『サピエンス全史』の「科学」の記述から考える、博士の待遇が悪く学術研究がつらい理由【ポスドク問題】

「博士号を取っても、まともな就職先が見つからず、生活に困ってしまう」という、いわゆる「ポスドク問題」が、日本に限らず、世界中で問題になっている。

大学院生、博士、ポスドクなど、「学術研究に携わる人材の待遇が悪い」という問題に対して

  • 「国はもっと研究を重視すべき」
  • 「企業がもっと積極的に高度人材を活用すべき」

などということがよく言われる。

だが、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』という書籍は、「科学によって何かを解き明かそうとすることそれ自体」に金が出たことは未だかつてなく、「科学」は、「帝国主義」や「資本主義」などのイデオロギーと結びついたからこそ発展した、という見方を取っている。

であるならば、むしろ「国民国家」や「実益の追求」というイデオロギーが薄れてしまったからこそ、学術研究が衰退しているのではないか、とも考えられる。今回はこの話題について解説と考察をしたい。

待遇の改善を政府や企業に要求する院生やポスドクや、学術研究の重視を呼びかける人たちを否定しようとする意図はない。ただ、この記事で挙げる視点が有用なものになる可能性があると考えて執筆している。

なお当記事は、『サピエンス全史』の

  • 第14章「無知の発見と近代科学の成立」
  • 第15章「科学と帝国の融合」
  • 第16章「拡大するパイという資本主義のマジック」

を参考にしている。

『サピエンス全史』の詳しい要約と解説を読みたい人は、以下の記事を参考にしてほしい

『サピエンス全史(上巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】 『サピエンス全史(下巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】

「科学」はそれ自体では成り立たず、何らかの宗教やイデオロギーを必要とする

『サピエンス全史』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリは、大学教授ではあるが、「科学」や「学術研究」というものに対して、冷静な見方をしている。「科学」は、宗教やイデオロギーと提携したからこそ力を持ち得たのであり、知的好奇心を追求する研究それ自体に金が出ていたわけではない。

学究の世界には、純粋科学を信奉する世間知らずの人が多くいる。彼らは、自分の想像力を掻き立てる研究プロジェクトなら何にでも政府や企業が利他主義に則ってお金を与えてくれると信じている。だが、これは科学への資金提供の実態からかけ離れている。

ほとんどの科学研究は、それが何らかの政治的、経済的、あるいは宗教的目的を達成するのに役立つと誰かが考えているからこそ、資金を提供してもらえる。たとえば十六世紀には、王や銀行家は世界の地理的探検を支援するために、厖大な資源を投じたが、児童心理学の研究にはまったくお金を出さなかった。それは、王や銀行家が、新たな地理的知識の発見が、新たな土地を征服して貿易帝国を打ち立てるのを可能にすると思ったからであり、児童心理の理解には何の利益も見込めなかったからだ。

政治的、経済的、宗教的関心の影響を受けない「純粋科学」なるものがあるとして、そのようなものへの資金提供は不可能だろうとハラリは考えている。

科学の発展のためには投資が必要で、そのためには、現実的に何らかの優先順位をつけることは避けられない。一方で、純粋な「科学」それ自体は、優先順位をつけるメカニズムを持たない。ゆえに、宗教やイデオロギーの後押しがなければ、科学は動き出すことができない。

限られた資源を投入するときには、「何がもっと重要か?」とか「何が良いか?」といった疑問に答えなくてはならない。そして、それらは科学的な疑問ではない。科学はこの世に何があるかや、物事がどのような仕組みになっているかや、未来に何が起こるかもしれないかを説明できる。だが当然ながら、科学には、未来に何が起こるべきかを知る資格はない。宗教とイデオロギーだけが、そのような疑問に答えようとする。

科学は、「こうなっている」を明らかにできるが、「こうするべき」を語ることができない。そのため、何らかの方向性を決めてくれるパートナーを必要とする。

過去500年に「科学革命」と呼ばれる科学の大発展が起こったが、それは「帝国主義」と「資本主義」という、強大なパートナーと提携できたからだと、ハラリは主張する。

(「科学革命」について詳しくは、実際に本書を読むか、「サピエンス全史の要約と解説」の第14章「無知の発見と近代科学の成立」を参考にしてほしい。)

 

「帝国主義」と「資本主義」が「科学革命」を起こした

過去500年に「科学革命」が起こったが、それ以前にも、個人がそれぞれに何かを発見したり発明したりする試みはあった。だが、「科学革命」は、集団でそれをやり始めたという点において、それまでとは一線を画する。

科学革命のためには、それまでの伝統を抜け出して、「集団的に無知を認める」必要があった。

科学革命以前は、人類の文化のほとんどは進歩というものを信じていなかった。人々は、黄金時代は過去にあり、世界は仮に衰退していないまでも停滞していると考えていた。長年積み重ねてきた叡智を厳しく固守すれば、古き良き時代を取り戻せるかもしれず、人間の創意工夫は日常生活のあちこちの面を向上させられるかもしれない。だが、人類の実際的な知識を使って、この世の根本的な諸問題を克復するのは不可能だと思われていた。知るべきことをすべて知っていたムハンマドやイエス、ブッダ、孔子さえもが飢餓や疫病、貧困、戦争をこの世からなくせなかったのだから、私たちにそんなことがどうしてできるだろう?

「自分たちにはまだ知らないことがあり、それを知ることで進歩できる。過去よりも未来のほうが良くなっていく可能性がある」と、みんなが考えられるようになったことこそが、歴史的な転換だった。

ハラリは、「科学」が「帝国主義」や「資本主義」というイデオロギーと結びつくことによって、「科学革命」が起こったと見ている。

他国を侵略して支配する上で、相手の情報をより詳しく知ったほうが有利であり、その点において「科学」と「帝国主義」は利害が一致した。科学は帝国に協力し、帝国は科学のために多くの支援を与えた。

「科学」は「資本主義」とも結託できた。科学の発見が、新しいエネルギーと、生産性の向上をもたらし、それが「経済成長が続いて全員のパイが増えていく」という資本主義のイデオロギーに説得力を与えた。そのお返しに、「科学」は膨大な投資を得ることができた。

科学は自らの優先順位を設定できない。また、自らが発見した物事をどうするかも決められない。たとえば、純粋に科学的な視点に立てば、遺伝学の分野で深まる知識をどうすべきかは不明だ。この知識を使って癌を治したり、遺伝子操作した超人の人種を生み出したり、特大の乳房を持った乳牛を造り出したりするべきなのか? 自由主義の政府や共産主義の政府、ナチスの政府、資本主義の企業は、まったく同じ科学的発見をまったく異なる目的に使うであろうことは明らかで、そのうちどれを選ぶべきかについては、科学的な根拠はない。

つまり、科学研究は宗教やイデオロギーと提携した場合にのみ栄えることができる。イデオロギーは研究の費用を正当化する。それと引き換えに、イデオロギーは科学研究の優先順位に影響を及ぼし、発見された物事をどうするか決める。

科学それ自体は、何かを決めることができない。だが、「帝国主義」と「資本主義」という強力なパートナーを得ることができ、それが「科学革命」の爆発的な成果に繋がったのだ。

 

「科学の進歩が力になる」は自明の前提なのか?

現在の科学を考えるにあたって、「科学の進歩が力になる」というのが、産業革命と帝国主義が結びついた一時期だけのものだった可能性に、留意したほうがいいかもしれない。

実は、十九世紀になるまでは、軍事においてさえ、人々には「テクノロジーで優るほうが勝つ」という感覚がなかったらしい。

十九世紀までは、軍事面での革命の大多数は、テクノロジー上ではなく組織上の変化の産物だった。二つの異なる文化が初めて遭遇したときには、テクノロジーの格差が重要な役割を果たしたこともある。だが、そのような場合にさえ、意図的にそのような格差を生み出したり広げたりしようと考える者はほとんどいなかった。たいていの帝国は、テクノロジーの持つ魔法のような力のおかげで台頭したわけではなく、その支配者たちは、テクノロジーを向上させることについてろくに考えなかった。

ほとんどの将軍と哲学者が、新しい兵器の開発は自らの義務だとは思っていなかった。中国史で最も重要な軍事的発明は、火薬だ。もっとも、私たちの知るかぎりでは、火薬は不老不死の霊薬を探していた道教の錬金術師によって偶然発明された。火薬がその後どのように使われたかを見ると、なおさら物事がはっきりしてくる。その道教の錬金術師のおかげで中国は世界の支配者になっただろうと考えてもおかしくない。ところが実際には、中国人はこの新しい化合物を主に爆竹に使った。宋帝国がモンゴル人の侵略によって崩壊するときにも、中世版マンハッタン計画を実施して最終兵器を発明し、帝国を救おうとする皇帝はいなかった。火薬の発明から約600年たった十五世紀になってようやく、アフロ・ユーラシア大陸の戦場で大砲が決め手となった。火薬の恐ろしい潜在能力が軍事目的で使われるまでに、なぜこれほど長い時間がかかったのか? それは火薬が出現した時代には、王や学者、商人は、新しい軍事技術によって救われるとも、金持ちになれるとも思っていなかったからだ。

砲兵士官からキャリアを始めたナポレオンでさえ、新しい兵器にはほとんど関心を示さなかった。

十九世紀より前は、「テクノロジー」よりも「兵站学」と「戦略」が、勝敗を左右する主な要素だった。その後、産業革命と帝国主義の結びつきが軍事テクノロジーの飛躍的な進化をもたらし、それ以前とそれ以降の戦争は、まったくの別物になった。

軍事においてテクノロジーの重要性が意識される以前は、数百年前の天才軍師が、数百年後の軍隊を打ち負かすということも、当然起こりうることと考えられる。しかし、戦術の天才とされるナポレオンでも、その少し後の時代の近代的な軍隊と戦えば、まったく相手にならない。軍事テクノロジーは、漸進的に進化していったわけではなく、十九世紀から急激に発展したのだ。

「科学が進んでいるほうが戦争で優位に立つことができる」というのは、近代的な帝国主義の価値観だ。そして、例えば日本では主要な国立大学を「旧帝国大学」と呼ぶこともあるように、多くの大学が「帝国」の目的のために作られた。

現代では、帝国主義的な軍事目的の科学開発は、もはや強く否定されるものになっている。それでも、「科学の発展が国益になり、国は科学を支援するもの」という帝国主義の名残りの価値観がまだ残っている。だがそれは、ある意味では矛盾を抱えているし、現に効力が逓減しているように見える。

 

「帝国主義」による「科学」は立場を失いつつある

「科学」と「資本主義」は、いまだに良いコンビを組んでいるかもしれない。

現在は「GAFA」と呼ばれる先進的な企業が、大学の研究職よりも良質な環境を研究者に提供しているとも言われるが、「国家(帝国主義)」から「企業」へと、科学研究の場が移っているという見方もできる。

一方で、「科学」と「国家(帝国)」の提携は、前提としていたものが崩れかけているように見える。「自国の大学での科学的な成果が国益になる」という前提は、これからも機能し続けるだろうか?

もやは国家は、戦争をして領土を拡大できるわけではないから、利益を目的で軍事研究をするのは難しい。もちろん軍事に関しては、国防上必要であるという正当性はまだ機能するだろう。だが、国の税金によって育成された研究者が、グローバル企業に就職するようになっていくなら、「国の研究が国民の利益になる」と断言しにくくなっていく。

「ノーベル賞」のような名誉のため、という切り口もあるかもしれない。しかし、ナショナリズムが希薄になり、「受賞した個人がすごいのであって、ノーベル賞を排出した国の国民がすごいわけではない」と考える人が多くなれば、「なぜ個人的な名誉を求めて研究する人のために税金を出さなければならないのか?」となってもおかしくはない。(逆に考えれば、科学のためには、ナショナリズムを煽らなければならないのかもしれない。)

研究者は、「科学は科学それ自体のために尊重されるべき」と考えることが多く、純粋科学を重視するがゆえに、「役に立つ」という俗な考え方を否定しがちだ。

しかし、ハラリが論じる「科学革命」の特徴は、集団的にそれを行い、厖大な投資がそこに注ぎ込まれることにある。個人的な興味関心の追求であれば、それは「科学革命」以前からずっと行われていたことなのである。

「科学の発見それ自体に価値がある」というのは、否定しようもなく正しい。しかし同時に、「では大学に所属しない人の関心の追求には価値がないのか?」「大学での科学に税金を注ぎ込む正当性はどこにあるのか?」という疑問に応えるのも難しくなる。

つまり、大学という特権的な場で科学を行うためには、何らかのイデオロギーの後押しが必要なのだ。

現在の大学という機関は、帝国主義の名残りによって正当性を維持している状態であり、大学による学術研究の後押しは、現代的な価値基準で後ろ暗いものを抱えている。それゆえに難しく、「院生やポスドクの待遇をもっと良くするべき」という呼びかけは、一筋縄ではいかないかもしれない。

「科学の進歩が力になる」という帝国主義の時代の前提において、「科学には価値があるから、大学でお墨付きを得た博士を企業は雇うべきだ」と言っても、企業側の同意は得られないことが多い。

もっとも、企業に需要のある研究者(金になりそうな研究対象を扱っている博士)は、ポスドク問題などどこ吹く風で、有名企業から引っ張りだこだろう。

 

「科学」と「金を集める」は切り離せないかもしれない

「自分の好きな研究を好きにやりたい」というのは、研究者の多くが夢見ることで、「それって役に立つの?」という質問に対して、「そういうことじゃないんだよ!」と言いたくなる気持ちは非常にわかる。

しかし、現実的には、世の中が無条件に学術的な研究を支援してくれるわけもないので、研究に携わるキャリアを考えるのであれば、身の振り方をよく考える必要があるだろう。

「科学」は、そもそもの成り立ちからして、宗教やイデオロギーと無縁ではなかった。今の「大学」も「帝国主義」の名残りに多くを頼っているが、であれば、これからますます状況が悪くなっていく可能性もある。

すでにポジションを得ている研究者は、科学それ自体の重要性を主張しがちだが、もし学生や院生が「科学は素晴らしいものだから国や企業が支援してくれる」という利他主義を当然のものと思っているのなら、自分のキャリア戦略についてもう少し慎重になる必要があるだろう。

「研究の意義を認めてもらい、研究資金を集める」というのは、「科学」において避けて通れない。

  • 需要のありそうなテーマを選ぶ
  • 自分のテーマをむりやりにでも支持されそうな分野に結びつける

などは、「科学」それ自体からは外れたことかもしれないが、現実的には必要な行為である場合が多い。

 

 

以上が、『サピエンス全史』における「科学」と「帝国主義」との結びつきの話だ。

より詳しくは、「要約と解説」記事や、実際の本書を読んでみてほしい。

『サピエンス全史(上巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】 『サピエンス全史(下巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】

 

なお、ここで論じた話とは別になるが、日本社会の雇用システムは、大学院以上の専門性を否定しがちな慣行になっている。これについては、小熊英二『日本社会のしくみ』の要約と解説記事を書いているので、気になる方は以下を参考にしてもらいたい。

小熊英二『日本社会のしくみ』第1章の要約と解説【日本社会の「三つの生き方」】

 

1 COMMENT

みずいろ

国家ではなく企業の時代というのはそういう意味だったんだ。
国民国家の見直しは不可避、というのは説得力ありますね。
面白い。要約と解説も読ませてもらいます!

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