『サピエンス全史』の超簡単なまとめ!【著者は何が言いたかったのか?】

ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』について、超簡単にまとめたい。

『サピエンス全史』について、詳しい要約と解説については、以下の記事に書いている。

『サピエンス全史(上巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】 『サピエンス全史(下巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】

「しっかり理解したい」「実際に読んだ後の再確認をしたい」という人は、上の詳しい要約記事を読むことをおすすめする。

この記事では、『サピエンス全史』という本が、どのような面白い視点を提供しているのか、に焦点を絞って、ごく手短にまとめた。手っ取り早く理解したい人向け!

サピエンスの能力の本質は「虚構」

『サピエンス全史』は、サピエンス(我々)の能力の本質について、非常に面白い視点を提供している。

人間(ホモ・サピエンス)の能力については、「手先が器用」とか「抽象的な思考ができる」とか、様々な説明がされてきたが、『サピエンス全史』は、「虚構(フィクション)」こそが人間の能力の本質だと主張する。

実はサピエンスは、現在の人間とほぼ同じ遺伝的性質を持ちながらも、長い間サバンナの負け組だった。

しかし、約7万年前に「認知革命」と呼ばれる変化が起こった。

「認知革命」によってサピエンスは、「虚構(フィクション)」を信じられるようになった。サピエンスの大躍進はそこから始まったのだ。

「虚構」によって、

  • 見知らぬ者同士の大規模な協力
  • 遺伝子を介さない集団的な行動パターンの変化

が可能になる。

多くの哺乳類は、親密な者同士のコミュニティでしか協力することができない。一方で、神話や宗教などの「虚構」を共有している集団は、親密なコミュニティを超えた「大規模な協力」が可能になる。サピエンスは「虚構」によって、普通ではありえないような規模で協力し合うことができる。

大規模な群れで活動する生物は他にもいるが、それは虚構の共有によるものではなく、遺伝子にそうプログラムされているからだ。遺伝子を介した協力は、融通が効かず、大きく行動パターンを変えるには数万年の時間が必要になる。一方で、サピエンスは、「虚構」の内容が変われば行動パターンも変化するので、大規模に協力しながらも、超スピードでトライ&エラーが可能になる

「虚構」を語ることができる、「虚構」を信じることができる、というサピエンスの特性が、今に続く発展につながっている。

貨幣、株式会社、人権、国民国家などなど、今の社会にとって不可欠な仕組みも、豊かな想像力による「虚構」の産物だ。

ここでは、「知能が高いことが人間の能力である」というのとは違う見方がされている。サピエンスが、「虚構」などというよく考えれば筋の通らないものを信じ込んでしまえるくらい愚かだからこそ、「種」としては驚異的な力を持つようになった。

「賢さ」「器用さ」「強靭さ」などにサピエンスの能力の本質があるのではなく、「虚構を信じる」という、「ある意味で不合理なことをやり始めたからこそ、サピエンスは他と隔絶した能力を持ったという形で、著者は我々の能力を説明しているのだ。

 

サピエンスは他の種を滅ぼしてきた

本書のタイトルは、『人類全史』ではなく『サピエンス全史』となっているが、なぜなら、かつて地球には「ホモ・サピエンス」以外の人類種(ホモ属)が存在したからだ。そして、サピエンスは進化上のきょうだいを滅ぼして、「唯一生き残った人類」となった。

他の人類種は、サピエンスと比べて、不器用だったわけでも、知能が低かったわけではない。ネアンデルタール人などは、火を使いこなし、埋葬の習慣などの文化を持っていたし、サピエンスより大きな脳を持っていた。だが、「虚構」を信じることはできなかった。

先に述べたように、サピエンスは、「虚構」によって、大規模な集団で協力し、さらに行動パターンを変更することができた。最初のうちは、他の人類がサピエンスを打ち負かすこともできた。だが、やがてサピエンスの間で、他の人類との戦闘に有利な「虚構」が共有され、そうなった後は、「虚構」を信じられず、行動パターンの変化を遺伝子に頼るしかない他の人類は、相手にならなかった。

「個」の能力で劣ったとしても、「種」という規模の戦いでは、「虚構」を持つサピエンスは圧倒的に強かった。

サピエンスの犠牲者になったのは、サピエンス以外の人類種だけに留まらない。サピエンスが移り住んだ大陸に住んでいた大型動物の多くが、短期間に地球上から姿を消した。生物は、生態系のゆるやかな変化の中で、少しずつ環境に適応していく。そのため、遺伝子を介さない「虚構」の速度で行動パターンを変えるサピエンスに対応することはできなかった。

サピエンスは、決して自然と共存して生きてきたわけではなく、生態系をめちゃくちゃに破壊しながら繁栄してきたのだ。『サピエンス全史』は、サピエンス(我々)の加害の歴史に焦点を当てた記述をしている点でも、衝撃を持って読まれた。

 

農耕は生活水準を大きく下げた

『サピエンス全史』は、「個の幸福」と「種の繁栄」は別のもの、という視点で歴史を論じる。

サピエンスは、約1万年前の「農業革命」によって、大きく人口を増やした。一方で、個々のサピエンスの生活は、狩猟採集民だったときと比べて劣悪なものになった。

狩猟採集民の生活は、多様な食べ物が手に入るので健康的で、単一な作物に頼らないので飢えのリスクも少なかった。仕事の内容は刺激的で、労働時間も短かった。多くの人の想像に反して、狩猟採集生活は農耕よりずっと豊かなものだったのだ。

農耕民は、粗末な食事と、過酷な単純労働を強いられた。多くの農耕民が、飢え、病気、暴力に怯えて暮らした。単位面積当たりの生産量が上がっても、そのぶん人口が増えたので、生活はますます過酷なものになっていった。だが、農耕の結果としての富の蓄積は、政治や学問の原動力となり、次のステップに人類を運んでいった。

「農業革命」は、サピエンスという「種」にとっては大きな恩恵があったかもしれないが、その当時の「個々のサピエンス」にとっては、決して良い話ではなかった。

また、農耕のために多くの動物たちが家畜化されたが、「種の繁栄」という視点からは大成功をおさめた牛、ブタ、ニワトリなどの家畜は、「個の幸福」からは程遠い残酷な仕打ちを受けてきたし、現在も受け続けている個体がいる。

 

科学と帝国主義と資本主義の関係

今から約500年前に起こった大きな転機が「科学革命」で、それ以前の世界人口はおよそ5億人だったが、そこからたったの500年で人間の数が14倍になった上に、一人あたりが消費するエネルギーも爆発的に増加した。

「科学革命」以前にも、誰かが何かを発見したり発明したりすることは当然のようにあった。だが、発見や発明を集団的にやりだしたのが「科学革命」であり、それは「帝国主義」と「資本主義」と組み合わさることで勢いを得た

それ以前の伝統的な価値観は、「重要なことはすべて説明されている」と考えてきたが、「世の中には自分たちの知らない重要なことがある」という「無知の自覚」を集団的に行ったことで、「科学革命」が始まる。「かつては素晴らしい時代があった」ではなく、「人類は進歩していく」と多くの人々が考えられるようになったことが革命だったのだ。

「科学」は、相手をよく理解することで侵略と支配をしやすくなるという「帝国主義」のイデオロギーと結びつき、「進歩」という考えが帝国の価値観を正当化した。

また、「科学」による新しい発見が、生産性の飛躍的な向上をもたらし、それが「全体のパイが拡大していく」という「資本主義」のイデオロギーに説得力を与えた。

「科学」と「帝国主義」と「資本主義」が結びつくことによって、膨大な投資が「科学」に注ぎ込まれ、たった500年という短期間のうちに、人類は怒涛の勢いで様々なものを見つけ出し、生み出した。

 

世界は統一に向かっている

ハラリは、「歴史には方向性がある」という考え方をしている。数千年単位の視点で歴史を見れば、世界は「統一」に向かっている

歴史の「if(もし)」を考えるのであれば、今のように英語話者が多く、キリスト教やイスラム教の信者が多い世界になっていたとは、必ずしも言えない。しかし、それぞれの小さな文化が、混ざり合いながらより大きな文化を生み出し、やがて地球が単一のグローバルな社会へと向かっていくことは、歴史の必然だっただろうとハラリは考えている。

狩猟採集民の特徴は「多様性」だ。原始的な社会ほど、本質的な意味での多様性があったと考えられている。そして、そのような多様性は、共有できる概念すら持たない場合があり、どちらも相手の言っていることがまったく理解できない。現在も文化の対立が至るところで起こっているが、共通の概念を使って対話が可能であること自体、過去の水準から見れば驚くほどの統一が進んでいると言える。

今や世界中の人たちが、仮に争いが起きようとしている場合ですら、国民国家、資本主義、国際条約など、グローバルな概念を理解した上で、対立している。共通の概念を踏まえて対話ができるという時点で、(過去の多様な世界の水準から考えれば)全員が似たように物事を認識し、似たような思考をしているのだ。

 

尋常ではない変化のスピードと世界平和

18世紀から19世紀にかけて起こった「産業革命」は、経済成長をさらに加速させる。

そして、ここ2世紀ほどで起きた劇的な変化は、「家族」や「地域」の代わりを、「国家」と「市場」が担うようになったことだ。

それ以前の数百年間、人間は「家族」や「地域」の一員として生きてきた。しかし、「産業革命」からたった2世紀ほどで、人間は「個人」になった。

「群れ」から「個人」という、何百万年もの時間をかけて培ってきた生物学的特徴を転換するほどの歴史的な変化が、たったの2世紀ほどの間に起こったのだ。著者のハラリは、国家と市場によって人間が「個人」としての意識を持ち始めたことに対して、「文化の驚異的な力をこれほど明白に証明する例は、他にない」とさえ述べている。

そして、これほど急激なスピードで世界が変化しているのと同時に、かつては考えられなかったような平和が維持されている。これも驚異的なことだとハラリは述べたうえで、その主な理由を「世界の統一が進んでいるから」としている。

先の見出しで述べたように、世界の「統一(グローバル化)」が進んでいるので、もはや単独の国家は国としての機能を果たせない。市場経済が浸透し、国際関係が緊密になった結果、国家の独立性が弱まり、今やどの国も一国だけでは経済が立ち行かず、他国を侵略するメリットよりデメリットのほうがはるかに上回るようになってしまった。

「グローバル」を一切考慮に入れず、その国独自の判断を推し進めることができる国家など、もはや地球上に存在しないのだ。

 

「幸福」という問題提起

歴史学者が「幸福」をテーマにすることはほとんどないが、あえてハラリは、「幸福」の問題をよく考える必要があると問題提起している。

「農業革命」は、サピエンスという「種」が栄えるキッカケになった出来事だが、「個々のサピエンス」は過酷な境遇に追いやられた。「種の繁栄」と「個の幸福」は、しばしば反比例する。

なお、ハラリは、人類の幸福だけでなく、人間以外の生物の幸福をも考慮すべきという考えを持っている。

工業化された畜産業によって生産される家畜たちは、「種」の目的としての繁殖には大成功している一方で、「個」としてはあまりに悲惨な状況に追いやられている。

「動物愛護運動家の主張のわずか10分の1でも認めるならば、工業化された近代農業は、史上最悪の犯罪ということになるだろう」とハラリは主張する。工業生産される動物たちにも、進化上の本能が以前としてあり、生産性のみを重視する畜産業は、確実な苦しみを動物たちに強いている。

これから、テクノロジーが動物や人間に何をもたらすのかを考えるうえでも、「幸福」という問いがますます重要になってくる。

 

「私たちは何を望みたいのか?」を考える必要がある

「幸福」の問題を考える必要があるとハラリが主張する背景には、テクノロジーの進歩がある。

進化する遺伝子工学は、工業化された畜産業に幸福を感じる動物を作り出すことすら可能かもしれない。さらに、人間の遺伝子すらも、思うままに改変できるようになるかもしれない。

「認知革命」から現在に続く、いくつもの大変革を経てもなお、いまだにサピエンスの心(遺伝子)は、狩猟採集時代や、それ以前の進化の過程に多くを拠っている。しかし、生命科学のテクノロジーは、これまでの歴史でずっと変わらなかった「遺伝子」を変化させてしまう可能性があり、それは過去のあらゆる変革をも上回る変化になり得ると、ハラリは警告している。

現在に至ってもなお、「私たちは何を望むか?」は、遺伝子によって規定されている。だが、その「先天的な指向」をも変えてしまえるテクノロジーが登場しようとしているのだ。だからこそ、「私たちは何を望みたいのか?」を歴史的なスケールで考える必要があるというのが、ハラリの問題意識だ。

 

 

以上、『サピエンス全史』の主要なテーマを手短にまとめてみた。

当記事を読んでもし興味が出てきたのであれば、以下のリンクから、より詳しい「要約と解説」も見ていってほしい。

『サピエンス全史(上巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】 『サピエンス全史(下巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】

 

 

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