ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』は、「ホモ・サピエンス」という種の成り立ちにまで遡り、過去から未来を見渡す巨視的なスケールで、「サピエンスの歴史」を論じたベストセラーだ。
「歴史を語る」という試みは、原始時代や石器時代を軽く流して、四大文明あたりから本格的な記述を始めることが多いが、『サピエンス全史』はそうではなく、我々「サピエンス」という種の出生の部分から、進化生物学などの科学的な視点も交えて論じている。そして、その最初の部分がめちゃくちゃ面白い!
膨大な文量ゆえに、途中で脱落する人も多い本からもしれないが、いきなりクライマックスの面白さから始まるのが『サピエンス全史』の特徴で、それがベストセラーになった一つの要因かもしれない。
この記事では、『サピエンス全史』の最初の部分の説明が、どのような点で衝撃的だったのかを解説したい。
何が衝撃的だったのか?
『サピエンス全史』序盤の重要ポイントとして
- サピエンスの罪について
- サピエンスの能力について
の主にふたつについて語っていきたい。
「サピエンス(我々)の加害性に焦点を当てたこと」と「サピエンスの種としての強さの理由について説得力のある説明をしたこと」の二点が秀逸な内容で、この部分だけでも『サピエンス全史』を買って読んでみる価値はあるだろう。
サピエンスの罪について
書籍のタイトルが『人類全史』ではなく『サピエンス全史』である理由は、かつて地球には「ホモ・サピエンス(我々)」とは違う「ホモ属(他の人類種)」が、複数存在したからだ。
「ホモ・ルドルフェンシス」「ホモ・エレクトス」「ホモ・ネアンデルターレンシス」「ホモ・ソロエンシス」などの「ホモ属」は、我々と同じ「人類」であり、なおかつ別の「種」だった。
「種(species)」という分類についてだが、ここでは、「共通した特徴を持つが、繁殖力がない」と考えるとわかりやすい。例えば、馬とロバはそれぞれ違う種族で、交尾すると「ラバ」を生むが、ラバには繁殖力がない。虎とライオンも、交尾して「ライガー」という子を作ることができるが、ライガーは繁殖力がない。つまり、交配して遺伝子を引き継げないほど遺伝的な性質が離れてしまうことを「種に分化した」と言う。
サピエンス以外の人類たちは、火を使ったり、仲間を埋葬する習慣を持っていたりと、多くの行動パターンがサピエンスと共通していた。サピエンスと子を作ることも可能だったかもしれないが、仮にできたとしてもその子供は繁殖力を持たなかった。
現在、地球上には、「ホモ・サピエンス」以外の人類は存在しない。そして、我々サピエンスが、他の人類を絶滅に追いやった可能性が、極めて高い。
決定的な証拠があるわけではない。他の人類とサピエンスが戦った証拠はあっても、「それが原因で種が滅んだ」とまでは断定できない。病気などの別の要因の可能性を完全に排除しきることはできないだろう。とはいえ、著者ユヴァル・ノア・ハラリは、「おそらくサピエンスが他の人類を絶滅に追いやっただろう」という見方をしている。サピエンスは同種でも激しく争い合う攻撃的な種族であり、自分たちと違う「種」に対して寛容だったとは考えにくい。
また、サピエンスの罪は、同じ人類を滅ぼしたことに留まらない。かつては、各地の大陸で大型の動物が栄えていたが、それらは、サピエンスが移住してから短時間のうちに姿を消した。サピエンスによって数多くの動物たちが絶滅した。
であれば、「昔の人間は自然と共生していた」というイメージは、我々にとってあまりに都合の良すぎるもの、ということになる。サピエンスは、農耕や工業などを始める以前から、生態系を荒らし回っていたのだ。
以上のような話は、一応は事実として知っていた人でも、正面切って論じられればたじろいでしまう。多くの学者が、サピエンスの罪を、気候変動などになすりつけようとしてきた。しかし、ハラリはそれもしっかり検証して、逃れようのないサピエンスの罪を指摘する。『サピエンス全史』というタイトル自体が、その意志の表明だ。
研究者としての業績に加え、知性と文章力を兼ね備えた著者が、我々(ホモ・サピエンス)の罪をまずしっかりと論じたことが、一つの衝撃だった。
そして、もう一つの見どころは、「ではなぜサピエンスは、他の人類を駆逐してしまえるくらい強い種だったのか?」にある。
サピエンスの能力について
サピエンスは「種」として圧倒的に強かったが、「個」の能力で他の人類種より特別に優れていたわけではなかった。
例えば、「ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)」は、サピエンスよりも身体が大きく、寒さに強く、脳も大きかったらしい。だとすれば、サピエンス種の強さは、個々の身体能力や適応力や思考力とは別のところにあることになる。
そもそもの話、「人類」は、今の人間に近い思考力があってもなお、サバンナの片隅でほそぼそと暮らしている負け組に過ぎなかった。石器の初期の使い方は、動物の骨を割って、骨髄を啜ることだったという。人類は、他の動物たちが食べ終わったあとの骨をこっそりかすめ取って骨髄の栄養をもらうという、生態系のニッチなところに生存戦略を見出していた、存在感のない種族に過ぎなかった。
だが、約7万円ほど前、サピエンスという種に、「認知革命」というある小さな変化が起こった。それをキッカケに、サピエンスは、他の人類や大型動物を大量に絶滅させ、生態系を激変させながら、現在のように地球を支配してしまうだけの力を手に入れた。
「認知革命」によって、サピエンスは、「虚構(フィクション)」を信じることができるようになった。
このちょっとした脳の変化が、サピエンスという種を圧倒的な存在に至らしめた。
「虚構(フィクション)」によって
- 大規模な協力
- 遺伝子を介さない行動パターンの変化
が可能になる。
サピエンスはまず、「数の力」を手に入れた。他の人類も、ゴリラやチンパンジーのように「群れ」にはなるが、そのような群れは一定の規模を超えると分裂してしまう。一方で、「虚構」は、「自然な群れ」を遥かに超える数の「大規模な協力」を可能にする。同じ神話や宗教を共有することで、見知らぬ者同士の協力が可能になるのだ。
加えて、「虚構」は、「超スピードのトライ&エラー」を可能にする。
通常の生物は、「遺伝子」を介することでしか種の行動パターンを変えられない。サピエンス以上の数の群れを作る生物も存在するが、それは遺伝子によってそうプログラムされているからだ。遺伝子による行動は、間違いにくい一方で応用が効かず、環境への適応も非常にゆっくりとしたものになる。
一方で「虚構」は、「虚構」に過ぎないがゆえに、一晩のうちに変わってしまうことすらあり得る。そのため、サピエンスは、同じ「種」や同じ「個体」のまま、「虚構」の内容を変えることで、集団的な行動パターンを凄まじい速さで変化させることができるのだ。
少数同士の戦いであれば、他の人類は、サピエンスに勝つことがあったかもしれない。だが、ある時点でサピエンスは、他の人類との戦争に勝ちやすい虚構(行動パターン)を見出す。そのような虚構は、迅速にサピエンスの行動を変化させるし、サピエンス同士の大規模な連携を可能にする。一方で、「虚構」を信じられない他の人類は、サピエンスと違って行動パターンの変化があまりにも遅いので、やがては野生動物と同じくらい簡単に狩られる存在になってしまった。
また、滅ぼされた大型動物たちも、「虚構」による超スピードで変化するサピエンスの脅威に適応しきれず、絶滅してしまった。
サピエンスの繁栄の要因は、器用さや思考能力ではなく、「虚構」だった。「サピエンス種」の圧倒的な強さが、「個」としての能力の高さではなく、「大規模な協力」と「行動パターンの変化の速さ」にあったという結論は、示唆に富んでいる。
ここでは、「合理的な思考ができるからパフォーマンスを発揮できる」という現代的な能力の捉え方とは、別の見方がされている。ある意味サピエンスは、「虚構」という筋の通らないものを信じてしまえるほどバカだったからこそ、「最強の種」になることができた。
ネアンデルタール人などは、あるいはサピエンスよりも合理的にものを考えることができたのかもしれない。そして、それゆえに「虚構」を信じることができず、「種」の単位での大規模な協力やトライ&エラーができなかったから、滅ぼされてしまったのかもしれない。
現代は、合理的思考が尊ばれることが多いが、この記事で述べてきた見方をするなら、それはむしろサピエンスの能力の本質からは遠ざかっているのだ。ほどほどにバカだからこそ、協力とチャレンジが可能になる。それを考えるなら、企業のリーダーや成功者が必ずしも合理的でないことも、納得できるかもしれない。
以上のような「読み方」が可能なのも、『サピエンス全史』の面白いところだ。
序盤の注目ポイントは、ここで述べてきたように、「サピエンスの罪」と「サピエンスの能力」についてだと思うが、もちろん他にも面白いところはたくさんある。
当然ながら、序盤以降も見どころはたくさんあるので、気になった方は、ぜひ実際に本を読んでみてほしい。
なお、当サイトでは、『サピエンス全史』の要約&解説記事、まとめ記事、批判記事なども書いているので、興味があればこちらも見ていってほしい。




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