当サイトでは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』について、「要約」や「まとめ」の記事をすでに書いてきた。



この記事では、「サピエンス全史の批判」をテーマに書いていく。
『サピエンス全史』は優れた内容の本であると断言できるが、あえての批判的なレビューとして、気になる方は参考にしてもらいたい。
『サピエンス全史』は読みにくい?
他の読者が書いた感想などを見ていると、「読みにくい」と評している人が多いように思えた。また、実際にあまり内容を読み取れていなさそうなレビューをネット記事などで見かけることも多い。
だが、著者であるユヴァル・ノア・ハラリの文章は、多少のまわりくどさはあるかもしれないが、読みやすく書かれているほうだと思う。思考が明晰で、無駄に難しい書き方がされているわけではない。惹き込まれるユーモアに溢れた文体で、むしろ文章の読みやすさと面白さは、『サピエンス全史』が人気を得た理由の一つと言っていいくらいに思う。
だが、たしかにテーマは読み解きにくい。自分も、一度全体を通して読んだあと、もう一度読み返すことで、やっと著者がどういう問題意識に元に本書を書いているのか掴めた。
比較的わかりやすい問題意識に沿って書かれてはいるが、分量に圧倒されてしまうというのもあるし、話が横道にそれることがあり、その横道のエピソードがものすごく面白いだけに、主題になっている部分を見失ってしまいやすいところはあるかもしれない。
だから、読書慣れしていない人が、「面白かったのだけど、長すぎて、振り返ってみると何が言いたかったのかよくわからなかった」となるのは無理もないことだと思う。(もしそうなら、当サイトの「要約と解説」記事や「まとめ」記事を参考にしてもらいたい。)
月並みな説明が続くように感じる部分も
『サピエンス全史』は、最初の部分は文句なしに面白いのだが、後半からちょっとダレるような感じがある。
サピエンスという種が「虚構」を信じられるようになることで、他の人類種よりも圧倒的に強くなった、という序盤の部分は、ものすごく面白い!
ただ、中盤くらいに「すべての社会秩序は虚構だ」という説明が続くのだが、それなりに勉強している人からすれば「それはそうだろうね」という内容も多く、前半と比べて失速する感は否めない。
全編を通して一貫した問題意識があり、説明が上手く、文章やエピソードの細部も面白いのだが、長大な内容だけに、中盤で読むのを断念してしまう人もいるかもしれない。
すべては虚構に過ぎないが……
『サピエンス全史』は、全体の趣旨より、細部の面白さを重視する人こそ楽しめる内容かもしれない。どのトピックにおいてもハラリの説明は、深い見識に裏打ちされた知性を感じさせる。
例えば、第8章「想像上のヒエラルキーと差別」において、「生物学的作用は可能にし、文化は禁じる」という説明をハラリはする。生物学的な検知に立てば、「可能なものはすべて自然」だ。
人間が100mを1秒で走るのは、とうてい不可能なので不自然なことと言えるかもしれない。だが、9秒台で走るのは、現実的に可能な事例が見つかり、そのように可能であるということは、自然なことなのだ。一方で、ある文化は、可能なことを「不自然なもの」として禁じようとする。女性の社会進出や同性愛という現実的に可能なことが「不自然」とされるのは、生物学的な根拠のない「虚構」に過ぎないとハラリは述べる。
ハラリは、「自然な」と「不自然な」という概念が、キリスト教神学に由来することを指摘したりするのだが、「虚構」の前提となっているものを暴き出す筆致は流石のものだ。
ただ、たしかに「すべては虚構に過ぎない」のだけど、その先の説明については匙を投げているようなところがあるように感じる。
例えば、大規模な共同体のほぼすべてにおいて、「家父長制」という文化が維持されてきた。家父長制的な男女差別は、生物学的な根拠がないとは言えないし、同時に「虚構に過ぎない」ものでもあるだろう。このような制度をどう捉えるかについては、「すべては虚構に過ぎない」以上の説明が欲しくなる。
ハラリは、「家父長制」などについても一応は述べているのだが、その部分の記述はどこか散漫で、問題をうまく処理できていない印象を受けた。
「少子化」についての言及がない
どのような本であれ、あらゆる問題を論じることはできない以上、「○○が足りない」という批判は不当なものになるかもしれない。それでも、『サピエンス全史』という本が「少子化問題」をスルーしているのは違和感がある。「文明の構造と人類の幸福」をテーマに、遠い過去から遠い未来のことまでを語っているのに、「なぜ現代の先進国の大きな関心事である少子化問題について何も言及しないのだろう?」と思ってしまうのだ。
『サピエンス全史』によれば、世界は「グローバル帝国」に飲み込まれる形で「統一」に向かっていて、市場経済が浸透し、国際関係が緊密になることで国家の独立性が弱まり、これまでになかった平和が達成されたという。ただ、その一方で現在の先進国は「少子高齢化」という新しい種類の問題に悩まされている。
豊かな社会における「人口維持が不可能な程度の少子化」は、これまで人類が経験しなかった新しい問題であり、これからの社会に何かしらの大きな変化をもたらす問題に思える。この現実的な大問題を、『サピエンス全史』がまったく言及せずにスルーしているのは、不都合な部分をあえて避けて論じているようにも思えてしまう。
もっとも、テーマが散漫になることを避けて、「少子化」という問題はまた別のところで扱うつもりなのかもしれない。
あるいは、そもそもハラリが少子化という問題に関心を持っていない可能性もある。著者「ユヴァル・ノア・ハラリ」は、ヘブライ大学で教鞭をとるイスラエル出身の学者だが、イスラエルは合計特殊出生率が3を超える少子化にまったく悩まされていない国だ。だから、ハラリは「先進国では少子化が問題になっている」ということを、あまり重要視していないのかもしれない。
ただ、『サピエンス全史』において、壮大なスケールの歴史を扱い、テクノロジーには強く警鐘をならしながら、少子化という問題をまったく取り扱わないのは、個人的には物足りなさを感じる部分だった。
未来予測の妥当性について
ハラリは、最終章の「超ホモ・サピエンスの時代へ」で、人類のこれからについて大胆な未来予測を行っている。その中でも特に衝撃的なのは、サピエンスがサピエンスではなくなり、別の「種」に進化する、という警告だ。
ハラリが描く未来は、論理的な未来予測というより、「歴史的な視野からの警告」といったものに思える。歴史が専門だから当然だが、見ているところは過去にあり、「かつてと似たようなことが起こるかもしれない」が根拠になっている。
- 「認知革命」によってサピエンスが圧倒的な力を備えたとき、「サピエンス以外の人類種」には、いったい何が起こっているのか理解できなかった。
- 同じように、「何らかの革命」が起こって「サピエンスを超える種」が現れたとき、我々サピエンスには何が起こっているのか理解できないだろう。
というわけだ。
『サピエンス全史』という本の主張の流れとして、この警告を最後に述べるのは相応な流れに思えるが、だからといって、それが未来予測として妥当かどうかは、まったく別の話だ。
当然だが、あらゆる可能性を否定することはできない。可能性の話で言えば、どんなことでも起こりうる。ただ、そもそも生物工学によって人間の寿命が伸びるものなのか、知能は向上するのか、ということ自体まだよくわかっていない。
また、「遺伝子を設計できるからこそ、人間はより高次元の存在になる」という予測は、ハラリが示した「虚構」の話と、ややバッティングする部分もある気がする。サピエンスは「虚構」によって、ゲノムを介さない超スピードのトライ&エラーを繰り返すことができたからこそ、ここまで強力な種になった。であるならば、ゲノムをいじれるようになったからといって、「種」としてより強いものになるとも限らない、という考え方もできる。
むしろ、現在の「豊かになった先進国における少子化」という現象に着目するのであれば、生物工学によって個々のサピエンスの学習能力や幸福感などが上がった場合、「種」としてはむしろ弱体化に繋がるのではないかという気もする。
もっとも、ハラリ自身、予想を当てようとしているわけではなく、あくまで「視点」を提供し、我々に考えることを促している。
『サピエンス全史』で提示されている未来予測を、それほど真に受ける必要はないだろうが、どれも考えさせられる内容のものなので、本書を読んでみる価値は間違いなくあるだろう。
いろいろ加味しても、十分に読む価値のある良書
あえて批判的なレビューをしてきたが、マイナス面を加味してもなお、『サピエンス全史』は、非常に優れた内容の本である。
貶すべきところよりは褒めるべきところのほうがずっと多い本であり、「大絶賛されている世界的なベストセラー」という評価を裏切らない内容だ。
「要約」や「まとめ」で済ますのではなく、最初から最後まで、自分の目で時間をかけて読んでみる価値のある本だと思う。
以上、『サピエンス全史』の批判的レビューをしてきた。
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