「幸福」という『サピエンス全史』の重要テーマを解説【私たちは何を望みたいのか?】

ホモ・サピエンスの歴史を記述する長大なベストセラー、『サピエンス全史』が特別に重視している問題は、「幸福」についてだ。

著者のユヴァル・ノア・ハラリは、「幸福」というテーマを強く掲げていて、それは文中にかなり明確に書かれてもいるのだが、文章量に圧倒されてうまく読み解けなかった人も多いかもしれない。

今回は、『サピエンス全史』の「幸福」という問題に焦点を当てて解説していく。

歴史本には珍しい「幸福」という問題意識

歴史学者は、「幸福」について論じることはあまりない。そのテーマは、歴史を語ることの本分から外れていると見なされているからだ。しかし著者のハラリは、あえて「幸福」こそが歴史の最重要テーマであると問題提起している。

歴史書のほとんどは、偉大な思想家の考えや、戦士たちの勇敢さ、聖人たちの慈愛に満ちた行い、芸術家の創造性に注目する。彼らには、社会構造の形成と解体、帝国の勃興と滅亡、テクノロジーの発見と伝播についても、語るべきことが多々ある。だが彼らは、それが各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたのかについては、何一つ言及していない。これは、人類の歴史理解にとって最大の欠落と言える。私たちは、この欠落を埋める努力を始めるべきだろう。

実際に『サピエンス全史』は、「幸福」という問題を強くを意識しながら書かれている本であり、そのような視点で読み返してみると、様々な発見があるかもしれない。

 

「種の繁栄」と「個の幸福」は別物

『サピエンス全史』は、本書第3章「狩猟採集民の豊かな暮らし」で、狩猟採集民の生活が思いのほか豊かだったことを述べ、第5章「農耕がもたらした繁栄と悲劇」で、農耕によって人口が増えた一方、個人の生活が劣悪なものになったことについて述べている。

実は、狩猟採集民の生活は、労働時間が短く、多様な食べ物が手に入るので健康的で、単一の作物に頼らないので飢えのリスクも少なかった。農耕民は、長時間の単純作業を強いられ、飢えや病気のリスクが大きく、格差と暴力に晒されやすかった。「農耕によって簡単に食糧が手に入るようになった」というイメージに反して、むしろ生活水準が大きく下がったのだ。

一方、農耕によって単位面積あたりから取れる栄養は大きくなったので、人口が増えた。人口が増えてしまったからこそ、増えたぶんを養うため、農耕をやめられなくなった。「農業革命は罠だったのだ」とハラリは述べている。

いまだに人間の特徴の多くは、非常に長い時間を過ごした狩猟採集時代に適したものになっていて、人間は農作業に適した種ではない。そのため、農耕によって様々な病気が発症し、多くの人間が苦しむことになった。これは現代の工場労働や事務作業にも当てはまる。人間は、単純作業に適応することはできるが、特別それに適した本能を持って生まれるわけではない。

「農耕」によって、「種」としては繁栄したかもしれないが、「個」としての運命は過酷になった。「種の繁栄」と「個の幸福」は別のものなのだ。

 

動物の幸福も考える

ハラリは、「種」と「個」の対比を考えるだけでなく、「人間以外の動物の幸福も視野に入れるべきでないか」と考えている。

本書第17章「産業の推進力」では、産業革命によって生産性が飛躍的に向上したものの、ベルトコンベヤーで動物を生産する「工業化された畜産業」という、あまりにも残酷な生産体制が登場したことについて述べている。

現代人がいまだに狩猟採集民の本能を持っているように、工場生産される家畜もまた野生時代の本能を持っている。

工場生産される家畜たちは、安全なケージの中で飼育され、十分な餌と水、病気に対する予防接種を与えられ、種としての繁殖にも成功している。客観的な生物としての必要性は満たされてる。しかし、それぞれの動物たちの主観としては、母親と強く結びついたり、仲間と遊んだり駆け回ったりしたいという衝動を強く覚えるので、「工業化された畜産業」は、そこで生産される動物たちに確実な苦しみを強いる。

 

ハラリはこれまでの歴史をどう評価しているのか?

第19章「文明は人間を幸福にしたのか」では、「歴史」と「幸福」について、様々な観点から考察がされている。

ハラリは、「世界はだんだん良くなっている」という進歩主義的な見方をしているわけでもないし、「昔のほうが幸福だった」というロマン主義的な見方も避けている。

近代社会が実現した、「世界平和」「乳幼児死亡率の低下」「人権」「生活水準の向上」などを高く評価すると同時に、それが今後も続いていくものという確信を持っているわけではない。

人類にとって過去数十年は前代未聞の黄金期だったが、これが歴史の趨勢の抜本的転換を意味するのか、それとも一時的に流れが逆転して幸運に恵まれただけなのかを判断するのは時期尚早だ。

核の恐怖は平和をもたらしたが、それは核兵器による大破壊の前触れに過ぎないかもしれない。発展する産業は、現在進行系で地球の生態学的均衡を崩壊させつつあるが、これはやがて、思いもよらなかった大惨事を引き起こす可能性がある。

また、もし仮に、ますます未来が良くなっていったとしても、それで過去を正当化していいことにはならない。

近代を評価するにあたっては、つい二一世紀の西洋中産階級の視点に立ちたくなる。だが、十九世紀のウェールズの炭鉱夫や、アヘン中毒に陥った中国人、さらにはタスマニアのアボリジニの視点を忘れてはならない。最後の純血のタスマニア先住民となったトルガニニは、アニメ「シンプソンズ」に登場する典型的な西洋中産階級の父親ホーマー・シンプソンに劣らず重要だ。

ハラリは、過去の悲惨な出来事を考慮に入れず現在を評価することを否定する。

また、動物たちの幸福を考慮するならば、現在の豊かな生活の正当性にはますます疑問符がつく。

近代のサピエンスが成し遂げた比類のない偉業について私たちが得意がっていられるのは、他のあらゆる動物たちの運命をまったく考慮しない場合に限られる。疾病や飢餓から私たちを守ってくれる自慢の物質的豊かさの大部分は、実験台となったサルや、乳牛、ベルトコンベヤーに乗せられたヒヨコの犠牲の上に築かれたものだ。過去二世紀にわたって、この地球という惑星の歴史上前例のない残忍さを備えた産業利用の体制に、何百億もの動物たちが従属させられてきた。動物愛護運動家の主張のわずか10分の1でも認めるならば、工業化された近代農業は、史上最悪の犯罪ということになるだろう。地球全体の幸福度を評価するに際しては、上流階級やヨーロッパ人、あるいは男性の幸福のみを計測材料とするのは間違いだ。おそらく、人類の幸せだけを考慮することもまた誤りだろう。

 

「幸福」に対する科学的なアプローチと伝統的なアプローチ

第19章では、「幸福」に対する「科学的なアプローチ」と「伝統的なアプローチ」が異なることについても、解説されている。

「科学的アプローチ」は、アンケート調査などの方法で、主観的な幸福の量を計測しようとする。そのような試みによって

  • 富は実際に幸福をもたらすが、一定の水準を超えると富の増加は幸福に影響を与えなくなる
  • 病気や怪我などの不幸は短期的に幸福度を低下させるが、それが悪化の一途をたどるのでなければ、やがて健康な人と同じくらいの幸福度に回復する
  • 家族やコミュニティとの関係が幸福度に大きな影響を与える

などの興味深い事実が明らかになった。

しかし、何にも増して重要な発見は、「幸福は、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる」というものだ。まり、幸福とは「期待の問題」なのだ。

いくら客観的な条件に恵まれていても、主観的な期待があまりにも高ければ、その人は不幸になる。逆に、客観的な条件に恵まれていなくても、期待があまり高くなければ、その人は幸福になる。であれば、生活の期待値が上がっている先進国の現代人は、物質的にどれだけ豊かであっても、不幸な状態に追いやられているかもしれない。マスメディアと広告業界は、世の中を不幸に陥れようとしていることになる。

進化生物学的は、幸福や不幸を、「進化の過程において、生存と繁殖を促すか、妨げるかという程度の役割しか担っていない」という見方をすることがある。つまり幸福は手段に過ぎないというわけだ。だがこのような知見は、人間が幸福を操作できるという可能性にも繋がる。幸福が単なる機能に過ぎないのであれば、投薬によってセロトニンなどの分泌を促すことで、周囲の環境をまったく変化させずに我々は幸福に至ることができる。

一方、「伝統的なアプローチ」の場合、仏教をはじめとする伝統的な宗教や哲学は、「快」を追求するのではなく、自分を見つめ、どんな感情をもあるがままに受け容れられるようになることで、真の安らぎを得られるとする。「真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係である」というのが仏教の洞察だ

仏教は、科学と同様に人間の主観に目を向けているように見えるが、「内なる感情の追求をやめることで真の幸福に到達できる」と考えていて、生化学的なアプローチとは似ているようでまったく異なる。

結局のところハラリは、『サピエンス全史』において、幸福が何たるかについて、何らかの結論を出しているわけではない。

ただ、「テクノロジーが進歩するほど、私たちはより真剣に幸福について考えなければならないだろう」という警告を発している。

 

テクノロジーが突きつける「私たちは何を望みたいのか?」という問題

我々が何を望み、何に快を感じるかは、いまだに狩猟採集時代の特性に多くを拠っている。「何に幸福や不幸を感じるか」は、生まれる前から遺伝的に決まっているのだ。

性転換手術のようなテクノロジーが発展しても、あらかじめの性的指向自体を変えることはできない。様々なダイエット食品が開発されていても、「糖や脂肪を美味しいと感じる」こと自体を変えることはできない。

だが、遺伝的工学のテクノロジーは、我々の「先天的な性質」すらを変えてしまえる可能性を持っている。

遺伝子操作によって、工業化された畜産業に対してまったくストレスを感じない動物を創り出せるかもしれない。それと同じ施術を我々にも適用できるなら、退屈な仕事に苦痛を感じない人間、学習や訓練を喜んで行う人間、常に高い幸福感を維持できる人間を作り出すことすら可能かもしれない

遺伝子工学のテクノロジーによって、「私たちは何をすれば幸せになれるのか?」という問題意識そのものが陳腐になる可能性がある。「何に幸せを感じるのか?」という前提を変えることができるようになるかもしれないからだ。

もちろん、遺伝的についてはまだ未知数のことばかりなので、現時点では悲観寄りの予測に過ぎない。しかし、もしそうなった場合、「私たちは何を望みたいのか?」が、歴史上最も重要な問題提起になるとハラリは考えている。

我々は、自分たちが何を望むのかすらを、思いのままに設計できるかもしれないし、それが世界にどんな影響を与えるのかは想像すらできない。

唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう。

ここまで読めば、ハラリが「幸福」について積極的に語ろうとする理由が理解できただろう。

歴史的な視点で考えるほど、「幸福」の問題を無視できなくなるというハラリの視点は慧眼に思う。

 

以上、『サピエンス全史』と「幸福」の問題について書いてきた。

興味を持った方は、ぜひ『サピエンス全史』を実際に読んでみてほしい。

 

当サイトでは、『サピエンス全史』の詳しい「要約と解説」記事や、「批判的なレビュー」なども書いているので、興味があれば以下も見ていってほしい。

『サピエンス全史(上巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】 『サピエンス全史(下巻)』の要約と解説【ユヴァル・ノア・ハラリ】 『サピエンス全史』の批判的なレビュー

 

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