『サピエンス全史(下巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』の下巻分を要約&解説していく。

上巻分が未読であれば、先に以下を読むことを推奨。

『サピエンス全史(上巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】

第12章 宗教という超人間的秩序

「貨幣」や「帝国」と並び、「宗教」もまた、社会秩序を生み出す要素であり、混ざり合いながら「統一」に向かってきたものでもある。

多くの宗教は、「一神教」に飲み込まれてきた。

一世紀初頭は、世界に一神教信者はほとんどいなかったが、今では、東アジア以外の人々は何かしらの一神教を信奉していることが多い。一神教が、その排他的で攻撃的な性格ゆえに信者を広げ続けてきたのは事実だが、同時に一神教は、アニミズム信仰や多神教、二元論の宗教を自らの内に取り込んできた「混合主義」的なものでもある。

じつのところ一神教は、歴史上の展開を見ると、一神教や二元論、多神教、アニミズムの遺産が、単一の神聖な傘下で入り乱れている万華鏡のようなものだ。平均的なキリスト教徒は一神教の絶対神を信じているが、二元論的な悪魔や、多神論的な聖人たち、アニミズム的な死者の霊も信じている。このように異なるばかりか矛盾さえする考え方を同時に公然と是認し、さまざまな起源の儀式や慣行を組み合わせることを、宗教学者たちは混合主義と呼んでいる。じつは、混合主義こそが、唯一の偉大な世界的宗教なのかもしれない。

実は、「多神教」や「アニミズム信仰」も、さまざまなものの背後にある「至高の神的存在」という概念を持っていることが多い。ただ、アニミズムや多神教的における「絶対神」は、絶対的な存在であるからこそ、自分たちをえこひいきしてくれるとは考えなかった。戦争での勝利や子孫の繁栄など、自らの利益のために祈るのであれば、絶対神よりも下位の神々に祈るのが妥当であり、それぞれの細かな要求を司るために複数の神々が生まれることになる。キリスト教は、その考えを取り込み、多神教の神々と似たような役割を果たす「聖人」を見出した。

かつて隆盛を極めた「二元論の宗教」は、善悪の問題を論じる上で説得力のある世界観を提示することができた。「良いものと悪いものが争っている」と考えるなら、善悪の概念を説明しやすい。その一方で、一神教は「なぜ万能の神が世界を作ったのに、世の中には悪があるのか」という問題を処理するのに苦労する。やがて一神教は、二元論の世界観をも自らのうちに取り入れ、「天国と地獄」「天使と悪魔」などの概念を発明した。

「聖人」にしても「悪魔」にしても、一神教の原理とは矛盾する概念だ。矛盾するものをうまく取り込んできたからこそ、大勢に受け入れられるものになっているのであり、その意味で、世界的な宗教ほど「混合主義」的なものになりやすい。

また、「仏教」は、神の存在ではなく、「苦しみは渇愛から生じる」という法則と、そこからの逃れるための方法の追求から始まった宗教だ。だが仏教もまた、多くの信者を獲得する過程で、現実的な問題に対しての助けを求めるための「仏」や「菩薩」に祈り始めるようになる。

ハラリは、自由主義、共産主義、資本主義、国家主義などの「イデオロギー」もまた、「宗教」と何ら遜色のない「超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系」だと言う。

イスラム教はもちろん共産主義とは違う。イスラム教は、世界を支配している超人間的な秩序を、万物の創造主である神の命令と見なすのに対して、ソ連の共産主義は、神の存在を信じていなかったからだ。だが、仏教も神々を軽視するが、たいてい宗教に分類される。仏教徒と同様、共産主義者も、人間の行動を導くべきものとして、自然の普遍の法則という超人間的秩序を信じている。仏教徒はその自然の法則がゴータマ・シッダールタによって発見されたと信じているのに対して、共産主義者はその法則がカール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルス、ウラジーミル・イリイチ・レーニンによって発見されたと信じていた。

このような説明は、挑戦的で、なかなか受け入れられにくい考えにも見える。

だがハラリは、現在「宗教」と呼ばれているものが、必ずしも神を想定しておらず、現在「イデオロギー」と呼ばれるものが、神への信仰に多くを頼っていることを指摘する。

このような論法を非常に不快に感じる読者もいるかもしれない。もし、共産主義を宗教ではなくイデオロギーと呼ぶほうがしっくりくるなら、そう呼び続けてもらっていっこうにかまわない。どちらにしても同じことだ。私たちは信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくという、神不在のイデオロギーに区分することができる。だがそうすると、一貫性を保つためには、少なくとも仏教や神道、ストア主義のいくつかの宗派を宗教ではなくイデオロギーに分類せざるをえなくなる。逆に、神への信仰が現代の多くのイデオロギー内部に根強く残っており、自由主義を筆頭に、そのいくつかは、この信念抜きではほとんど意味を成さないことにも留意するべきだ。

ハラリが言うには、例えば「自由主義」は、「各個人には自由で永遠の魂があるとするキリスト教の伝統的な信念の直接の遺産」だ。

自由主義者は、神という概念を持ち出さなければ、個々のサピエンスのどこがそれほど特別なのか説明することができなくなる。そして、そのような「超人間的な秩序」を、進歩する生命科学が脅かし始めている。

自由主義の人間至上主義の信条と、生命科学の最新の成果との間には、巨大な溝が口を開けつつあり、私たちはもはやそれを無視し続けるのは難しい。私たちの自由主義的な政治制度と司法制度は、誰もが不可分で変えることのできない神聖な内なる性質を持っているという信念に基づいており、その性質が世界に意味を与え、あらゆる倫理的権威や政治的権威の源泉になっている。これは、各個人の中に自由で永遠の魂が宿っているという伝統的なキリスト教の信念の生まれ変わりだ。だが過去200年間に、生命科学はこの信念を徹底的に切り崩した。

「宗教」は、「貨幣」や「帝国」と同じように、さまざまなものを取り込みながら、人々に「秩序」を提供してきたし、現在「イデオロギー」と呼ばれるものも宗教と地続きだ。しかし、発展する生命科学が、これまでの「超人間的秩序」に疑問を投げかけようとしている。

POINT

  • 他の信仰を改宗させようとする「一神教」が信者を増やし続けたが、その過程で「アニミズム」「多神教的」「二元論の宗教」の概念を取り入れたので、現在の「一神教」は「混合主義」の宗教である
  • 宗教とイデオロギーを厳密に区別するのは難しく、どちらも「超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系」であり、虚構にすぎない
  • 「個々のサピエンスには何の神聖さもない」という事実を突きつける「生命科学」の進化が、宗教やイデオロギーのような「超人間的な秩序」を脅かしている
『サピエンス全史』の宗教とイデオロギーの解説が面白い

 

第13章 歴史の必然と謎めいた選択

ハラリは、この地球が、小さな文化から大きな文化へ、やがては単一のグローバルな社会へと向かっていくことを、「歴史の必然」と考えている。一方で、いまのような、英語話者が多いことや、キリスト教やイスラム教が多くの秩序を形成していることや、西暦1500年頃というタイミングで「科学革命」と呼ばれる変化が起こったことに対しては、「なぜそうだったのか」という説明は難しいと言う。

歴史という結果に対しては、他の可能性をいくらでも考えられるが、それを立証することはできない。多くの人は、歴史の出来事が必然的だった理由を後知恵で説明しようとするが、歴史学者は後付けの決定論的な考え方を避ける傾向があるし、それこそが歴史という学問の特徴だとハラリは言う。

ほとんどの歴史学者は、そのような決定論的な説には懐疑的になる傾向にある。それが、歴史という学問の特徴の一つだ。特定の歴史上の時期について知れば知るほど、物事が別の形ではなくある特定の形で起こった理由を説明するのが難しくなるのだ。

歴史を学び、当時生きていた人々の視点に立って考えてみると、まったく予想できなかったようなことが、未来に起こっていることがわかる。そして、これから、現在からまったく予測し得なかったことが起こるというのが、歴史の経験則だ。

後から振り返って必然に思えることも、当時はおよそ明確でなかったというのが歴史の鉄則だ。今日でもそれは変わらない。私たちは世界的な経済危機を脱したのか、それとも、最悪の事態はまだこの後にやって来るのか? 中国はこのまま成長を続け、世界の超大国になるのか? アメリカは覇権を失うのか? 一神教の原理主義の高まりは未来の波なのか、それとも局地的な渦にすぎず、長期的重要性などほとんどないのか? 私たちの行きつく先は生態学的大惨事なのか、それともテクノロジーの楽園なのか? こうした疑問のどれについても、説得力のある議論ができるだろうが、確実なところは知りようがない。数十年後、人々は今を振り返って、これらすべての疑問に対する答えは明白だったと考えるだろう。

人々は、過去に起こったことは今からすれば当然の結果だったと考えがちだ。だがハラリは、「その時代の人にとって、とうていありえそうもないと思える可能性がしばしば現実となることは、どうしても強調しておかなければならない」と述べる。

POINT

  • 仮に歴史が繰り返されたとして、今と同じような文化になるとは限らないが、「小さな文化が単一のグローバル社会へと向かっていく傾向」は必然的なものだろうと、著者は考えている
  • 歴史を学ぶと、その時代の人々にとってまったく予想できなかったことが起こっていることがわかるし、それは現在にも当てはまる

 

第14章 無知の発見と近代科学の成立

「農業革命」はサピエンスの人口を増やしたが、それでも、1500年時点における全世界のサピエンスの数はおよそ5億人だった。過去500年に起こった「科学革命」によって、そこからたった500年のうちに、人口は約14倍、生産量は約240倍、エネルギー消費量は115倍に増えたと試算されている。

科学革命」以前にも、個々の人々がそれぞれに何かを発見したり発明するということはあったしかし過去500年の「科学革命」は、何らかのイデオロギーのもとに、大勢の人が協力して科学に向かい、莫大な投資が科学に注ぎ込まれるという点で、これまでとは性質の違う変化だった。

そのような「科学革命」のためには、「集団的に無知を認める」という革命的な伝統の変化を必要とした。

科学革命はこれまで、知識の革命ではなかった。何よりも、無知の革命だった。科学革命の発端は、人類は自らにとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だった。

伝統的な価値観は、「重要なことはすべて説明されている」と考えるが、そこからの脱却が科学革命のために必要だった。「近代科学は、最も重要な疑問に関して集団的無知を公に認めるという点で、無類の知識の伝統」であり、この転換によって「科学の発展によって世の中が進歩していく」近代科学が可能になった。

科学革命以前は、人類の文化のほとんどは進歩というものを信じていなかった。人々は、黄金時代は過去にあり、世界は仮に衰退していないまでも停滞していると考えていた。長年積み重ねてきた叡智を厳しく固守すれば、古き良き時代を取り戻せるかもしれず、人間の創意工夫は日常生活のあちこちの面を向上させられるかもしれない。だが、人類の実際的な知識を使って、この世の根本的な諸問題を克復するのは不可能だと思われていた。知るべきことをすべて知っていたムハンマドやイエス、ブッダ、孔子さえもが飢餓や疫病、貧困、戦争をこの世からなくせなかったのだから、私たちにそんなことがどうしてできるだろう?

伝統的な価値観から抜け出すことで「科学革命」が起こったが、とはいえ、科学や宗教やイデオロギーと決して無関係ではない。近代科学の特徴は「集団的にそれを行う」ことであり、そのためには何らかの優先順位を必要とするからだ。

「科学革命」が爆発的な成果をあげたのは、それが「帝国主義」「資本主義」というイデオロギーと結託したからだとハラリは主張する。

科学は自らの優先順位を設定できない。また、自らが発見した物事をどうするかも決められない。たとえば、純粋に科学的な視点に立てば、遺伝学の分野で深まる知識をどうすべきかは不明だ。この知識を使って癌を治したり、遺伝子操作した超人の人種を生み出したり、特大の乳房を持った乳牛を造り出したりするべきなのか? 自由主義の政府や共産主義の政府、ナチスの政府、資本主義の企業は、まったく同じ科学的発見をまったく異なる目的に使うであろうことは明らかで、そのうちどれを選ぶべきかについては、科学的な根拠はない。

つまり、科学研究は宗教やイデオロギーと提携した場合にのみ栄えることができる。イデオロギーは研究の費用を正当化する。それと引き換えに、イデオロギーは科学研究の優先順位に影響を及ぼし、発見された物事をどうするか決める。

現実的に、科学の発展のために投資を行う上で、何らかの優先順位をつけることは避けられない。一方で、「科学」それ自体は「何がより重要か?」という疑問に答えることができない。そのため、近代科学は、その原動力として、何らかのイデオロギーと提携する必要があり、その重要なパートナーが「帝国主義」と「資本主義」だった。

POINT

  • 「科学革命」は、これまでと異質なスピードで、世界を飛躍的に発展させた
  • 「集団的に無知を認める」という革命的な伝統の変化が、「科学革命」の基礎になった
  • 「科学」それ自体は投資の優先順位を決められないので、「帝国主義」や「資本主義」などのイデオロギーと結託しなければ「革命革命」は成り立たない
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第15章 科学と帝国の融合

「科学革命」の立役者になったヨーロッパの「帝国主義」は、それ以前の帝国主義とは性質が異なっていた。かつての帝国は、自分たちはすでに重要なことを知っていると考え、その世界観を広めることを目的に侵略を行った。そして、近くの地域に対してだけ支配を拡大しようとした。近隣を支配していった結果として大帝国になった場合もあるが、わざわざ海を隔てた遠くの地域を支配しに行こうとは考えなかった。一方で、ヨーロッパ帝国は、遠く離れた未開の地に積極的に乗り出そうとした。

ヨーロッパ帝国は、テクノロジーの面で同時代のアジアより優れていたわけではなかった。例えば同じ時期の中国も、アメリカ大陸に到達できるほどの技術を持っていた。しかし、中国はそこにまったく関心を持っていなかった。

ヨーロッパ帝国のイデオロギーは、「無知」を発見していた。無知を自覚し、新たな知識を獲得することが自らの力になると信じることで、「探検」が可能になる。

「科学による知識獲得の方法」と「遠い地の侵略を目指す帝国のイデオロギー」が結びついたヨーロッパの帝国が、世界を侵略した。

近代の科学と帝国は、水平線の向こうには何か重要なもの、つまり探索して支配するべきものが待ち受けているかもしれないという、居ても立ってもいられない気持ちに駆り立てられていた。とはいえ、科学と帝国の結びつきには、それよりもはるかに深いものがあった。動機が同じだっただけではなく、帝国を築く人たちの慣行と科学者の慣行とは切り離せなかったのだ。近代のヨーロッパ人にとって、帝国建設は科学的な事業であり、科学の学問領域の確立は帝国の事業だった。

対象を知れば侵略する上で有利に立てるという「帝国」の目的と、新しい知識を求める「科学」との利害が一致し、ふたつは極めて深いパートナーになることができた。

科学が帝国に与えたのは、侵略のための実用的な知識や技術だけではない。「帝国」は、科学によって自らの侵略行為を正当化した。多くの帝国主義者たちは、実質的には搾取を行いながら、それを進歩的で前向きな事業と考えることができた。帝国による侵略は、征服される人たちにとっても望ましいことの多い利他的な事業であると、進歩していく科学によってお墨付きを与えられたのだ。それと引き換えに、「科学」には莫大な投資が注ぎ込まれた。

科学者は帝国主義の事業に、実用的な知識やイデオロギー面での正当性、テクノロジー上の道具を与えてきた。こういった貢献がなければ、ヨーロッパ人が世界を制服できたかどうかははなはだ疑問だ。征服者は、情報と保護を与え、あらゆる種類の奇妙なプロジェクトや魅力的なプロジェクトを支援し、地球の隅々にまで科学的な考え方を広めて、科学者に報いた。帝国の支援なくしては、近代科学が大きな進歩を遂げていたかどうかは疑わしい。科学の領域のほとんどが、帝国の成長に尽くす下僕として始まり、それらの領域での発見や収集、施設、研究成果の多くが、陸軍の士官や海軍の艦長、帝国の総督の寛大なる援助のおかげだった。

もっとも、「科学」を支えたのは「帝国」だけではない。それに加えて、「資本主義」という重要なイデオロギーが生まれ、これがなければ科学も帝国も、ここまで隆盛することはなかっただろうとハラリは述べる。

POINT

  • 無知を自覚し、知識の獲得が力になることを知ったヨーロッパの帝国が、積極的に海を隔てた地に乗り出そうとした
  • 「帝国」と「科学」の利害が一致することで、「ヨーロッパ帝国」は世界を席巻し、「科学革命」はそれまでと隔絶したスケールの成果をあげた

 

第16章 拡大するパイという資本主義のマジック

実は、「科学革命」以前の歴史の大半を通して、人間一人あたりの生産量はほとんど変化しなかった。なぜなら、「将来により多くの利益を得られる」という信用に基づく投資が起こらなかったからだ。「信用」という概念が存在しなかったわけではなく、たんに現在よりも未来のほうが良いものになることが信じられていなかった。

「資本主義」のイデオロギー以前は、世の中の富の総量は限られたものと考えられていた。「自分が多く儲ければ、そのぶんだけ他の人の儲けが少なくなる」という考え方が一般的だったのだ。例えば、何らかの店を始めて繁盛することは、他の店の客足を奪うことであり、金を稼ぐことは悪いことと見なされがちだった。

「科学」による新たな発見は、「拡大するパイ」という資本主義のマジックに説得力を与えた。そして、「儲ける」ことが、自分のみならず他の誰かのためにもなると、多くの人が信じられるようになったのだ。

経済成長は永久に続くという資本主義の信念は、この宇宙に関して私たちが持つほぼすべての知識と矛盾する。獲物となるヒツジの供給が無限に増え続けると信じているオオカミの群れがあったとしたら、愚かとしか言いようがない。それにもかかわらず、人類の経済は近代を通して飛躍的な成長を遂げてきた。それはひとえに、科学者たちが何年かおきに新たな発見をしたり、斬新な装置を考案したりしてきたおかげだ。アメリカ大陸の発見然り、内燃機関や遺伝子操作したヒツジ然り。紙幣を発行するのは政府と中央銀行だが、けっきょくのところ、それに見合った価値を生み出すのは科学者なのだ。

「パイが拡大していく」という考えは、人間の実感に大きく反したものだ。しかし、新しい発見を続ける「科学」が、「資本主義」のイデオロギーに説得力を与えた。

実際に生産性は上がり続け、人口が大きく増加しながらも、平均的な生活水準も良くなっていった。科学が資本主義に説得力を与え、それによって科学に大規模な投資が与えられるループが起こった。

「科学」が「帝国主義」と結びついたのと同じく、「科学」と「資本主義」も、結託しながら、爆発的なスピードで発展していった。

POINT

  • 「科学革命」以前は、富の総量は限られたものだと考えられており、将来に利益を得られることを信用する「投資」が起こりにくかった
  • 「今より未来のほうが多くの富を得られる」という「資本主義」のイデオロギーに、「科学」による生産性の向上が説得力を与えた
  • 「科学」と「資本主義」が結託することで、爆発的な科学の進歩と経済成長が起こった
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第17章 産業の推進力

18世紀から19世紀にかけて起こった「産業革命」は、エネルギーとその変換における革命を起こした。経済成長はエネルギーと原材料を必要とするが、エネルギーは有限であるというかつての常識に反して、科学の新しい発見によって、人間が使えるエネルギーの総量が増え続けていった。また、エネルギーを変換する方法にもイノベーションが生まれることで、原材料の不足という問題も解決することができた。

ハラリは、「産業革命は、何よりもまず、第二次農業革命だったのだ」とも述べている。産業革命によって農業の効率が飛躍的に向上したがゆえに、多くの人が農業以外の仕事に携われるようになった。一方でそれは、工業化された畜産業という、あまりに残酷な業態をも生み出した。

資本主義は膨大な供給を生み出したが、やがて供給が需要を追い越し始め、「いったい誰がこれほど多くのものを買うのか?」という新しい問題が生じるようになった。現代の資本主義経済は、存続するために絶えず経済成長を求められるので、倹約を否定して消費こそが好ましいと見なす「消費主義」という、かつてとは正反対の価値体系が登場した。

利益は浪費されてはならず、生産に再投資すべきであるとする実業家の資本主義の価値体系と、消費主義との価値体系との折り合いを、どうすればつけられるか? じつに単純な話だ。過去の各時代にもそうだったように、今もエリートと大衆の間には分業がある。中世のヨーロッパでは、貴族階級の人々は派手に散財して贅沢をしたのに対して、農民たちはわずかのお金も無駄にせず、質素に暮らした。今日、状況は逆転した。豊かな人々は細心の注意を払って資産や投資を管理しているのに対して、裕福ではない人々は本当は必要のない自動車やテレビを買って借金に嵌る。

資本主義と消費主義の価値体系は、表裏一体であり、二つの戒律が合わさったものだ。富める者の至高の戒律は、「投資せよ!」であり、それ以外の人々の至高の戒律は「買え!」だ。

生産に再投資する「資本主義」だけでは需要が間に合わなくなり、「資本主義」の存続のために「消費主義」が必要になった。そして、奇妙なことに現在は、エリート層が倹約的なふるまいを身に着け、大衆はかつての貴族階級のように散財をすることが求められている。

POINT

  • 科学の新しい発見によって使えるエネルギーの総量が増えていき、「エネルギーは限られている」という常識が覆された
  • 「産業革命」は「第二次農業革命」であり、農業の効率が上がったからこそ、農業以外の仕事を行うことができるようになった
  • 供給が需要を追い越し始めたが、資本主義は存続するために経済成長を求められるので、「消費こそが美徳」という、かつてとは正反対の価値観が生まれた

 

第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和

「産業革命」は、短期間に様々な変化を社会にもたらしたが、その中でも最も重要な社会変革は、「家族と地域コミュニティの崩壊および、それに取って代わる国家と市場の台頭」だとハラリは言う。人類は100万年以上も前から、

主に血縁関係の小規模なコミュニティの中でほとんどの時間を暮らしていて、「認知革命」と「農業革命」が起こってもそれは変わらなかった。しかし、「産業革命」は、たった二世紀あまりの時間で、あらゆる人間社会の基本的な構成要素であり続けた「血縁と地縁のコミュニティ」をばらばらにしたのだ。

産業革命以前の「家族」は、「福祉制度であり、医療制度であり、教育制度であり、建設業界であり、労働組合であり、年金基金であり、保険会社であり、ラジオ・テレビ・新聞であり、銀行であり、警察でさえあった」とハラリは言う。人々が必要とするものの大半は、「家族」と「地域」コミュニティによって賄われた。産業革命はそれらの役割を「国家と市場」の手に移した。これは歴史的な大変革だった。

国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。「親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老らが眉をひそめようとも、何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けないとしても、どこでも好きな所に住めばいい。あなた方はもはや、家族やコミュニティに依存してはいないのだ。我々国家と市場が、代わりにあなた方の面倒を見よう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、職を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか」

何百万年もの進化の過程で、人間はコミュニティの一員として生き、考えるように設計されてきた。しかし産業革命からたったの二世紀ほどで、人間は「個人」になったのだ。「文化の驚異的な力をこれほど明白に証明する例は、他にない」とハラリは述べる。

そして、今の社会はあまりに変化のスピードが速く、それゆえに「近代社会とはどういうものか?」という問い自体が難しい。インターネットが広く利用されるようになり始めたのは90年代の初頭だが、そこからわずか20年ほどで、インターネットのない世界など考えられなくなった。

近代社会の特徴を定義しようとするのは、カメレオンの色を定義しようとするに等しい。確信を持って語れる近代社会の唯一の特徴は、その絶え間ない変化だ。人々はこうした変化に慣れてしまい、私たちのほとんどは、社会秩序とは柔軟で、意のままに設計したり、改良したりできるものであると考えている。近代以前の支配者の主な公約は、伝統的秩序の堅持であり、彼らは、かつての失われた黄金時代への回帰を訴えることさえあった。だが、過去二世紀に政治の舞台で広く謳われてきたのは、旧来の世界を打破し、それに代わるよりも良い世界を構築するという約束だ。最も保守的な政党でさえも、たんに現状維持を誓うことはない。誰もが社会改革や教育改革、経済改革を約束する。そして、しばしばその約束を果たす。

急激な変化の中、「社会は改善していけるもの」とみんなが考えていることが、近代社会の特徴であり、これは歴史的な大変革なのだ。そして、さらに驚異的だとハラリが指摘するのは、過去のあらゆる時代を上回る経済的、社会的、政治的な激動の中で、今の社会がこれまでにない平和を保ち続けていることだ。

今の社会にまったく争いがないわけではないが、「戦争や暴力の犠牲者よりも自殺者のほうが多い」という、これまでには想像もできなかったような世界平和が達成されたのだ。

ほとんどの人は、自分がいかに平和な時代に生きているかを実感していない。1000年前から生きている人間は一人もいないので、かつて世界が今よりもはるかに暴力的であったことは、あっさり忘れられてしまう。

もし資源が限られたものであれば、戦争をして奪うことには合理性がある。一方で資本主義は、みんなで協力して全体のパイを増やそうとする。そのため、争って奪うよりも交易をしたほうが豊かになりやすい。相互協力が盛んになるほど、戦争しないことのメリットが戦争のデメリットに勝るようになる。そして、今やほとんどの国が、一国だけでは経済が立ち行かず、国際関係が緊密になった結果として、国家の独立性が弱まったのだ。

世界の「統一」が進んでいるからこそ、激変の中で平和が維持されている。「大半の国々が全面戦争を起こさないのはひとえに、もはや単独では国として成り立ちえないという単純な理由による」とハラリは述べる。第11章で説明されたような「グローバル帝国」の内に、全世界が含まれていて、それゆえに争いが抑制されている。

POINT

  • 産業革命による社会の変化は、「家族と地域」が担っていた役割を「国家と市場」の手に移し、それによって人間は「個人」になった
  • 人間は何百万年もあいだ「血縁や地縁のコミュニティの一員」として生きてきたが、たった二世紀ほどで急に「個人」になり、これは驚異的な変化だった
  • 近代社会はあまりに変化のスピードが速いので、「その絶え間ない変化」が確信を持って語れる唯一の特徴になる。そして近代社会に生きる人々は、「社会は改善していけるもの」というそれまでの歴史ではありえなかった考えを常識としている
  • 激動の変化の最中にあって、かつてない平和が保たれている。グローバル化が進み、一国だけでは経済が立ち行かなくなっているので、国家が戦争をすることの合理性が失われている
世界は「多様性」から「統一」に向かっているという『サピエンス全史』の視点【グローバリズム】

 

第19章 文明は人間を幸福にしたのか

「農業革命」がサピエンス全体の発展に寄与した一方で、個々のサピエンスの生活水準を悪化させたように、「個の幸福」と「種の繁栄」はしばしば対立する。

なお、サピエンスが成し遂げた数々の偉業を誇れるのは、「他のあらゆる動物たちの運命をまったく考慮しない場合に限られる」とハラリは言う。「人間以外の動物の幸福も視野に入れるべきではないか」という問題提起をしている。

過去二世紀にわたって、この地球という惑星の歴史上前例のない残忍さを備えた産業利用の体制に、何百億もの動物たちが従属させられてきた。動物愛護運動家の主張のわずか10分の1でも認めるならば、工業化された近代農業は、史上最悪の犯罪ということになるだろう。地球全体の幸福度を評価するに際しては、上流階級やヨーロッパ人、あるいは男性の幸福のみを計測材料とするのは間違いだ。おそらく、人類の幸せだけを考慮することもまた誤りだろう。

歴史学者が「幸福」という扱いにくい問いをテーマにすることはめったにないとした上で、ハラリは、あえて「幸福」について考える。

幸福を測定する上で、科学的なアプローチは、「良い感情」という主観的厚生の量を計測しようとする。対照的に、仏教をはじめとする伝統的な宗教や哲学は、感情の追求をやめて、自分を知ることが幸福への鍵だと考える。

ハラリは本書で、「幸福」に関しての何らかの結論を述べているわけではない。それでも、歴史的な視点に立った上で「幸福」を考える必要性が強調されている。

歴史書のほとんどは、偉大な思想家の考えや、戦士たちの勇敢さ、聖人たちの慈愛に満ちた行い、芸術家の創造性に注目する。彼らには、社会構造の形成と解体、帝国の勃興と滅亡、テクノロジーの発見と伝播についても、語るべきことが多々ある。だが彼らは、それが各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたのかについては、何一つ言及していない。これは、人類の歴史理解にとって最大の欠落と言える。私たちは、この欠落を埋める努力を始めるべきだろう。

POINT

  • 「個の幸福」と「種の繁栄」は同じではなく、対立するものにもなりうる
  • サピエンスは様々な偉業を達成したが、その犠牲になった人類や動物たちのことを考慮しなければならない
  • 著者は、「歴史」という視点で「幸福」の問題を考える必要があるという問題提起をしている

 

 第20章 超ホモ・サピエンスの時代へ

最後にハラリは、「科学革命」が、単なる歴史的革命以上の、「地球に生命が誕生して以来最も重要な生物学的革命」になりうる可能性を示唆する。

生命科学の発展は、「人間の神聖さ」を切り崩し、遺伝子を改変する私たちの能力が無限の可能性を持つことを明らかにした。当然ながらそれは非常に危険な可能性だ。

あまりに多くの機会があまりに急速に拓かれ、遺伝子を改変する私たちの能力が、その技能を先見の明を持って賢明に行使する能力を凌駕しているというのが、一般的な印象だろう。

かつて人間が、農業革命によって、意図せずとも自らの生活を悲惨なものに追いやってしまったように、我々はしばしば、自分たちがやっていることが結果的に何を引き起こすのかを理解できない。人間は、先見の明を持って賢く使うよりも、とりあえずそれを発展させてしまうことのほうが、ずっと上手なのだ。

もし遺伝子工学で天才マウスを創り出せるのなら、天才人間も作り出せないはずがない。もし一夫一妻のハタネズミを生み出せるのなら、パートナーに誠実であり続けるように行動様式が固定された人間も生み出せない道理があるだろうか?

ホモ・サピエンスを取るに足りない霊長類から世界の支配者に変えた認知革命は、サピエンスの脳の生理機能にとくに目立った変化を必要としなかった。大きさや外形にさえも、格別の変化は不要だった。どうやら、脳の内部構造に小さな変化がいくつかあっただけらしい。したがって、ひょっとすると再びわずかな変化がありさえすれば、第二次認知革命を引き起こして、完全に新しい種類の意識を生み出し、ホモ・サピエンスを何かまったく違うものに変容させることになるかもしれない。

遺伝子をいじくり回すことで、ホモ・サピエンスは別の「種」になる、あるいは「人類」すらも超越した神のような存在になるかもしれない。サピエンスを超えた「超人」が何を考えるかは、我々には検討もつかない。サピエンスの「認知革命」が、他の人類種にとって理解できなかったのと同じように。

ハラリは様々な未来予想をしているものの、それが確実に当たりそうなものとは考えていない。例えば、1940年代に原子力の時代が幕を開けたとき、多くの人たちが、火星や冥王星の宇宙植民地に人間が暮らし始める未来を予想した。しかし現在、そのような予想はほとんど実現せず、インターネットという当時の人たちがあまり予想していなかったものが実現した。同じように、これからの科学に対しての様々な予想も、まったく見当外れな可能性もある。

ただ、本書の最後にハラリは、「私たちは何を望みたいのか?」を考えることの重要性を提起する。

唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。

現在のサピエンスを含むすべての生物は、「何を望むのか」が遺伝的に決まった状態で生まれてきて、生き続ける。しかし、それを変えてしまえるテクノロジーを、我々は手にしつつある。だからこそ、これまでの歴史の流れを踏まえた上で、「私たちは何を望みたいのか?」を十分に考える必要があるのだ。

POINT

  • 「生命科学」の発展が、サピエンスと別の人類を誕生させる可能性が指摘される
  • 遺伝子を改変して、先天的な特性すら操作する可能性を手にしつつある人類は、「私たちは何を望みたいのか?」という問いを真剣に考える必要がある
「幸福」という『サピエンス全史』の重要テーマを解説【私たちは何を望みたいのか?】

 

以上が、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』の要約&解説になる。

 

『サピエンス全史』に関しては、「簡単なまとめ」や「批判」記事も書いているので、よければ以下も参考にしてほしい。

『サピエンス全史』の超簡単なまとめ!【著者は何が言いたかったのか?】 『サピエンス全史』の批判的なレビュー

 

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