自分には才能があるのか、自分も成功できる可能性があるだろうか、というのは、今の時代を生きる多くの人にとって、強い関心事のひとつだろう。
エビデンスのある成功法則を集めた書籍、エリック・バーカー『残酷すぎる成功法則』第1章「成功するにはエリートコースを目指すべき?」では、「平均値」と「外れ値」、どちらが成功のために有利なのかという観点から、様々な研究結果が紹介されている。
書籍の内容を踏まえて、この記事では、天才、秀才、凡人の違いと、どうやって自分の才能を見極め、適切なキャリア戦略を描くか、あるいは凡人はどうすればいいのか、を考察する。
「良し悪し」ではなく「性質の違い」
多くの人が、今の社会にある何らかの基準に照らし合わせて、「良い」や「悪い」を判断しがちだが、世の中に存在する多くのものには「絶対的な優劣」があるわけではない。
例えば、過去の遺伝子の研究では、「良い影響を与える遺伝子」と「悪い影響を与える遺伝子」があるという考え方がされていたようだが、現在ではそれは否定されている。
ある特定の遺伝子が、ADHD、アルコール依存、暴力性などと関連していることが研究によってわかった。しかしその問題とされている遺伝子を持った子供は、積極的に物を分け与えようとする特徴を持つことなども、のちに明らかになった。その遺伝子を持つ人は、特定の環境で育つと、その暴力的な面を露呈させやすくなるかもしれないが、別の環境で育つと、普通よりも親切で公平な人間になりうるのだ。
何らかの特徴を、絶対的な「良し悪し」で判断するのではなく、「性質の違い」と考えるのが、今は常識になっている。
そして、「テストで圧倒的な点数を叩き出せる性質」や「スポーツでトップになれる性質」も、絶対的に「良い」わけではなく、むしろ別の側面から見れば「欠陥」になることもある。
「秀才」の延長線上に「天才」があるわけではない
多くのフィクションでは、「何でもできるし、何でも知っている」ようなキャラクターが「天才」として描かれるが、実社会で大成功しているタイプは、そのような感じでもない。
「天才」と言えるような成果を出した人を調査すると、「秀才」にはとてもなれそうにない特徴を持っていることが多いらしい。結果を出しているがゆえに欠点すらも美点として許容される傾向があるものの、実は「天才」多くが、何らかの欠陥を抱えている。
創造的な分野で大きな結果を出している人は、一般人と精神障害者の中間くらいに位置する「精神病質(サイコパシー)」の数値を持っている、という研究結果もある。また、創造的な能力を持つ人ほど、傲慢で、誠実さに欠け、ルールを守らない性質があることを示した研究もある。
「天才」とされる人の多くは、「外れ値(いびつなステータス)」であることが多く、決して「平均値」が高いわけではない。
学校の成績などの選別システムは「平均値」を重視する傾向がある。つまり、「努力すれば誰もが到達可能なレベルのことを、なるべく広範囲に、なるべくミスなくこなす能力」が、良い成績をとったり試験に合格するために必要で、この「平均値」を上げるやり方が得意なのが「秀才」だ。
一方で、「外れ値」の天才は、偏ったステータスと評価される環境が一致することで、並外れた結果を出すことができる。
「秀才」が「平均値」で優れていて、「天才」は「外れ値」だがハマったらすごい、というのは、多くの人が持っている見方とも一致するのではないだろうか。
自分を知ることが大切
『残酷すぎる成功法則」では、「自分を知り、自分に合った環境を選ぶこと」が重要だとしている。
自己分析の判断基準として、まず、自分が「ふるいにかけられた」秀才タイプか、「ふるいにかけられていない」天才タイプかを考える。
「ふるいにかけられた」秀才タイプの場合、学校で優れた成績を出せたからといって、それを仕事での功績にそのまま転換できるとは必ずしも限らないことに注意する必要がある。「ふるいにかけられた」中でも、自分の能力をしっかり活かせる環境を選ばなければならないのだ。「ふるいにかけられた」タイプは、社会的な信用がある場合が多く、それをうまく使いながら、ちゃんとやっただけのリターンが返ってくる場所を見定めると良い。
「ふるいにかけられていない」天才タイプの場合、とりわけ環境が大事になり、自分の能力を活かせる場所を選ぶことが、大きく人生を左右する。既存のルールに馴染めないことを悲観しすぎる必要はないが、自分の特徴を活かせる環境を追求する努力を怠らないほうがいい。
『残酷すぎる成功法則』は、「欠点は武器になることもあるし、環境が大事だよ」という感じの結論で、章を終えている。
ただ、自分は「秀才」でも「天才」でもない「凡人」なのだが……思ってしまう人も多いと思う。
「凡人」はどうなるの?
「成功法則」の本は、「成功」を目指す人が読むものであり、「凡人」という視点を考慮されていないことを責めるわけにはいかない。
だが現実的には、自分のことを「ふるいにかけられた」タイプでも、「ふるいにかけられていない」タイプでもない、特にこれといった特徴のない「凡人」だと考えている人も多いのではないだろうか?
先に「遺伝子に優劣はない」と述べたように、仮にあなたが「凡人」であっても、あなたの「遺伝的性質」が他に劣るわけではない。より本質的なことを考えようとするのならば、何をもってして「成功」とするかも、定義の問題(社会の問題)に過ぎない。
「天才」として認知される社会の仕組みがあってこそ、人は「天才」になれるからだ。
『残酷すぎる成功法則』では、オリンピックで最多の金メダル保持者である、「マイケル・フェルプス」の例が紹介されている。
(Wikipediaより画像引用)
フェルプスの身体的特徴は、長身だが、足が短すぎ、上体と腕が長すぎる。彼は、ダンスがうまく踊れず、走るのも苦手で、一般的な基準では、肉体的に完璧とは言い難い。しかしその特徴こそが、水泳選手としては非常に有利に働いた。
もし今の世界に「水泳」という競技が存在しなかったら、フェルプスは今ほど脚光を浴びることはできなかっただろう。
「天才」であるためには、自分の偏った特徴と、世の中の需要が一致していなければならない。つまり「天才」かどうかは、かなりの運ゲーだということだ。
それに比べて「秀才」はまだコントロール可能だ。だからこそ、多くの人が「秀才」であることを「良い」と定義し、秀才になるための訓練に時間を費やす。しかし、その「秀才」の基準でさえも、歴史的に作られたものにすぎない。

興味があるなら見てもらいたいが、上の記事では、今の「大学」というシステムが、帝国主義の遺産であることに言及している。今の「入試試験」にしても、わりと短い歴史的経緯の上に成り立っているものに過ぎないし、ペーパーテストが完璧に公平ということもなく、特定の遺伝的性質が有利になることは避けられないだろう。
何が言いたいかと言うと、生物学的な多様性に「絶対的な能力の高さ」や「絶対的な良さ」が存在しないのであれば、根本的に考えるほど、「天才」や「秀才」をありがたがる必要はなくなるのだ。
「凡人」であることに悩むなら、社会そのものについて考えてみる
「天才」「秀才」「凡人」という認知を作り出しているのは、「スポーツ競技」や「何らかの賞」や「学力テスト」などの、社会システム過ぎない。
「オリンピックをテレビ放映し、金メダルを国民全員がありがたがる仕組み」は、そのような形で闘争心やナショナリズムを発散したほうが平和に近づくからだ。
「学力テスト」によって優劣を選別する入試システムは、近代化を迫られ、外国語が読めたりテクノロジーが理解できる人物を選抜し訓練するためのものだった仕組みが、受験産業などと組み合わさって権威化した結果に過ぎない。
つまり、今の社会が提示する「天才」や「秀才」、あるいは「成功」は、多くの人が信じ込んでいるほど絶対的なものではないということだ。
そして、今の日本社会の現状は、十分にうまく行っているとはとても言えない。「少子高齢化」や「格差」など、様々な問題を抱えているわけで、これから、社会のあり方自体に何らかの抜本的な変化が起こる可能性も高い。
これから、「成功」「天才」「秀才」とされるものの定義自体が変わってしまうような変化も起こりうるし、そのような仕事に尽力した人こそ、後の世代から「天才」と評価されることになる。
つまり、「凡人」であることに悩んでいるなら、「世の中に本当に必要とされているものは何か?」「何をしたら社会は良くなるのか?」という、より根本的に社会を変える可能性を考えてみるのもいいかもしれない。
より本質的に多くの人を幸福にした仕事は、現時点の「高学歴」や「優勝メダル」よりも、後にずっと高く評価される可能性がある。
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