『サピエンス全史』は、様々な論点を持つ長大な書籍だが、本書が提示する大きなテーマの一つに「世界は統一に向かっている」というのがある。
歴史を見れば、地球は、「多様から文化」から「統一された社会」へと、変化しているのだ。
今回は、『サピエンス全史」における「多様性」と「統一」というテーマについて解説したい。
なお、当記事を書くにあたって、『サピエンス全史』の
- 第9章 統一に向かう世界
- 第10章 最強の征服者、貨幣
- 第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン
- 第12章 宗教という超人間的秩序
- 第13章 歴史の必然と謎めいた選択
- 第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和
にあたる部分を参考にしている。


歴史には方向性があり、世界は統一に向かっている
『サピエンス全史』中盤の面白いところは、著者のユヴァル・ノア・ハラリが、「歴史には明確な方向性があり、世界は統一に向かっている」ときっぱり断言しているところだと思う。
それを言い切る根拠として、「地球という惑星上に同時に存在する個別の人間社会の数を数える」と、その数が激減しているそうだ。
地球上には異なる人間社会がいくつ存在したのだろう? 紀元前一万年ごろ、この星には何千もの社会があった。紀元前2000年には、その数は数百、多くても数千まで減っていた。1450年には、その数はさらに激減していた。
数千年単位の視点で見れば、人口が増えているにもかかわらず、人間社会のバリエーションは減り続けていて、地球は「多様性がなくなる」方向に向かっている。そして、これをハラリは、歴史の必然と主張する。
例えば、英語話者が多いとか、キリスト教やイスラム教の信者が多い、などの今の世界の現状は、偶然だった可能性がある。歴史を繰り返せば、英語よりもオランダ語話者が多い世界もありえたかもしれないし、聖書の内容が今と違った可能性もありうる。しかし、小さく多様な文化が、交易や争いによって統合されていき、やがてグローバルな世界に到達することは、歴史の必然だったとハラリは考えている。
実は、狩猟採集民の特徴は、その「多様性」にある。交易ネットワークが発達する以前に世界に点在していた文化は、それぞれが違う言語を話し、それぞれが違うものに祈りを捧げていて、今の人間には思いもよらない風習を備えていたかもしれない。だが、ネットワークが広がり、コミュニケーションの総量が増えるほど、文化の違う他者との共通項が必要になるので、原始的な多様性は減っていく。
現在は、ネットワークが広がり続けた結果として「グローバル」という単一の人間社会が出現した、とハラリは見ている。
貨幣、帝国、宗教
『サピエンス全史』でハラリは、世界の「統一」を大きく進めたものとして、「貨幣」、「帝国」、「宗教」を挙げている。
「貨幣」
文化や宗教が違えば、望むものが異なることも当然あり得る。しかし、「貨幣」は、価値観のまったく異なる集団を繋ぐことができる。なぜなら、誰もが貨幣を欲しがる理由は、自分がそれを欲しいからではなく、「他者がそれを欲しがっている」からだ。
「金」にまったく価値を感じない集団がいたとしても、他の集団と交易を続けるうちに、やがて自分たち以外の集団が「金」を猛烈に欲しがっていることに気づく。「金」さえあれば、自分が欲しいものと交換できることがわかるので、やがて自身も「金」を求めるようになる。最初は「金」に何の価値も感じなかった人でも、「他者がそれを欲しがっている」という理由で、自分もそれが欲しくなるのだ。そのような形で、異なる文化や価値観の間に「貨幣」が浸透していく。
「貨幣」は、所有者自身がその価値を信じる必要がないゆえに、文化や宗教を超えて浸透していくのだ。
「帝国」
帝国主義は、周辺を自らのうちに取り込もうとする。取り込まれた民族は帝国の一部となり、世代を経るごとに帝国の価値観に同化していく。帝国もまた、多くの人を統一に向かわせる。
現代的な価値観から、帝国の侵略の歴史が非難されることもあるが、帝国を非難する価値観それ自体が帝国によって形作られたものであり、帝国の被害者とされる「純正の文化」もまた、様々な争いの果てに統合されて形作られたものに過ぎない。
(「帝国」に関してより詳しくは、『サピエンス全史』要約と解説の第11章または、当記事を読み進めてもらいたい。)
「宗教」
原初的な宗教は、具体的な物や地形を崇拝するアニミズム的なものだったが、交易ネットワークが広がるにつれて、より抽象的な神に祈る多神教に変化していった。長期的には、唯一の神しか認めず、積極的に他者を改宗させようとする性格を持った一神教が、多くの信者を獲得した。
一神教は、普及する過程で、アニミズムや多神教などの様々な要素を自らのうちに取り込み、「混合主義」的なものになっている。
『サピエンス全史』の「宗教」に関しては、詳しくは以下の記事を参考にしてほしい。

もはや「純正の文化」は存在しない
私たちは、貨幣、帝国、宗教によって統一された、様々な前提のもとで思考している。それらは分かちがたく私たちの一部になっているので、もはや否定のやり方すらわからない。
例えば、「過去の侵略の歴史は非難されるべきだ」という価値観それ自体が、侵略者から与えられたものなのだ。
過去の帝国主義を非難する動きについて、ハラリは以下のように述べている。
人類の文化から帝国主義を取り除こうとする思想集団や政治的運動がいくつもある。帝国主義を排せば、罪に犯されていない、無垢で純正な文明が残るというのだ。こうしたイデオロギーは、良くても幼稚で、最悪の場合には、粗暴な国民主義や頑迷さを取り繕う不誠実な見せかけの役を果たす。有史時代の幕開けに現れた無数の文化のうちには、無垢で、罪に損なわれておらず、他の社会に毒されていないものがあったと主張することは妥当かもしれない。だが、その黎明期以降、そのような主張のできる文化は一つもない。現在、そのような文化が地上に存在しないのは確実だ。人類の文化はすべて、少なくとも部分的には帝国と帝国主義文明の遺産であり、どんな学術的手段あるいは政治的手段をもってしても、患者の命を奪うことなく帝国の遺産を切除することはできない。
帝国主義の被害者になった「純正の文化」とされるものも、もとを正せば、無数の文化の争いの結果として「統合(侵略)」され、形作られたものに過ぎない。今の地球上には、「純正の文化」だと主張できるものは一つもない。もちろん、現在の国民的、民族的なアイデンティティとして掲げられる文化も、少なくとも「純正」ではない。
今の世界でも、いたるところで文化の対立が起こっているが、「異なる文化同士が対立している」という認識を私たちが持っている時点で、もはや大体の画一化が進んでしまったような状態なのだ。観光地は世界中どこも似ている、という現象を思い浮かべればわかりやすいかもしれない。
「正真正銘の文明の衝突は、耳の聞こえない人どうしの会話のようなものだ」とハラリは言う。本物の多様性のぶつかり合いは、共通の概念を持てず、相手の考えていることがまったくわからず、あとは物理的な暴力しかない、というような状況だ。同じ概念を共有し、対立や議論ができる時点で、紛れもなく世界は「統一」されている。
ナショナリズムもまた「統一」の過程に過ぎない?
ハラリは、国民国家でさえ、「統一」の過程における段階的なものに過ぎない、という見方をしているようにも読める。
二十一世紀が進むにつれ、国民主義は急速に衰えている。しだいに多くの人が、特定の民族や国籍の人ではなく全人類が政治的権力の正当な源泉であると信じ、人権を擁護して全人類の利益を守ることが政治の指針であるべきだと考えるようになってきている。だとすれば、200近い独立国があるというのは、その邪魔にこそなれ、助けにはならない。スウェーデン人も、インドネシア人も、ナイジェリア人も同じ人権を享受してしかるべきなのだから、単一のグローバルな政府が人権を擁護するほうが簡単ではないか?
「それぞれの国家」は「グローバル」に飲み込まれつつあり、その場合の共通項になるのが「個人」だ。今や、世界のほとんどの人たちが、自分のことを「国民」である前に「個人」だと考えるようになっている。
現在は、国同士が激しく争っていた時代と比べて、国民国家の独立性が弱まっている。当時と違い現在は、「グローバル」を無視して独自の判断で何かをできる国家など存在しない。何をするにしても世界情勢を考慮しなければならないし、一国だけでは経済が立ち行かなくなってしまった。
もちろん今も、ところどころで民族主義やナショナリズムが激しく吹き上がるが、「個人」という考えが今のように根付いてしまっている時点で、すでに世界はかなりのところまで統一が進んでいるのだ。
まとめ
- 歴史には方向性があり、点在する多様な文化から、ネットワークで繋がれた統一された世界に向かっている
- 原始的な社会ほど多様性があったが、交流が広がり、共通点を見出すほど、画一化が進んでいく
- 貨幣、帝国、宗教が、「統一」のために大きな役割を果たした
- 「純正の文化」が帝国主義に脅かされると考える人が多いが、被害者側に見える文化でさえ、小さな文化の統一の結果によって生まれたものに過ぎず、少なくとも「純正」ではない
- 現在は国民国家という単位を意識して生きる人が多いが、それもグローバルに飲み込まれつつあり、国家の独立性は弱まり続けている
- 今や多くの人が、国民である前に「個人」であると考えていて、その点においてグローバルな統一が進んでいる
現在の「多様性」について
この記事で述べてきたようなハラリの見方について、最初から最後まで納得できる人は多数派ではないかもしれないが、説得力はある。
ハラリは『サピエンス全史』において、現在の「多様性」を掲げた運動について何か言及しているわけではない。ただ、ハラリ的な見方をするならば、「多様性」を掲げた「統一」のための動きが起こっている。
今の「多様性」は、「多様性という名の画一的な個人主義」と言えるかもしれない。原始的な社会には、今よりはるかに多くの文化的な多様性があったようだが、おそらくそれは近代的な人権意識にそぐわないものが多く、現代的な「多様性」は、原始的な多様性をむしろ否定しにかかる場合が多いだろう。
画一化のための動きに「多様性」という言葉が冠せられるのは、なかなかの皮肉かもしれない。「多様性」という概念を理解して対話できる時点で、かつての「多様な世界」からは考えられないほどの「統一」が進んでいる。
歴史的な視野で見れば、むしろ今ほど「世界中の人が似たような考え方をしている」時代は他にない。
当サイトでは、他にも『サピエンス全史』関連の記事を書いている。時間があるならば実際に本書を読んでみるべきだが、よければ以下の記事も参考にしてほしい。


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