なものだった。一方で、例えば、現代の「平等」という価値観も、何ら生物学的な事実を反映させたものではなく、ハンムラビ法典と同じような想像の産物だ。

しかし、生物学的な根拠が何もないにしても、「想像上の秩序」は、多数の人間が効果的に協力するための唯一の方法だとハラリは主張している。そして、そのような秩序は、「客観的」でもなく「主観的」でもなく、「共同主観的」なものだ。

「共同主観的」なものは、多くの個人の主観的意識を結ぶコミュニケーション・ネットワークの中に存在する。たとえ一個人が信念を変えても、あるいは、死にさえしても、ほとんど影響はない。だが、もしそのネットワークに含まれる人の大半が死んだり、信念を変えたりしたら、共同主観的現象は変化したり消えたりする。共同主観的現象は、悪意のある詐欺でも、取るに足りない見せかけでもない。放射能のような物理的現象とは違った形で存在するが、それでも世の中には非常に大きい影響を与えうる。歴史を動かす重大な要因の多くは、法律、貨幣、神々、国民といった、共同主観的なものだ。

「自由」や「平等」といった概念でさえ、客観的な事実を反映したものではなく、「共同主観的」な虚構だ。しかし、だからといって意味を持たないわけではなく、むしろ、虚構だからこそサピエンスの根幹を成している。

POINT

  • 農耕による富の蓄積が、より大規模な「虚構」のネットワークを生み出した
  • あらゆる価値観や社会秩序は「虚構」に過ぎないが、それこそがサピエンスの特徴である

 

第7章 書記体系の発明

サピエンスの社会秩序は想像上のものなので、DNAの複製を作るだけでは秩序を維持することができない。遺伝子を伝える他の生物とは違うやり方で、「共同主観」を引き継ぐ必要があった。

膨大な情報を有する複雑な社会を維持し続けるためには、「物語」を語るだけでは十分でなく、「数」という、従来とはまったく異なる種類の情報処理の方法が必要になった。

狩猟採集民は、樹に生っている果物の数を覚えておく必要などはなかったので、人間の脳は数を処理するようには進化してこなかった。一方で、大規模な秩序を維持するために数理的データの記憶は不可欠だ。そこで、紀元前3500年と紀元前3000年の間に、名も知れぬシュメールが、「書記」という、脳の外で情報を保存して処理するシステムを発明した。

書記の最初の任務は、ただ大量の数理的データを保存することだったが、やがて、目録を作って記憶を効率的に引き出す技術の有用性が重視されるようになり、人間はそれを鍛えるようになった。

このような引き出しのシステムを運営する人は、正常に機能するためには、普通の人間として考えるのをやめて、整理係や会計士として考えるように、頭をプログラムし直さなければならない。古代から今日に至るまで、誰もが知っているとおり、整理係や会計士は普通の人間とは違う思考法を採る。

「書記」は、もともと人間の意識の下働きとして生まれたが、それが主人になるような逆転が起こる。狩猟採集時代の人間の思考は、ひとつの考えに対して様々な取り留めのないものがくっついている自由連想的なものだが、それとかけ離れた論理的・体系的な思考法が重視されるようになっていく。

書記体系が人類の歴史に与えた最も重要な影響は、人類が世の中について考えたり、世の中を眺めたりする方法を、徐々に変えたことだ。自由連想と網羅的思考は、分類と官僚制に道を譲ったのだ。

POINT

  • サピエンスは「虚構」を次世代に引き継がなければならないが、社会が複雑になるにつれて「物語」だけでは足りず、「数」を必要とするようになった
  • 「書紀」という情報保存のシステムは、従来のサピエンスとかけ離れた思考法を要求したが、それを訓練して身につける必要性が高まっていった

 

第8章 想像上のヒエラルキーと差別

人間は、白人と黒人、貴族と平民、バラモンとシュードラ、富める者と貧しい者などといった、想像上のカテゴリーに人々を分類することで社会に秩序を生み出してきた。このような差別ときっぱり決別できた大型社会はいまだかつて存在しない。ヒエラルキーは秩序にとって重要な役割を果たし、それがあるからこそ見ず知らずの人々が効率的に協力し合える。人員が増えて社会が複雑になるほど差別が必要になる。

そして、差別や偏見は、たとえ偶然の歴史的状況から発生したものであっても、硬直した社会制度に変化し得る。例えば、白人が良質な機会を得やすい社会においては、黒人への偏見がむしろ世代を経るごとに高まっていき、「生物的に劣っている」と実際に信じられるまでになる。差別が社会秩序を固定化し、差別が差別を生む悪循環によって、それがより強固なものになっていく。

本来、生物学的な進化には目的がない。それらは多様に分化していくだけだ。一方で、差別や偏見から生じる文化は、想像上のものを、まるで生物学的な根拠があるものとして捉える傾向にある。

生物学的に決まっているものと、生物学的な神話を使って人々がたんに正当化しようとしているだけのものとを、私たちはどうすれば区別できるだろうか? 「生物学的作用は可能にし、文化は禁じる」というのが、有用な経験則だ。生物学的作用は非常に広範なスペクトルを喜んで許容する。人々に一部の可能性を実現させることを強い、別の可能性を禁じるのは文化だ。生物学的作用は女性が子供を産むことを可能にする。一部の文化は、女性がこの可能性を実現することを強いる。生物学的作用は男性どうしがセックスを楽しむことを可能にする。一部の文化は男性がこの可能性を実現することを禁じる。

文化は、不自然なことだけを禁じると主張する傾向にある。だが生物学の視点に立つと、不自然なものなどない。可能なことは何であれ、そもそも自然でもあるのだ。自然の法則に反する、真に不自然な行動などというものは存在しえないから、禁じる必要はない。男性が光合成をすることや、女性が高速より速く走ること、マイナスの電荷を帯びた電子が互いに引きつけ合うことを、わざわざ禁じようとした文化など、これまで一つとしてなかった。

ハラリは、「自然な」や「不自然な」という私たちの概念が、生物学からではなくキリスト教神学に由来することを喝破する。「自然な」という言葉は、「自然を創造した神の意図に一致した」という意味で使われていて、それは生物学的事実とはまったく関係ない虚構なのだ。

たとえば口は、最初期の多細胞生物が栄養分を体内に取り組む方法が必要だったので出現した。私たちは今もなおその目的で口を使うが、それ以外にも、キスをしたり、話したり、もし私たちがランボーなら手榴弾から安全ピンを引き抜いたりするのにも使う。線虫のような私たちの祖先が六億年前に口をそうした目的で使わなかったからというだけで、そのような使い方はみな不自然なのだろうか?

「不自然なことを禁じる」のは文化的なものであって、生物学的な視点に立てば、可能なことはすべて自然と言える。そのため、「○○は不自然だ」という主張は、生物学的な現実ではなく、特定の人間たちが信じる虚構を反映している。

POINT

  • 最初は単なる偶然から発生した差別や偏見が、時間を経るほど強固になっていき、生物学的な根拠のあるものと信じられるようになることがある
  • 生物学的な進化には目的がないので、「自然」「不自然」という主張は、それを言いたがる人たちが信じる虚構を反映しているに過ぎない

 

第9章 統一に向かう世界

「歴史には方向性があるのか?」という問いに対して、ハラリは「ある」と主張している。世界は「統一」に向かっている。

キリスト教の分裂や、モンゴル帝国の崩壊など、統一されたものが多様に向かう例は歴史に事欠かない。一方で、何十年、何百年という単位ではなく、何千年という単位で見れば、歴史は統一に進み続けている。「地球という惑星上に同時に存在する個別の人間社会の数を数えること」が、歴史の進む全般的な方向を理解する最善の方法とハラリは言う。

地球上には異なる人間社会がいくつ存在したのだろう? 紀元前一万年ごろ、この星には何千もの社会があった。紀元前2000年には、その数は数百、多くても数千まで減っていた。1450年には、その数はさらに激減していた。

長く広い視点で見れば、地球は、ものすごい勢いで「統一」に向かっている。

我々は、民族的なアイデンティティなどから、「純正(もともと)」の文化を主張したがるが、そのような純正な文化は、いまや地球上にひとつも残っていない。すべては「統一」の過程によって、もともとの形から何かしら変容してしまっているからだ。

今の人々は、それと認識しないうちにも、グローバルな価値観を受け入れ、グローバル社会を前提に思考するようになっている。いまだに「文明の衝突」が至るところで起こっているが、そのような衝突でさえ、共通の土台の上で、同じ概念を使って口論し、同じ武器を使って争うことになる。

正真正銘の「文明の衝突」は、耳の聞こえない人どうしの会話のようなものだ。どちらも相手の言っていることがわからない。今日、イランとアメリカが武力をちらつかせて脅し合うときには、両国とも国民国家や資本主義経済、国際的権利、原子物理学の言語で話している。

ハラリは、世界の「統一」を大きく進めたものとして、「貨幣」「帝国」「宗教」を挙げている。

POINT

  • かつていくつも存在した人間社会は、その数を確実に減らしてきた。歴史は「多様」から「統一」に向かっている
  • 世界中のほとんどの人が同じ概念を使って意思疎通できるという点で、世界はかなりの程度までグローバル化が進んでいる

 

第10章 最強の征服者、貨幣

統一に向かっていく世界において、極端なまでの寛容性と適応性を備えた征服者は、「貨幣」だ。

様々な民族や国民が、それぞれ異なる文化に属し、たいていのことに同意できなかった時期においても、すべての人たちが「お金」への信頼を共有していた。なぜそうなるかというと、「他者が望んでいるものには価値がある」という「需要と供給」の原理が働くからだ。お金の使い道がまったくわからなかった人も、自分以外の人がそれを猛烈に欲しがっていることを知れば、お金と自分の好きなものとを交換できることに気づくので、自らも金を猛烈に欲しがる人の一員となっていく。

宗教的信仰に関して同意できないキリスト教徒もイスラム教徒も、貨幣に対する信頼に関しては同意できる。なぜなら、宗教は特定のものを信じるように求めるが、貨幣は他の人々が特定のものを信じていることを信じるように求めるからだ。

貨幣は、「普遍的転換性」と「普遍的信頼性」という二つの原理を持ち、その特徴によって、膨大な数の見知らぬ人たちが交易や産業で効果的に協力し合えるようになった。一方、今までは、名誉、忠誠、道徳性、愛、といった「値のつけられないほど貴重な」ものへの信頼に基づいて成り立っていた家族やコミュニティは、「需要と供給」という「貨幣」の冷酷な法則に破壊されてしまう。

貨幣は強力な魅力で人々を惹き付けてきたが、だからこそ、社会にすんなり浸透したわけでもなかった。多くの人々が、貨幣に抵抗し、計算高い商人を打ちのめし、経済を作り変えさえしてきた。

人類の統一を純粋に経済的な過程として理解することはできない」とハラリは言う。

人類の経済史はデリケートなバランス芸だ。人々は貨幣に頼って、見知らぬ人との協力を促進するが、同時に、貨幣が人間の価値や親密な関係を損なうことを恐れている。貨幣の移動と交易を長きにわたって妨げてきたコミュニティのダムを、人々は一方の手で喜んで打ち壊す。だが、彼らはもう一方の手で、市場の力への隷属から社会や宗教、環境を守るために、新たなダムを築く。

POINT

  • 「貨幣」は、「需要と供給」という強力な原理によって、それまでの秩序を破壊しながら、より大きなスケールで見知らぬ人々を繋いだ
  • 「貨幣」は、強力であるがゆえに、人々に忌避され、貨幣に抵抗するいくつもの運動が起こった

 

第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン

「帝国」は、様々なアイデンティティを持った他の集団を自らの内側に取り込み、領土の拡大を図る。

今日では批判されがちな「帝国」だが、過去2500年間、「帝国」は世界で最も一般的な政治組織で、ほとんどの人類が帝国の中で暮らしてきた。たいていの文化は、征服者である帝国にゆっくり消化され、アイデンティティを同化させて帝国の一部になっていった。

帝国は、「全世界をその居住者全員の利益のために支配する」という思い込みを抱いている。そのため、帝国の支配には暴力が伴う一方で、民族的な排他性を越えた包括的・網羅的な傾向を併せ持ち、内に含んだ構成員に対して福祉的な責任を果たそうともする。

中国の支配階級は、近隣の人々や外国の臣民のことを、自らの帝国が文化の恩恵をもたらしてやらなければならない惨めな野蛮人たちとして扱った。天命が皇帝に授けられたのは、世界を搾取するためではなく、人類を教育するためだった。ローマ人も、野蛮人に平和と正義と洗練性を与えているのだと主張して、自らの支配を正当化した。

帝国はその悪しき側面と同時に、様々な恩恵をも与えてきた。そして、帝国に反抗しようとする人でさえ、帝国から得た恩恵を反抗のために利用する。

ヨーロッパ人の征服者に反抗しようとする地元の集団は、ヨーロッパ的な帝国の価値観である、自由主義、資本主義、共産主義、国民主義、人権というイデオロギーを旗印に、対等の地位を要求するための闘争を行った。

歴史を善人と悪人にすぱっと分け、帝国はすべて悪人の側に含めるというのは魅力的な発想だ。帝国は大多数の血の上に築かれ、迫害と戦争を通して権力を維持してきたのだから。だが、今日の文化の大半は、帝国の遺産に基づいている。もし帝国は悪いと決まっているのなら、私たちはいったいどのような存在ということになるのか?

人類の文化から帝国主義を取り除こうとする思想集団や政治的運動がいくつもある。帝国主義を排せば、罪に犯されていない、無垢で純正な文明が残るというのだ。こうしたイデオロギーは、良くても幼稚で、最悪の場合には、粗暴な国民主義や頑迷さを取り繕う不誠実な見せかけの役を果たす。有史時代の幕開けに現れた無数の文化のうちには、無垢で、罪に損なわれておらず、他の社会に毒されていないものがあったと主張することは妥当かもしれない。だが、その黎明期以降、そのような主張のできる文化は一つもない。現在、そのような文化が地上に存在しないのは確実だ。人類の文化はすべて、少なくとも部分的には帝国と帝国主義文明の遺産であり、どんな学術的手段あるいは政治的手段をもってしても、患者の命を奪うことなく帝国の遺産を切除することはできない。

我々が帝国を批判しようとする思考法それ自体が、帝国から授かったものでもあるのだ。そして、帝国に侵略される被害者である「純正」の文化としてしばしば持ち上げられるものもまた、過去の帝国と同じように残酷な迫害と戦争の過程で生まれてきたもの過ぎない。

そして、世界が統一に向かっていくなか、地球上の多くの人が、グローバルな視点で物事を考えるようになった。外側を取り込もうとする帝国の動きは、最終的に、地球を統一する「グローバル帝国」になる。

いまや地球上のあらゆる人間が、「グローバル」という帝国に飲み込まれつつある

二十一世紀が進むにつれ、国民主義は急速に衰えている。しだいに多くの人が、特定の民族や国籍の人ではなく全人類が政治的権力の正当な源泉であると信じ、人権を擁護して全人類の利益を守ることが政治の指針であるべきだと考えるようになってきている。だとすれば、200近い独立国があるというのは、その邪魔にこそなれ、助けにはならない。スウェーデン人も、インドネシア人も、ナイジェリア人も同じ人権を享受してしかるべきなのだから、単一のグローバルな政府が人権を擁護するほうが簡単ではないか?

とハラリは主張するが、このような考え方は、国家や民族を重視する多くの人にとって受け入れがたいものだろう。一方で、現代の国家がかつてより独立性を失っているのは事実だ。何らかの決定をしようとするとき、「グローバル帝国」を無視して自らが適切だと思う判断を貫けるような国は、いまや一つもない。

現代のすべての国家は、経済政策にしろ、環境政策にしろ、戦争にしろ、あらゆる面で、国際的な基準に従うことを余儀なくされている。

我々の世界は、「グローバル帝国」に飲み込まれつつあるし、その影響力から逃れることのできる人間の数は減り続けている。

POINT

  • 外の集団を自らの内に取り込もうとする「帝国」は、過去2500年間、世界でもっとも一般的な政治組織だった
  • 帝国は暴力的であると同時に、福祉的な側面をも持ち合わせている。帝国に吸収された後に反抗を試みる集団も、帝国から授かった概念を使って帝国を批判してきた
  • 帝国の侵略を受けた被害者と見られがちな集団も、過去に帝国として周辺を取り込みながら形作られたものであり、罪を犯したことのない「純正な文明」は今の地球には存在しない
  • 外側を取り込もうとする帝国の動きは「グローバル」という価値観を作り出し、いまや地球上のあらゆる人間がそれに飲み込まれつつある

 

 

以上が、『サピエンス全史』の、上巻分までの要約と解説になる。

『サピエンス全史』下巻分の要約と解説は以下。

『サピエンス全史(下巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】

 

 

なお、サピエンス全史に関しては、「簡単なまとめ」や「批判的レビュー」なども書いているので、よければ以下も参考にしてほしい。

『サピエンス全史』の超簡単なまとめ!【著者は何が言いたかったのか?】 『サピエンス全史』の批判的なレビュー

 

2 COMMENTS

匿名

ネット記事なのに要約の質が高い

自分も一度読みましたが新しい発見があるくらいでした、ありがとう

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第二章のまとめが「約7年前に「認知革命」が起こり、サピエンスは「虚構」を信じられるようになった」になっています。
「約7万年前」の間違いではないでしょうか。
なお、修正されたらこのコメントは削除してください。

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