ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』の要約と解説をする。
ジェイコブ・ソール(著)、村井章子(訳)の『帳簿の世界史』は、原著が2014年、日本語翻訳が2015年に出版されたベストセラーで、「会計技術の進化と会計責任の文化が、大国の興亡に果たした役割」について書いた会計&歴史本だ。
複式簿記はまさに西洋文明の産物であり、欧米経済史の主役になってもおかしくない
と著者は述べる。
本書は、帳簿や簿記の具体的な知識を前提として求められる内容ではないので、会計をあまり知らず、複式簿記をマスターしていなくても問題なく読み進めることができる。
一応「複式簿記」について手短に説明すると、「複式簿記」は、直感的な会計のやり方である「単式簿記」とは、「思想」が違う。
多くの人が目にしたことのある、「銀行通帳」や「家計簿」といった帳簿は、「単式簿記」であり、銀行の残高のような「ひとつの数字の増減」を見るのであれば、それで事足りるかもしれない。
しかし、「借金による設備投資から事業を始める」など、ものの貸し借りが多くなると、帳簿で書くべきことが複雑になり、「単式簿記」では、いくら資産があって、いくら利益が出ているのか、などが把握できなくなっていく。そこで必要になるのが「複式簿記」だ。
「複式簿記」は、中央に線を引いて、左に「借方」、右に「貸方」と、ひとつの取引に対して対となるふたつの数字を記入する(ゆえに「複式」簿記)。面倒であり、最初は直感に反するルールに思えるかもしれないが、正しい複式簿記の書き方をすれば、取引が複雑になっても、資産と負債の状況を把握しやすくなる。
また「複式簿記」は、同じ取引に対してふたつの数字を記入することでチェック機能を果たし、ミスが起こりにくく、ごまかしにくい。そのため、面倒で難しいが効果的な「複式簿記」を浸透させることが、責任のある会計文化に繋がると、著者のジェイコブ・ソールは見ている。
『帳簿の世界史』の序章では、以下のように述べられている。
政治の安定は会計責任が果たされる土壌にのみ実現すること、それはひとえに複式簿記に懸かっているということである。複式簿記は利益の計算に威力を発揮するだけではない。借方と貸方が必ず等しくなるという概念(貸借平均の原理)が導入されることによって、経済運営ひいては政権の手腕を診断し、責任を明確にすることができる。中世イタリアでは、複式簿記による帳簿は健全な事業や政府の実態を表すと同時に、神の審判や罪の合計を表す宗教的な一面も備えていた。
『帳簿の世界史』では、「会計」がどのような政治的、文化的な役割を果たしてきたのかを、ルネサンス期のイタリア、スペイン帝国、ルイ14世のフランス、ネールランド連邦共和国、大英帝国、アメリカと、一国の浮沈みを追いながら、歴史的な視点で記述されている。
当記事では、手短に「要約と解説」を書いていくが、長くなるので、本書の第1〜5章を【1/3】、第6〜9章を【2/3】、第10〜13章を【3/3】と分けて記述している。


第1章 帳簿はいかにして生まれたのか
中世イタリアで「複式簿記」が生み出されるまで、古代メソポタミア、イスラエル、エジプト、中国、ギリシャ、ローマなどで「単式簿記」が実践されていたことがわかっている。
古代の「会計」は、「所有しているものの記録」として始まり、主に商売のために行われていたが、基本的には単なる在庫管理に留まっていた。家計と商売を切り離すという発想や、一定期間ごとに棚卸しをして「利益」や「総資産」を集計するという発想もなかった。ただ、在庫管理目的の表が作成されるなど、初歩的な会計計算は行われていたようだ。
古代の国家も、国家財政を管理するために会計活動を行うし、正しく会計されているかの監査も行う。民主政治を掲げた古代アテネは、面倒な簿記と公的な監査が、民主主義的な統治を支える重要な柱とされていた。会計責任は政治にとって重要なものであるという思想があり、公的機関の会計をチェックする高級官僚や監査官も存在した。しかし、システムが確立されていたにもかかわらず、腐敗ははびこっていたし、アテネ市民のほとんどは会計責任という概念をよくわかっていなかった。
古代ローマにも会計は定着していた。国は家長に対して、家計簿の管理を義務付け、必要に応じて収税官が監査した。政府の会計事務は「タブラリウム」という公文書保存館を兼ねた役所で行われ、監督官のもとで、書記官、会計官、出納係、検査係などが働いていた。しかし、アテネと同じくローマでも国家の会計はかなり杜撰で、不正が絶えなかった。
13世紀のヨーロッパでは、商業が活発化して通貨の流通量が増えたのに従い、地主たちが会計管理を行うようになる。この時代になって、許可証、証明書、書状、令状、帳簿、貸借契約、裁判記録など、様々な手続きの書類が大量に作成され、書類は帳簿に紐付けられた。当時の封建制のイングランドにおいて、会計が最も発達していた場所は領主の館だった。当時は羊皮紙が高価だったので、帳簿をつけることはひとつのステータスであり、正確なやり方で会計が行われていたわけでもなかったが、ともかく「帳簿がつけられる」ようになった。
ローマ数字からアラビア数字への転換は、会計を大きく進歩させた。ローマ数字の表記法では、どれだけ注意深い管理係でも、ミスを避けられない。例えば、アラビア数字の「893」は、ローマ数字では「DCCCXCⅠⅠⅠ」と書き、分数や少数を使うこともできない。会計の進化には、書きやすく計算しやすいアラビア数字の採用が必要だった。
1300年頃の中世イタリアで、ついに「複式簿記」が使われだしたが、いつ誰がそれを発明したかわかるような資料はいっさい存在しないという。
「複式簿記」が誕生した経緯は、「必要は発明の母」であり、イタリアの商人たちは、仲間うちで共同出資をしていたので、各人の持ち分や利益を正確に計算する必要があった。投資家から出資を受けた場合は、単に収入と支出を累計するだけでなく、投資家に還元すべき利益余剰金や、投資家の取り分を長期にわたって分割して払い戻すための計算をしなければならなかった。共同出資が始まってからは、複雑な帳簿が必要になり、そのために「複式簿記」というより洗練された会計技術が使われるようになっていった。
14世紀のイタリアでは、商人たちではなく、社会全体に優れた会計が浸透していた。当時のイタリアの銀行や役所の帳簿は、借方貸方が釣り合い、内部監査が行われていて、現代の研究者が目を見張るほどきちんとしたものだったそうだ。しかし、優れた会計システムが、その後も順調に受け継がれていったわけではない。
第2章 イタリア商人の「富と罰」
フランチェスコ・ダティーニ(1335年頃〜1410)は、中世イタリアの裕福な商人で、教皇庁との取引、両替や武器の売買、国際貿易などで富を築いた。ダティーニは取引の記録を帳簿に克明に記載していて、その記録は今日にいたるまで失われておらず、124,549通の商用文書、573冊の帳簿と元帳が「中世最大の個人の会計記録」として、彼が活躍したプラート(トスカーナ州北西部の都市)の博物館に保管されている。
ダティーニは、優れた会計知識を駆使し、自分ではほとんど金を出さなかったが、共同出資方式で資本を調達して成功した。会計に精通していることに加えて、それぞれの事業に必要とされる高度な専門知識を備え、共同出資者や投資家を呼び込む手腕に長けていた。ダティーニは、複式簿記が事業を正確に把握して運営するための基本的なツールであることを理解していたが、同時代の商人のほとんどはその必要性を無視していたし、記憶頼みの単式簿記方式でなんとか事業を切り回していた。
単式簿記は、やり方簡単だが、共同出資者が増え、事業が複雑で大規模になるほどうまくいかなくなる。
ダティーニが活躍した時代には、帳簿は物理的に何冊にも分かれていたため、複式簿記を徹底するためには、経験や数学的理解力のみならず、帳簿から帳簿へと情報を転記する綿密さや、帳簿と帳簿との関係性を理解し分析する能力も必要だった。ダティーニの会計システムの仕組みが解明されたのは、彼の死後一世紀が経ってからのことだった。
当時は、「金を稼ぐことが悪」という価値観が根強く、金を扱う職業や会計慣行の大半が「教会法」に反していた。教会法が厳密に施行されることはなかったものの、中世の銀行家や商人には罪の意識が常にまとわりついていた。事業の収支が黒字であることは、神に対する負い目が増えていることを意味し、ダティーニもまた「冨と罰」の間で苛まれていた。
「帳尻を合わせる」という会計的な概念は、人間と神との間にも存在した。罪に対しては善行で帳尻を合わせる必要があり、中世イタリア商人にとっては、死後に「最後の決算」が待っていた。教会は、「金を稼いだ」という神に対して償わなければならない負い目に対して、「金を寄付する」という形での帳尻合わせを行わせる方便を考案した。当時の多くの信心深い人が、自分の犯した罪(稼いだ額)に見合う金額を持参して教会にやってきたため、教皇庁の大広間には大勢の会計係が陣取っていた。
ダティーニは、取り立てて信心深いわけではなかったが、それでも最後の審判を恐れ、神への負い目をどうやって精算すべきかを常に考えていた。結局、彼は、遺産をプラートの教会に寄進することに決め、自身の冨が貧しい人々のために使われるように取り計らった。ダティーニが残した巨万の冨は、貧民のための病院建設に投じられた。
第3章 新プラトン主義に敗れたメディチ家
イタリアのフィレンツェの地で金融の力を誇示した「メディチ家」は、ヨーロッパ最大の富豪になったが、短期間にすべてを失った家でもある。
銀行業を発展させたメディチ家は、商業のみならず、文化においても政治においても圧倒的な存在感を示した。当時のヨーロッパでは、徴税人や商人が現金を持ち歩くのは非常に危険なことだったが、メディチ銀行は様々な地方に支店を持っていて、為替手形によって安全に送金をするサービスを提供した。メディチ銀行は、手数料や、為替の両替レートを自分たちに有利に設定することによって、莫大な冨を築き上げた。
コジモ・デ・メディチ(1389〜1464)は、父から受け継いだ銀行業を一大国際事業に発展させ、メディチ家だけでフィレンツェに納められた税金のおよそ65%を負担していたほどの、当時のヨーロッパで最大の富豪となった。メディチ家は、フィレンツェやイタリアのみならず、ヨーロッパ全体の金融を牛耳っていた。
コジモは、ビジネスのあらゆる面に精通し、金融と会計の実務に自ら携わった。銀行は、毎日複数の預金を受け容れ、貸し出し、送金や振替を行っているので、「資産と負債」が常に変動する。そのため、「複式簿記」は銀行経営に必須の知識だった。メディチ銀行は、各支店の支配人に複式簿記と厳格な会計報告を義務付け、フィレンツェに提出された報告書を、コジモと会計主任が監査した。コジモは、最終点検を人任せにせず、自ら行うことができた。
メディチ家は、多くの画家や彫刻家や建築家のパトロンになり、イタリア・ルネサンスの栄光を下支えしたことで知られる。しかし一方で、「新プラトン主義」と言われたルネサンス期の人文知の精神は、「会計」といった実用的な知と反発するところがあった。(※古代ギリシャやローマの知をヨーロッパに復興させたのが「ルネサンス」であり、ギリシャの哲学者プラトンの考え方がメディチ家の支援によって再評価された。)
プラトン哲学の「貴族的・エリート的価値観」と、フィレンツェ商人の「現実的・実務的価値観」とは、互いに相容れないところがある。例えばプラトン主義では、数学を真理に到達するための純粋なものと考えがちで、世俗的な利益を求めるための商人の算術は、些末で下賤なものと見なされやすかった。
プラトン的な価値観によると、人間の栄光は芸術、文化、政治にあり、実践的な商業や会計は軽視された。コジモを富豪に伸し上げ、ルネサンス開花の資金の捻出にも役立った「会計」は、まさにコジモが支援した新プラトン主義の価値観によって、次第に重んじられなくなっていったのだ。
コジモは息子たちに、人文知を重視する新プラトン主義的な教育を与えたが、一方で会計的な教育を徹底したわけではなかった。この判断はメディチ家を衰退に向かわせる。コジモは、トップでありながら実業的な知識があり、最終監査を自分でこなすことができた。しかし、コジモの後の世代のメディチ家はそうではなくなった。
コジモの孫であるロレンツォ・デ・メディチは、新プラトン主義の学徒であり、ボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ギルランダイオの友人かつパトロンであり、自身が詩人でもあった。ロレンツォは教養豊かで政治にも長けていたが、会計の知識には乏しく、帳簿の監査に必要な基準なども知らなかった。政治思想家のマキアヴェッリがロレンツォのことを「有能な貴公子だが無能な銀行家だった」と書いているほどで、コジモの後のメディチ家は、貴族的な教養を身につける一方で、自分たちの要であったはずの会計をおろそかにしてしまった。
その後のメディチ家は、支店の支配人の中で最も成績優秀だったフランチェスコ・サセッティ(1421〜1490)に白羽の矢を立てた。サセッティは始めはうまくやっていたが、地位が上がると新プラトン主義に興味を持ち、人文主義的な学問に多くの時間を費やすようになっていく。やがてサセッティも、支店の管理などがおそろかになり、監査を自分でやるのではなく他人に任せるようになっていく。このような会計の軽視が、メディチ家の急速な衰退に繋がっていったと著者は述べる。
かつてフィレンツェは、簿記と会計の文化が伝統として深く根付いていた。しかしそれはメディチ家の衰退とともに失われていく。「貴族的な人文知への傾倒」による「実務の軽視」が、「会計責任」という重要な文化を損ねる結果になってしまった。
第4章「太陽の沈まぬ国」が沈むとき
複式簿記についての世界最初の教科書というべき書籍は、フランチェスコ会修道士にして数学者のルカ・パチョーリ(1445〜1517)が書き、1494年に印刷された『算術、幾何、比及び比例全書』だ。本書は「全書」を意味する『スムマ』という略称で広まっている。『スムマ』は、会計学の原点とされ、今日ではパチョーリは「会計の父」と呼ばれている。
『スムマ』における「記録および計算について」という編で簿記が扱われていて、これは「世界初の会計の入門書」とも言える内容だった。イタリアでは当たり前のように行われていながらも、商人たちの頭の中に留まっていた会計の知識と方法が、『スムマ』によって誰もが学べるものになった。しかし、有用な内容であったにもかかわらず、『スムマ』はそれほど売れなかった。
『スムマ』は、出版された時期が悪く、1494年はフランスがイタリア遠征を行った年で、その後はスペインがさらに続き、イタリアの豊かな土地はそこから60年以上にわたって戦場になった。イタリア共和制の時代が過ぎ去り、騎士道の時代がやってきた。武力による帝国主義的な理想が支配的になっていき、商人的な考えが軽視されるようになっていった。
近い時期のヨーロッパで大流行した著作のひとつに、バルダッサーレ・カスティリオーネの『宮廷人(1528)』が挙げられる。『宮廷人』は、『スムマ』と対極的に、当時の大ベストセラーになり、長らくヨーロッパ上流階級の模範とされた。その内容には、「理想的な貴族は金の管理に関わるべきではない」など、商人的な知識を卑属なものと見なすところがあった。会計、簿記、実務知識を軽視する『宮廷人』は、貴族はもちろんのこと、商人の間でさえ大人気になった書籍だった。
『宮廷人』は、神聖ローマ帝国の皇帝であり、スペイン国王だったカール5世(1500〜1558)にも読まれていた。著者のカスティリオーネが死んだとき、「真の紳士の一人を失った」とカール5世が弔辞を送るほどだった。
カスティリオーネの著書だけでなく、当時は、有力な人文学者の多くが金儲けに対する偏見を煽り、「会計」のような実務的なスキルは見下されがちだった。
16世紀、カール5世と息子のフィリペ2世が治めるスペイン王国は、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれ、世界最強の帝国と言っても過言ではなかった。一方で、国家の会計管理は杜撰なものだった。膨大な富を有していたものの、植民地の維持などは、実はその利益よりもコストのほうが大きく、それは帝国が代々受け継ぐ負の遺産となっていった。
スペインの支配者は、優秀な財務官や、会計知識を持った人材を必要としていたが、そのような人材を育みやすい文化が社会に存在しなかった。カール5世の息子であるフィリペ2世(1527〜1598)は、会計改革に取り組もうとして、通称院で徴税を担当した経験や商人としての実務経験のあるペドロ・ルイス・デ・トレグロサに白羽の矢を立てたが、帳簿の監査などの会計改革の試みは、激しい抵抗にあった。結局のところ、スペイン王国には、一度としてまともな会計システムが根付くことはなかった。
会計改革をしなければならないという危機感があり、実際にそれは試みられたのだが、当時は、会計に対する文化的、宗教的な偏見があり、きちんと会計することに対しての同意が得られなかった。スペインにおけるこの経緯は、「政治責任を伴う会計改革の実行が王国にとっていかにむずかしいかを雄弁に物語っている」と著者は述べる。
第5章 オランダの黄金時代を作った複式簿記
ルカ・パチョーリの『スムマ』は、王国や皇帝に支持されることはなかったが、絶対君主制を嫌う商業共和国のオランダで読まれるようになっていく。
16世紀後半のネーデルランド(オランダ)は、公正な政府と、商業や宗教に寛容な気風によって、多くの商人たちにとって魅力的な地域だった。万年破産状態のスペインから課せられる重税に苦しめられていたものの、国際的な銀行と貿易のおかげで極めて豊かな経済状況だった。オランダでは会計が発達していて、公的監査が法で義務付けられているなど、政府の財務に対して信頼できる根拠があった。そのため、当時のヨーロッパの金利は、オランダ国際の利率と連動していた。オランダの税収が最も信用に足ると考えられていたのだ。
商業の中心地であるオランダのアムステルダムには、世界中から人材と商品が集まり、会計教育と金融教育が重要視されるようになっていく。当時のアムステルダムの識字率は世界一だった。
1568年から1648年にかけて、ネーデルランドはスペインに対して反乱を起こし、いわゆる八十年戦争(オランダ独立戦争)のさなかにあったが、ホラント州法律顧問のヨーハン・フォン・オルデンバルネフェルトは、オランダ人同士で過当競争になれば他国に対して不利になると考え、国内のすべての地域を代表する企業連合を考案した。これが「連合東インド会社(VOC)」だ。
VOCの資本構成は、民間資本と国家資本の混成にすることが定められ、VOCには貿易の独占権が与えられる一方で、オランダの国益を守る義務があった。オランダ市民は、VOCの株を自由に買うことができ、積荷が現金化されたときにはその正味利益の5%が株主に支払われるのが決まりだった。「十七人会」と呼ばれた重役会は、定期的にすべての商船と倉庫の棚卸しを行い、原則6年ごとに公的監査の結果を公表すること、会計報告を怠った管理職は懲罰の対象になることなどが定められた。
VOCは、「史上初の株式会社」であり、オランダ市民は、株式を買うというやり方で、直接投資の煩わしさがなく、簡単に出資したり出資を打ち切ったりすることができた。会計による信頼が根付いていたオランダでは、新しい試みであるにもかかわらず、多くの人が積極的にVOCの株を買った。このようにして、世界で初めて株式会社が成立したのだ。
しかし、アイザック・ルメールという株主の不正によって、VOCの信頼が損なわれる事件が起こった。ルメールは、投機をしかける会社を密かに設立してVOC株を空売りし、VOCの会計主任を買収して自分の投機に協力させるなど、様々な問題を起こした。騒ぎが続いた1607年から1609年にかけて、VOCの株価は半値以上に暴落する。1610年には空売りが禁止されるようになり、ルメールは大損を被り、VOCの株価は再び上昇したが、多くの株主が株式会社の仕組みに不信感を抱くきっかけになった。
「十七人会」の重役たちは、配当を増やすことで不信感に対応しようとしたが、公開監査は行わなかった。VOCは共和国の軍隊の役割をも担っていたので、財務諸表の開示がリスクになるという判断だった。この主張を、「十七人会」は株主と国民に説き伏せ、長期にわたって実質的に公的監査を受けずに済ませてきた。また、VOCは監査しやすい複式簿記を使っていなかったが、能力の不足ではなく、軍事上の秘密保持という要因があった。
長らく外部監査が行われない状況が続くと、世間からの批判が強まっていく。やがて、VOCの株は、財務データに基づいたものではなく、市場の憶測によって売買されるものになっていった。1622年には、監査がまったく行われていないこと、帳簿すらちゃんと作られているのか疑わしいことに不満を持った株主たちが、「開示せよ」と題するパンフレットを発行し、重役たちを糾弾する事態となった。結局のところ、機密上の問題で決算の公開はしないが、国が非公開で監査を行うというやり方で事態の収拾が図られた。
オランダ独立戦争後、数学者でありアムステルダムの市長でもあったヨハネス・フッデが、1672年に「十七人会」の会長に就任し、VOCの支配人となった。フッデは、確率統計を商業会計に活用した分析を行い、商品の過剰在庫を維持するコストが商品自体の価値を上回っていることなどを指摘した。コスト管理と物価統計に基づいて、利益志向経営の提言を行う人物が支配人となったのだ。
しかし、フッデは支配人とアムステルダム市長の両方を兼任していた多忙な人物だったこともあり、VOCの決算が公開されることはなかったし、完全な財務報告はついに作成されずじまいだった可能性がある。フッデは会計を理解していたし、役員や会計担当者もフッデの指導をよく理解していた。会計を理解する文化は、オランダ全体に根付いていた。
会計の精神はVOCやオランダに根付いていたが、よい会計が完全に実行されたわけでもなかった。「オランダ東インド会社から学べる教訓はいささか微妙である」と著者は述べている。知識を持った専門家がたくさんいて、重要性が十分に認識されていたとしても、会計責任を長期的に維持することは難しい。
以上が、ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』、第1〜5章の要約と解説になる。
続く【2/3】は以下。

パチョーリ 『スムマ』ではないでしょうか?
Nicさん
ご指摘ありがとうございます。修正して更新いたします。
経済ノート編集部