『サピエンス全史』の宗教とイデオロギーの解説が面白い

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』の、宗教とイデオロギーについての話が面白い!

著者のハラリは、ざっくり言って

  • 「宗教」は、時間が経つにつれて「一神教」が広まったが、他の信仰といろいろ混ざっている
  • 自由主義や社会主義などの「イデオロギー」は、「宗教」と区別できない

というようなことを述べている。

『サピエンス全史』の面白い部分だと思うので、この記事で詳しく解説してみたい。

なお、この記事を書くにあたって、『サピエンス全史』第12章「宗教という超人間的秩序」を参考にしている。

 

宗教は「超人間的な秩序」

『サピエンス全史』は、あらゆる社会秩序は「虚構」の産物であるという主張をしている。

もちろん宗教も「虚構」だが、宗教の「秩序に正当性を与える力」は、人々をまとめる上で大きな役割を果たしてきた。今日では「宗教」は、差別、対立、不統一の原因の原因と見なされがちだが、それよりもずっと多くの「統一」による秩序維持の役割を果たしている。

著者ユヴァル・ノア・ハラリは、「宗教」を、「超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度」と定義できると述べている。

「超人間的」というのがキモで、例えば「サッカー」には、多くの決まり事や、奇妙な習慣や儀式が存在するが、「サッカーは人間が発明したものである」と誰もが承知している。その点において、サッカーは宗教ではない。

また、「超人間的」であっても、拘束力のないものは宗教でないとしている。例えば、精霊や生まれ変わりなどの「超人間的」なものを信じていても、それが何らかの拘束力を伴って人々の行動を強制したり制限しないのであれば、宗教ではない。

ハラリが言うには、紀元前1000世紀あたりから、「宣教を行う普遍的な宗教」が出現し、それは歴史上の革命だった。

そのような「普遍宗教」は

  • いつでもどこでも正しい普遍的な人間的秩序を信奉している
  • 信念をすべての人に広めることをあくまでも求める

というふたつの特徴を備えている。

 

アニミズムから多神教へ

「アニミズム的な信仰」は、局地的な、特定の場所にある特定のものを強調する傾向があった。

例えば、貴重な黒曜石が見つかった場所には良い精霊がいるとか、川が氾濫して危険なところには恐ろしい精霊がいる、といった感じだ。それらは、その特定の場所から離れてしまうと意味を持たない。

アニミズムは狩猟採集時代の信仰というイメージが強いが、農耕が始まったあとも、アニミズム信仰がすぐに消えたわけではない。ただ、交易ネットワークが発達し、大きな村や王国ができると、より多くの人々の間で共有できる信仰が必要になり、それが「多神教」の出現に繋がっていった。

アニミズムから多神教への変化によって、人々は、木や石や川の精霊ではなく、豊穣の女神、雨の神、軍神など、より抽象的で力強い神に祈るようになった。とはいえ、多神教はアニミズム的な要素を非常に強く残していて、聖なる岩や聖なる木など、具体的なものに祈る習慣が途絶えたわけではなかった。

 

優遇してくれるよう祈るからこその多神教

実は、多神教のほとんどや、アニミズム信仰でさえもが、個々の精霊や神などのすべての背後にある一神教的な「至高の神的存在」を認めていた。

ただ、アニミズムや多神教の信奉者たちは、絶対的な存在は、絶対的であるからこそ、個々の人間の不安や心配には無頓着だと考えていたのだ。

多神教の価値観では、絶対的な存在は、特定の人々の成功や繁栄には関心を持たないので、それよりは下位の神々に祈ったほうが、自分を優遇してくれる可能性があると考えられていた。だから、例えば病気になったときは、絶対神に祈るよりも、治癒の神に祈る。

それぞれ特定の領域を司る神だからこそ、人間ごときの願いに応えて、自分たちをひいきしてくれるかもしれない。多神教は、多様なニーズに合わせて、必然的に複数の神々を持つようになる。

多神教においては、複数の神々を信じるのは不自然なことではなく、「異端者」や「異教徒」を迫害しようともしなかった。多神教の信者は、支配した地域の人々を改宗させようとはしなかったし、自分の信仰を広めるために戦争をすることもなかった。

一方、あまりに多くの争いを引き起こしてきた「一神教」は、積極的に人々を改宗させようとするからこそ、「宣教を行う普遍宗教」になり得たのだ。

 

多神教から一神教へ

「一神教」は、多神教のバリエーションのひとつとして生まれたが、その出現時はいびつな考え方だった。

「絶対的な神は個別の人間には関心を持たず、何らかのひいきをしてもらうためには、それより下位にあたる、特定の事物を司る神に祈る必要がある」というのが、多神教の常識的な感覚だ。

あるとき、多神教の信者の一部が、特定の神だけを唯一神として信じるようになり、「自分たちの神は、絶対的な存在でありながら、自分たちに関心を持ち、自分たちだけをひいきしてくれる」と考えた。そうやって一神教が誕生する。

一神教は、不自然な考え方であると同時に、「普遍的宗教を主張し、積極的に他人を改宗させようとする」という特性を持っていたがゆえに、信者の数を増やし続けた。

一神教の中でも、例えばユダヤ教は、ユダヤという小さな国民とイスラエルという土地のためにある宗教なので、そこまで布教に積極的ではなかった。一方でキリスト教は、すべての人類が救済されるという喜ばしい知らせ(福音)を世界中に広めることが良しとされたので、積極的に布教を行い、実際に成功した。

一世紀初頭には、世界には一神教の信者がほとんどいなかった。しかし、一神教は急激に数を増やし続け、西暦500年頃には、世界宗教の帝国であるローマの国教にまでなった。その後も、キリスト教やイスラム教という一神教が急激に数を増やし、現在は、東アジアの以外のほとんどの人々が、何らかの一神教を信奉している。

 

一神教は「混合主義」

一神教は、他の宗教を改宗させたが、完全に消し去ったのではなく、他宗教の概念を自らの内に吸収した。

抽象的な神に祈るような多神教にも、アニミズムの具体的な物への信仰が残っていたように、一神教の中にも、多神教やアニミズムが生き続けていた。自分たちをひいきしてくれそうな存在に祈りたいとか、ありがたみを感じられるものを大事にしたい、という感覚が人間からなくなったわけではなかったからだ。

キリスト教の各王国は、困難を克復したり戦争に勝ったりするのを助けてくれる、独自の守護聖人を持っていた。つまり、一神教のキリスト教は、多神教の神々と同じ役割を果たす「聖者」を見出したのだ。悩んだキリスト教徒たちが神ではなく聖人に祈る習慣は、珍しいことではなかった。

一神教が取り入れたのは多神教だけではない。

多神教から派生したもののなかに「二元論の宗教」がある。二元論は、善と悪が対立している形で世界を描くことが多く、「悪の問題」について説明しやすい。「なぜ善人にも悪いことが起こるのか?」という深刻な問題について、「悪の勢力が優勢だから」という納得しやすい答えを提供できた。

その点、一神教は「悪の問題」を説明するのに非常に苦労する。「全知全能の神が世界を作ったのに、悪が存在するなんておかしいじゃないか」となるからだ。

二元論の宗教は、一時期は隆盛し、やがて一神教に制圧された。しかし、二元論の宗教もまた、完全に消し去られたわけではない。ユダヤ教やキリスト教やイスラム教は、二元論の宗教をたっぷり吸収した。だから、多くの一神教信者は、知らず知らずのうちに、二元論の信仰や慣行を引き継いでいる。「天国と地獄」や「天使と悪魔」というのは、二元論の遺産だ

(画像はミケランジェロ『最後の審判』、もともと一神教の体系に「天国と地獄」はなく、二元論の宗教から導入された。)

一神教は、様々な宗教を取り込み、混じり合いながら、大きくなっていった。このようなあり方は、宗教学者からは「混合主義」と呼ばれているらしい。

じつのところ一神教は、歴史上の展開を見ると、一神教や二元論、多神教、アニミズムの遺産が、単一の神聖な傘下で入り乱れている万華鏡のようなものだ。平均的なキリスト教徒は一神教の絶対神を信じているが、二元論的な悪魔や、多神論的な聖人たち、アニミズム的な死者の霊も信じている。このように異なるばかりか矛盾さえする考え方を同時に公然と是認し、さまざまな起源の儀式や慣行を組み合わせることを、宗教学者たちは混合主義と呼んでいる。じつは、混合主義こそが、唯一の偉大な世界的宗教なのかもしれない。

「聖人」にしても「天国と地獄」にしても、「一神教」が掲げるもともとの価値観(唯一絶対の神)とは、厳密に考えると矛盾がある。しかし、矛盾した虚構を信じてしまえることこそが、人間の重要な能力であるという見方もできる。

ハラリは、皮肉を交えながら、以下のように語っている。

人類には矛盾しているものを信じる素晴らしい才能がある。だから、膨大な数の敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒が、全能の絶対神と、それとは独立した悪魔の存在を同時に信じていたとしても、驚いてはならない。

 

神を信じない宗教もある

「仏教」は、日本を含め、世界的に普及している宗教だが、一神教ではないし、そもそも神を信じているわけでもない。

仏教は、ゴータマ・シッダールタが発見した「ダルマ」という法則を出発点にしている。それは、「苦しみは渇愛から生まれるので、苦しみから完全に解放される唯一の道は、渇愛から完全に解放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、心を鍛えて現実をあるがままに経験することである」というもので、仏教はこれを「普遍的な自然の法則」とみなしている。

一神教の第一原理が「神は存在する。神は私に何を欲するのか?」に対して、仏教の第一原理は「苦しみは存在する。それからどう逃れるか?」だ。

仏教は、他の神々の存在を否定しようとはしない。日本では仏教と神道が共存しているが、それは仏教が目的としているのは悟りを開くことで、それは神の問題とは関係がないからだ。

しかし、多くの仏教徒は、神々を崇拝する代わりに、悟りを開いた如来や菩薩を崇拝するようになり、俗世の問題への助けを要求するようになった。仏教もまた、多くの信者を獲得する過程で、「混合主義」的なものになっている。

 

イデオロギーも宗教である

ハラリの視点が面白いのは、混合主義的に大きくなっていった宗教の延長に、自由主義や共産主義のようなイデオロギーがあると見ているところだ。

最初に

  • いつでもどこでも正しい普遍的な人間的秩序を信奉している
  • 信念をすべての人に広めることをあくまでも求める

の2点が、「宣教を行う普遍宗教」の特徴だと述べたが、それはイデオロギーにも同じように当てはまる。

宗教とイデオロギーは、「神」か「自然法則」かという形で区別や分類がされることが多いが、それでは筋が通らないとハラリは考えている。

私たちは信念を、神を中心とする宗教と、自然法則に基づくという、神不在のイデオロギーに区分することができる。だがそうすると、一貫性を保つためには、少なくとも仏教や神道、ストア主義のいくつかの宗派を宗教ではなくイデオロギーに分類せざるをえなくなる。逆に、神への信仰が現代の多くのイデオロギー内部に根強く残っており、自由主義を筆頭に、そのいくつかは、この信念抜きではほとんど意味を成さないことにも留意するべきだ。

例えば、「共産主義」というイデオロギーは、マルクスが発見した法則から始まっているが、それはブッダが発見した法則から始まった「仏教」と同じことではないか、ということだ。イデオロギーの信奉者は、宗教と呼ばれることを嫌うものの、やはりイデオロギーもまた「超人間的な秩序の信奉」にすぎない。

現代的なイデオロギーは、神を崇拝しているわけではないが、代わりに「人間性を崇拝している人間至上主義」だとハラリは指摘する。

「人間性」を神聖視しているからこそ、「人間は自由」とか「人間は平等」といった虚構が成り立つのだ。そして、それは一神教に由来する。

自由主義的な人間至上主義は人間を神聖視するとはいえ、神の存在は否定しない。それどころか、この主義は一神教に基づいている。各個人の自由で神聖な性質を重んじる自由主義的な信念は、各個人には自由で永遠の魂があるとするキリスト教の伝統的な信念の直接の遺産だ。永遠の魂と造物主たる絶対神に頼らなければ、自由主義者が個々のサピエンスのどこがそれほど特別なのかを説明するのは、不面目なまでに難しくなる。

「自由」や「平等」は、「あらゆる魂は神の前に等しい」という一神教の信念の焼き直しにすぎないとハラリは言う。

神に由来する人間の神聖さをベースにしなければ、人間の自由を尊重する「自由主義」や、人間の平等を尊重する「社会主義」のような人間至上主義のイデオロギーは、説得力を持たない。

さらにハラリは、「従来の一神教と現に縁を切った唯一の人間至上主義の宗派は、進化論的な人間至上主義で、その最も有名な代表がナチスだ」と述べる。

 

ナチズムは神と縁を切った人間至上主義?

ナチスは、人間の神聖さを絶対視する人間至上主義を採用せず、「人類は不変で永遠のものではなく、進化も退化もしうる変わりやすい種である」というダーウィニズム的な法則を信じていた。

ナチスの野望は、優れた人間を退化から守り、人類の漸進的進化を促すことにあった。そのため、人類の最も優れた形態であるとナチスが考えていたアーリア人を保護し、障害者、同性愛者、ユダヤ人などのサピエンスは、退化の要因となるので隔離すべしと考えた。

ナチス以後に生物学者たちが行った遺伝子研究によって、人類の系統の違いは、ナチスが当時主張していたよりもはるかに小さいものだったことが立証された。しかし、「1933年当時の科学知識をもってすれば、ナチスの信念は常軌を逸しているとはとうてい言えなかった」とハラリは述べる。

ナチスは、人間性を忌み嫌っていたわけでは決してなく、むしろ人間性を賛美し、人間の可能性を信じていた。だからこそ、不合理な神聖を「人間」に付与して、弱者を救済してしまえば、人間は退化していくだけという思想に陥った。

人間至上主義でありながらも、人間の神聖さを絶対視しなかった宗教(イデオロギー)がナチズムであるという見方には、ハッとさせられるものがある。

「人間には神聖さがある」という虚構を信じない「人間至上主義」だったからこそ、ナチスは悲惨な結果を生んだ。

ただ、ナチスの悲惨な結末が、「人間には神聖さがある」という虚構が絶対的に正しいことの証明にはなるわけではない。そして、進化を続ける生命科学が、不穏な可能性をサピエンスに突きつける。

 

科学の進化が自由や平等に終わりをもたらす?

優れた民族だけを選別しようという考えはナチスとともに否定されたが、人間の生物学的な作用に関して深まる一方の知識を使って、超人を生み出そうと考える人は多い。彼らもまた、ナチスと同じように、人間の可能性を信じている。

ナチスは滅んだが、生物科学の進化によって明らかになる様々な事実が、人間の神聖さを切り崩しているとハラリは考える。

自由主義の人間至上主義の信条と、生命科学の最新の成果との間には、巨大な溝が口を開けつつあり、私たちはもはやそれを無視し続けるのは難しい。私たちの自由主義的な政治制度と司法制度は、誰もが不可分で変えることのできない神聖な内なる性質を持っているという信念に基づいており、その性質が世界に意味を与え、あらゆる倫理的権威や政治的権威の源泉になっている。これは、各個人の中に自由で永遠の魂が宿っているという伝統的なキリスト教の信念の生まれ変わりだ。だが過去200年間に、生命科学はこの信念を徹底的に切り崩した。

人間の生物学的な特徴からは、「自由」や「平等」という概念を見出すことが難しい。

普遍的な原理として現代の人々が信じる人間至上主義的なイデオロギーには、生物学的な根拠があるわけではない。その虚構を、科学は否応なしに暴こうとする。

『サピエンス全史』は、科学が人間至上主義の虚構を暴くことの危険性に強く警鐘を鳴らしている。『サピエンス全史』は、歴史を語る本でありながら、「幸福」や「私たちは何を望みたいか?」の問題を重視するが、その背景にはここまでに述べてきたような流れがある。

 

まとめ

長くなったので、最後に「まとめ」を述べる。

  • 宗教は、局所的なアニミズムから、抽象的な多神教へ、やがては積極的に布教を行う一神教へと統合されていった
  • 一神教も、アニミズムや多神教、二元論の宗教を取り込んだ、混合主義的なものである
  • 現代のイデオロギーも、一神教的な人間至上主義に多くを頼っている
  • 人間至上主義を否定したナチスは滅んだが、進化する生命科学が、再び人間至上主義という虚構を脅かそうとしている

一神教に飲み込まれはしたものの、アニミズム的な要素も、多神教的な要素も、二元論的な要素も、人間には必要なので、それは「混合主義」という形で今も残っている。そして、イデオロギーという合理性に根ざしていると考えられているものも、その多くを宗教性(超人間的な秩序の信奉)に頼っている。

著者は、今まで積み上げられてきた宗教やイデオロギーの「虚構」を、進化する生命科学が剥ぎ取ってしまうのではないかと警告を発している。

『サピエンス全史』は、どの章も読み応えがあるが、「宗教」を扱っている第12章単体でも、非常に面白い。

 

『サピエンス全史』についてより詳しく知りたければ、実際に本書を読んでみるのが一番だが、当サイトでは他にも『サピエンス全史』関連の記事を書いているので、よかったら以下も読んでみてほしい。

『サピエンス全史(上巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】 『サピエンス全史(下巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】 『サピエンス全史』の批判的なレビュー

 

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