ベストセラー『FACTFULNESS』を批判する!本書を高く評価すべきでない理由【書評・レビュー】

ハンス・ロスリングの『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』は、「10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」という副題で、世界で100万部以上を売り上げたベストセラーだ。

ビル・ゲイツが、「これまで読んできた中で最も重要な本のひとつ」として、2018年にアメリカの大学を卒業する学生全員に本書をプレゼントして話題になった。

本書は、公衆衛生の専門家、TEDスター、ギャップマインダー財団の設立者であり、多くの功績を認められたハンス・ロスリングが、親族の協力を得ながらも病床で書き上げ、出版に至った。しかし、そのドラマチックさや、権威主義を取り払って、内容のみを見るならば、『FACTFULNESS』は、懐疑的に読む必要のある本だと思う。

そのため、当記事では、『FACTFULNESS』を批判的に読むべき理由を書きたい。

『FACTFULNESS』を好意的に見た、「要約と解説」や「面白い箇所まとめ」は、すでに別の記事として書いている。

『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』の要約と解説 ハンス・ロスリング『FACTFULNESS』の面白いと思った箇所まとめ

この記事では、批判的な内容を述べるが、あくまで本の内容と著者の主張に対する批判であり、著者の人格や、本書の有用性を認める人への批難ではないことに注意してほしい。

『FACTFULNESS』を読むことで、「データを見ようとする意識」を養えるかもしれないが、「データを正しく見る習慣」が身につくことはない。むしろ、『FACTFULNESS』のようなデータの見方は、注意して避けるべきものだ。そのため、当記事では、あえて強めに『FACTFULNESS』の本の内容を批判したいと考えている。

著者の態度は「FACTFULNESS」かもしれないが、データの検証や解釈を参考にするべきではない

まず最初に、良い部分を述べたい。

著者は、医者であり公衆衛生を専門としていて、「乳幼児死亡率」「人口動態」「所得」などのデータを重視しようとする。『FACTFULNESS』を読めば、著者がデータを重視した実践的な活動を行い、大きな成果を上げてきたことがわかる。

例えば、地球温暖化という問題に対して、著者は、過剰に悲観的になるのでもなく、楽観視するのでもなく、まずは客観的に分析できるデータを集めようとする。

第10章「焦り本能」では、著者とアル・ゴアとの絡みが書かれている。アル・ゴアは、環境問題への関心を高めるために、なるべく恐ろしげな未来予測をしてほしいと言うのだが、著者はそれを否定し、まずは正確なデータを見ようとする。

地球温暖化のデータを探してみると、問題が大きく騒がれているのに対して、データは驚くほど少なかったらしい。レベル4の国(高所得の国)は、ひとりあたりのGDPならば、4半期ごとに数字が公表され、それが厳密に記録される。しかし二酸化炭素の排出データは、2年に1度しか発表されていなかった。そこで著者は、2009年に、スウェーデン政府にもっとデータを頻繁に測定するようにハッパをかけ、その結果、スウェーデンは2014年から、世界で始めて温室効果ガスの排出量を四半期ごとに公表するようになった。

以上の地球温暖化のエピソードは、ハンス・ロスリングの面目躍如であり、このような視点と実践は、まさに「FACTFULNESS」な態度と言えるだろう。実直な活動を続けて、成果を出してきたという点において、著者には多くの賞賛が与えられるべきだ。

しかし、『FACTFULNESS』という本を読む限り、著者は、データを集めるためのリーダーシップを発揮することや、解釈の幅があまりないデータを扱うことには長けているが、統計を科学的に扱えているわけではない。そのため、『FACTFULNESS』は、データを提示してギャップを指摘するところまではいいが、そのあとの解釈や著者の主張は、かなりデタラメなものになってしまっている。

以下は、著者がよくやりたがる3択テストの一例だ。ちなみに引用しているのは、前後の文脈がなく、章の冒頭からいきなり始まるテストである。

次のうち、あなたの考えに最も近い選択肢を選んでください

A 世界はどんどん良くなっている。
B 世界はどんどん悪くなっている。
C 世界は良くなっても、悪くなってもいない。

(『FACTFULNESS』第2章「ネガティブ本能」より引用)

この質問に対して、多くの人は、「そもそも、良い、悪いの定義は何? こんなの人それぞれでしょ」と思うだろう。

ちなみに著者は、「世界はどんどん良くなっている。」と考えているが、その主な根拠は「乳幼児死亡率が上がった国はない」こと。

たしかに、多くの人が思っている以上に、多くの国の健康状態が改善されているのかもしれない。しかし、そこから「世界はどんどん良くなっている。」というのは、さすがに「言い過ぎ」だ。

「世界はどんどん悪くなっている」とアンケートに答えた人は、著者と違って公衆衛生にそれほど興味がないかもしれない。行き過ぎた消費社会や気候変動などの問題に関心があって「悪くなっている」と考えているのかもしれない。人口維持が不可能なほどの少子化を憂いているのかもしれないし、コミュニティからや労働市場からの疎外を問題視しているのかもしれない。「良い、悪い」という大雑把な言葉から人間が思い浮かべるものは様々だ。

しかし著者の論述によると、人々が「世界はどんどん悪くなっている」という勘違いをしがちなのは、人々に「ネガティブ本能」があるからで、これからは「ネガティブ本能」に気をつけよう、ということになっている。

言葉の定義を慎重に検証したり、様々な考え方をする人がいるという想像力を働かせるという段になると、かなり稚拙な一般化がされる傾向があり、そういう部分が数ヶ所あるくらいならば「見落としは誰にでもあるだろう」となるかもしれないが、『FACTFULNESS』は一貫してデータの検証と解釈の部分が雑だ。

『FACTFULNESS』の副題となっている「データを基に世界を正しく見る習慣」は、参考にすべきものではなく、むしろ反面教師にするべきものと言える。

 

「○○本能」という稚拙な一般化

『FACTFULNESS』は、章ごとのタイトルが「○○本能」となっていて、「○○本能に気をつけて、データを正しく見よう」と読者に呼びかける形式で書かれている。だが、「○○本能」という一般化は、論理的でも科学的でもなく、どれも非常に稚拙な内容だ。

データを示して、ギャップがあると指摘するまでは、読む価値がある。だが、そこからの解釈や一般化は、かなり批判的に読んだほうがいい。

そもそも本書は、章テーマの「○○本能」と、その章で出しているデータや話題が、あまり上手く対応していないので、厳密に読もうとする人ほど混乱してしまうだろう。

 

まず、第1章「分断本能」では、人間には2つに分けて物事を捉えたがる「分断本能」があるので、それに気をつけよう、という話になっている。

著者は、「途上国」「先進国」という分類ではなく、「レベル1〜4」で考えるべきではないかと提唱している。

1965年時点では、「途上国」と「先進国」という分類は正しかった。

 

しかし現在(2017年)は、そのような2つの分類は実情を表していないので、「所得」ごとに4つにわける「レベル1〜4」の分類が適切だと著者は主張する。

 

所得ごとの「レベル1〜4」のカテゴリーで国を把握する、という著者の提言自体は、非常に有益なものだと思う。しかし、そのあとの「分断本能」という一般化は、あまり筋が通らない。

著者のデータから読み解けるのは、「かつては2つに分ける見方がされていたが、今は4つに分けて見たほうが適切だよね」という話であって、未だに多くの人がステレオタイプな見方を更新できていないかもしれないが、だからといって「本能的に分断したがるのが問題」なのだろうか?

そもそも、著者が認めるように、2つに分断した見方は1965年の時点では正しかったわけだ。それに、4つに分けるのだって、分断と言えば分断だろう。

著者が得意として、評価されているのは、データを提示してギャップを指摘する部分だ。この部分の価値を疑うつもりはない。しかし、そのあとに出てくる「○○本能」のような一般化は、書籍という形で多くの人に考えを伝えようとした結果かもしれないが、致命的に失敗している。なぜなら、「データを正しく見る習慣」というコンセプトを破壊しているからだ。

 

第2章「ネガティブ本能」では、人間には、物事のポジティブな面よりもネガティブな面に注目してしまいやすい「ネガティブ本能」がある、という話がされる。たしかにそのような傾向はあるだろう。

しかし、著者が持ち出す様々な「世界が良くなっている」データに対して、多くの人が十分にそれを認知していないというのはその通りなのだが、そこからの「ネガティブ本能」という一般化には、何の根拠も論理性もない。

「それっぽいことを言えばそれっぽくなる」側面はたしかにあるのだが、著者自身が、自分が出したテーマをうまく処理しきれていないので、文章が全体的に冗長で混乱している印象を受ける。

そもそも著者が言う通り「世界はどんどん良くなっている」のであれば、「○○本能」というバイアスを問題にする必要もそれほどないのではないか。多くの人がバイアスによって勘違いをしているからこそ、物事を改善してこれたという側面もあるわけだから。

 

第3章「直線本能」では、人間の直線的に考える本能によって、「人口がひたすら増え続ける」という勘違いが生まれていることになっているが、これもよくわからない。

「人口動態」に関して著者が出しているデータは有益なものと思うが、そこからの「直線本能」という一般化があまりにデタラメなので混乱してしまう。

例えば、第2章に出てきた「世界はどんどん良くなっている」は「直線本能」かもしれないので疑ってみるべきなのかもしれないが、そういう検証がされるわけではなく、著者のインスピレーションとしか言えないような一般化によって話が進んでいく。

『FACTFULNESS』は、全部で第10章まであり、(いちいち順番に指摘したりはしないが)どの章も、推論や検証の部分に関して言えば、多くの欠陥を抱えているように見える。

 

データを検証しようとしないからこそ成果を出せる

著者は、解釈がぶれにくいデータを扱う上では、堅実な仕事を行っているのだと思う。

『FACTFULNESS』で興味深いのは、「レベル1〜4」の分類にも見られたように、「所得」が多くを決めるという見方だ。

著者は、異なる文化圏でも、所得が同じであれば似たような生活風景になると主張している。そして、わざわざ寝室を比較した風景などを載せている。

 

また、文化や宗教と関係なく、「所得」と「出生率」が関係しているというデータを提示する。

 

大陸や文化や宗教が違っても、カップルは寝室で同じことをささやき合っている。2人で将来こんな家庭をつくっていければ幸せだ、と。国が変わっても、それは変わらない。アメリカでも、イランでも、メキシコでも、マレーシアでも、ブラジルでも、イタリアでも、中国でも、インドネシアでも、インドでも、コロンビアでも、バングラデシュでも、南アフリカでも、リビアでも、人々の望みは同じなのだ。
(『FACTFULNESS』第7章「宿命本能」より引用)

何度も言うが、著者が提示するデータ自体は、有益なものだ。だが、解釈の部分はかなり酷い。

たしかに、「所得」と「女性ひとりあたりの子供の数」には相関がある。しかし、だからといって、「文化や宗教」と「女性ひとりあたりの子供の数」に関連がないことが証明されるわけではない(もし所得との相関が決定的な要因なら、先進国は少子化を克服できないことになる)。「大陸や文化や宗教が違っても、カップルは寝室で同じことをささやき合っている」とか、「人々の望みは同じなのだ」というのは、どう考えても「言いすぎ」だ。

一般的な研究者が、何らかのデータを見て、「多くの人が文化や宗教によって子供の数が決まると考えているが、実は所得が原因」かもしれないと思ったとする。

その場合

  • 本当に文化や宗教は子供の数と関係がないのか?
  • なぜそのような誤解が生じているのか?

を考える必要があるし、「文化や宗教と子供の数が関係ないデータ」を探すことになるだろう。

だが著者の興味はそこにはなく、要するに「みんなは勘違いしているが、実は相関が強いのは所得なのだ!」ということを言いたいだけで、自分以外の人間は「宿命本能」などのバイアスに捕われているから、データを見ることができない、と素朴に考えているように読める。

著者は、良くも悪くも、「データを見ている」のだが、その先の思考を放棄している。

人々の認識に何らかのギャップが見つかったとする。通常であれば、次に考えるのは「なぜそのような勘違いが人々の間に発生しているのか?」だろう。しかし著者は、「バイアスがあるから勘違いする」という結論をもってしてその問いを切り捨て、実質的に検証を放棄している。

 

当記事で以前紹介した、エリック・バーカー『残酷すぎる成功法則』には、平均的な能力の底上げではなく、何らかの欠如こそが、大きな成果を出せる要因になるという話があった。

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ハンス・ロスリングの、「データに着目しようとする一方で、その検討や解釈を放棄する」というやり方も、その一例と言えるかもしれない。

「データのみを見て、ギャップがあることを指摘する」ことに集中しているからこそ、定性的な要因に惑わされず、大きな成果を出し続けてこれたのかもしれない。

しかしこれは、裏を返せば非常に独善的な見方だ。「自分は○○本能を理解しているからデータを正しく見れるけど、多くの人はそれができない」と考えているようだが、実際に多くを見落としているのは著者のほうなのだ。

クリティカルに文章を読もうとすれば、『FACTFULNESS』の内容はかなり酷いもので、著者の実績は素晴らしいものの、書籍としては過大評価されているように思える。

 

差別的な価値観が現れているように見える箇所も

『FACTFULNESS』の批判として、アジア人の立場からすると、著者の見識に差別的なものを感じるところがある。

著者は、様々な文化を横断するような活動をしてきたのかもしれないが、似たような価値観と目的意識を持った人たちに囲まれていて、そのような人たち以外への想像力が欠けているように思えた。

「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み、つまり宿命本能のせいで、アフリカが西洋に追いつけるということを、人はなかなか受け入れられない。アフリカの進捗に気づいたとしても、「万にひとつの幸運が続いただけ」とか「どうせまたすぐに貧困や紛争に苦しむだろう」と思ってしまうのだ
(『FACTFULNESS』第7章「宿命本能」より引用)

ここで言う「人」というのは、著者の仲間のことだろう。

日本人でも、昔のイメージが更新されないまま、アフリカは未だに貧乏な国だと漠然と考えている人は多いかもしれない。だが、「アフリカ人は劣っているから西洋人に追いつけない宿命だ」などと考えている人は少数派だろう。

また著者は、韓国や日本について、以下のように述べている。

韓国や日本では妻が夫の世話をするのがあたりまえだし、子供の世話も1から10まで母親がするものとされている。そんな習慣を「アジア男児の流儀」だと言って、堂々と自慢する男性もたくさんいる。わたしは数多くのアジア人女性とも話してきたが、女性たちの感じ方は違っている。こんな文化がいやで、だから結婚したくないと言う人も多い。
(『FACTFULNESS』第7章「宿命本能」より引用)

このような見方はまったく間違っているとは言えないし、こういった言説に喝采を送る韓国人や日本人が、著者の周囲には多かったのかもしれない。しかし、韓国でも日本でも、著者が思っているような状況ばかりではないし、それほど単純ではない。

本書には、都合良く著者の主著を引き立ててくれる「愚かな人物」がたくさん出てくる。そのような人たちは、「アフリカ人やアジア人は西洋人には追いつけないのだ」というバイアスを持っている。それに対して著者は、「人種なんて関係ない。私がデータを出そう」というやり方で希望を示そうとする。だが、読んでいて、そういうやり口こそが侮辱的に思える。

もし著者が自前で作ったテストから「アフリカ人やアジア人は宿命本能を持っていて西洋人に勝てないと考えている」という結果が出たのだとしても、そのテストが自分の主張にとって都合の良すぎるもので、むしろ自分の偏見を強化していないか、少し疑ってみるべきだったかもしれない。

 

『FACTFULNESS』を疑う

『FACTFULNESS』には、「多くの人の認知にはギャップがあるので、データを見よう」というメッセージ性はあり、それは重要なものだ。一方で、本書から「データの読み方」や「世界を正しく見る習慣」を学ぶことはできないし、そこに関してはむしろマイナスの効果すらありそうだ

「データ」は、これからの世界にとってますます重要なものになってくるだろうが、だからこそ、「何かを意識すればデータを正しく読み解ける」といった生ぬるい話ではなくなってくる。データは、集計方法の段階で様々な利害が介在し、「国連の統計」のようなデータでさえ、完全に客観的と公平性が担保されるわけではない。もちろんロスリングの3択テストも然りだ。そもそも、GAFAのようなグローバル企業が研究者を囲い込むようになるなら、学術研究で前提とされているような、「データは公開し共有されるべきである」という考え方すら当たり前のものではなくなってくる。

「データをどう読むか?」は、これからの人たちがずっと付き合って行かなければならないテーマではあるだろうが、そんな中で「ファクトを見よう」という主張こそが、程度の低い問題意識に思える。

著者が考えているような、データを正しく読み解ける方法など存在しないが、少なくとも、最低限の批判的な視点を身につけることは重要に思う。

例えば、『FACTFULNESS』イントロダクションの最初の問題として、

質問1 現在、低所得国に暮らす女子の何割が、初等教育を修了するでしょう?
A 20%
B 40%
C 60%

というのがある。

著者によると、正解は「C:60%」なのだが、正解率はランダムに選んだ場合より低く、よって「世界を正しく見れていない認知ギャップがある」というわけだ。

これを批判的に読むとはどういうことだろうか?

  • そもそも「低所得国」の定義は?
  • そもそも「初等教育」の定義は?
  • 定義が曖昧な言葉を説明なしに使うテストに信頼性はあるのか?
  • 国ごとの正解率などを出しているが、どのような状況で、どのような階層の人間に対してテストをしたのか?
  • 著者はこの手のテストを自分で作って知名度を得ている人間だが、これは著者にとって都合の良い結果を補強しようとするものになっていないか?
  • 著者はこの手のアンケート調査で有名だが、それを知っている周辺の人は、わざと間違えるように忖度した回答をするのでは?
  • みんなが重大な勘違いをしていると著者は考えているが、そもそも多くの人は貧しい国のことに普段からそれほど関心がなく、「ああ、意外と高いね。今はそうなってるんだ」くらいの温度感なのではないか?

などなど、考えるべきことは膨大にある。

このように書くと、かなり意地悪で、穿った見方をし過ぎなように思えるかもしれない。しかし、データを検証するというのは、基本的には意地悪で、陰湿で、地道な作業なのだ。誰もがデータを正しく読み解ける明快な方法などないし、「○○本能」に気をつければ正しく世界を見られるなんて考えは馬鹿らしい。

もちろん、批判の余地がないような厳密な調査などほとんどありえないので、批判的に見すぎる問題もある。だが、少なくとも、『FACTFULNESS』の内容を「信頼できる」「納得できる」ものとして違和感なしに読めてしまった人は、もう少し批判的に文章を読もうとすべきだろう。

 

『FACTFULNESS』批判のまとめ

『FACTFULNESS』の評価を一言で言うと、「データを見ようする態度の重要さは示されているが、データの検討、解釈、推論の部分に関しては、まったく参考にすべきでない」というものだ。

  • 「データに着目しようとする態度」→「素晴らしい」
  • 「データと思い込みとのギャップの指摘」→「読む価値がある」
  • 「データから生まれる解釈の検証と検討」→「できていない」
  • 「データから導き出す一般論」→「かなりひどい」

著者は、世界はかつてと変わっているのに、人々の認知はそれに追いついていないという「ギャップ」を指摘する。ここまでは重要な活動に思える。

だが、何らかのギャップが見えたとき、「何が原因でそのようなギャップが生まれるのか?」という問題意識から、データの詳しい検証が始まるのだが、著者はそれを「○○本能が問題」と一蹴する。これは批判されるべきやり方だろう。

本書を読むことで、「データを見ようとする意識」は培われるかもしれない。しかし、「データを検討する」部分に関しては、非常に良くないやり方がされている。そのためここでは、かなり批判的な見方をした。

もっとも、仮にこの記事で述べた批判が正当なものであったとしても、それは著者の評判をそれほど落とすものにはならない。

著者の功績の多くは、実践的で行動的な部分にあり、定性的なデータの検証や解釈が甘かったからといって、それは著者の専門外のことだからだ。

ただ、このベストセラーが、「データを正しく見る方法」のように受け入れられているのであれば、そこは批判される必要がある。

 

3 COMMENTS

浦野由紀夫

電子版で未だ5%しか読んでいません。一つのデータの提示で陥りやすい間違いの指摘に感心しましたが、その解決法となる新しい視点あるいは異なるデータの提示により新たな思い込みを作り出していないか、彼の提示した新たなデータは、批判の対象となるデータがあるからこそ参考になるのではないかと疑問を持ち、”Factfulness 批判”でグーグルでを探して貴ブログをみつけました。未だ読み始めたばかりで結論だせる訳が無いのですが、米国のベストセラー本は一つの大発見でそれがすべてを解決しました、と言って始まるのが多いのですが、少しその傾向があるのではと気になったのです。勿論もう少し読まないと何もいえないですが、取り敢えず貴ブログを読んで嬉しく思いました。とにかく最後まで読むようにします。

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ho

第一章を読んで、言い様のない違和感を感じました。筆者の伝えたい事は分かるのですが… この本を批評する動画はどれも、投稿者もコメントも絶賛の嵐で、この違和感を説明してくれている記事はないかと探していたところ、ここに辿り着きました。凄く気が晴れました。有難うございます。

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to

私も違和感を感じた一人です。某パーフェクトヒューマンの動画で絶賛の嵐だったのでとても悲しくなりました。現実問題、未だ低賃金で奴隷のように働かされて苦しんでいる人々がいるにも関わらず、そちらは無視しています。動画コメントの内容を見るに、世界はどんどん良くなっているのだと思い込まされ、ネガティブ思考ではいけないと、無理矢理ポジティブ思考に変換させる一種のプロパガンダなのだと感じました。もちろん良くなってる部分はあると思いますが、日本に限って言えば長期のデフレで賃金は安くなり、高い税金で多くの人が苦しみ貧困予備軍になっていると思います。

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