ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』の要約と解説【2/3】

ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』の、第6章から第9章まで【2/3】を要約と解説をする。

前回にあたる第1〜5章まで【1/3】の要約と解説は以下。

ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』の要約と解説【1/3】

 

次回にあたる第10~13章まで【3/3】の要約と解説は以下。

ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』の要約と解説【3/3】

 

第6章 ブルボン朝最盛期を築いた冷酷な会計顧問

フランスの太陽王ルイ14世(在位1638〜1715)は、ヨーロッパ最大の王国を手中にし、おそらく当時において世界最大の富豪でもあった。ルイ14世は、人文的な教養が豊かでありながら、会計的な実務を重視する聡明さをも持ち合わせていた。

ルイ14世の名付け親であり枢機卿のジュール・マザランの死後、1661年からルイ14世が親政を始めることになるが、マザランは死ぬ前に、ジャン=バティスト・コルベール(1619〜1683)を、「王国広しといえどもこれほど役に立つ男はいない」とルイ14世に会計顧問として紹介した。コルベールは財務総監として、君主制を支える重要な役割を果たした。

コルベール家はイタリアの有力な銀行家一族と姻戚関係にあり、そのため、コルベールは、イエズス会の学校で神学とは別に商人のためのカリキュラムを受けた。その後、銀行や、公証人の下働きなどで実務を身に着け、フランス陸軍大臣の補佐官として、国内各地の実態調査、報告、予算管理などを学んだ。

会計に精通し、明晰な報告書を能力を備えていたコルベールは、たちまち上司から注目され、マザラン枢機卿の個人財務顧問に登用された。コルベールは、マザランが抱える山のような秘密書類や契約書を粘り強く処理し、請求するのを忘れていた収入や、取り立てるのを怠っていた債務を洗い出すなどして、マザランからの信用を勝ち取った。マザラインは死の床でコルベールをルイ14世に強く推薦し、コルベールは王国の財務総監になる。当時のフランスにおいて、会計の専門家がこれほど出世するなど前代未聞の出来事だったが、コルベールの有能さはそれほどのものだったのだ。

コルベールはフランスの財政運営に尽力したが、同時に権力と圧政の手段としても会計を用いた。大蔵卿である宿敵ニコラ・フーケを家宅捜索し、彼の会計帳簿を押収すると、そこからフーケの横領の記録や人脈を読み取ることができ、フーケには終身刑が下された。コルベールは、会計を容赦なく政治的な武器に使う冷酷さを特徴としていた。

コルベールは、ルイ14世の統治に会計の精神を根付かせようと試み、ルイ14世も会計の重要さを理解するようになった。人文主義者ならギリシャ古典や箴言集を持ち歩くような時勢において、ルイ14世は元帳を持ち歩いていた。「会計がこれほど王政の中枢に近づいたのは、初めてのこと」と著者は述べる。

フランス王国が「会計」の後援者のようなものだったので、会計改革はフランスに定着した。会計のルールが法的根拠を獲得した上で標準化され、帳簿の維持を怠った商人は監査を恐れなければならなくなった。会計改革は、巨大国家の統治に寄与した。

コルベールは精力的に仕事をこなし続けていたが、1683年に腎臓結石で突然亡くなった。ルイ14世は突然の死を悲しみはしたものの、財務省と宮廷にあったコルベールの執務室を閉鎖し、コルベールに代わる顧問役を任命しなかった。当時は、フランスの政治や財政についての悪いニュースが多くなっていて、事実を直截に告げられる会計報告は、ルイ14世にとって耳の痛いものだった。そのため、財政報告をあえて軽視するようなことがされたのだ。

コルベールのように万事を掌握し、きちんと帳簿を維持できる人物が政権の中枢にいなくなると、もはや真っ当な監査は行われなくなり、会計の中央管理さえあやしくなってしまった。

財務情報が中央で集中管理されなくなると、大臣たちの多くが、自分の握っている情報を国家に帰属するものと見なさなくなり、保身のための武器として使うようになった。その結果としての秘密主義、国王の専断、財務会計の混乱は、フランスを停滞させ、機能不全に至らせた。

 

第7章 英国首相ウォルポールの裏金工作

イギリスでは、1689年に制定された「権利章典」で、国王は議会の承認なしに法律の適用、廃止、課税を行ってはならないことが定められた。ジョン・ロックなどの自由主義政治哲学が影響力を持ち、検閲が廃止され、出版が比較的自由に行えるようになっていた。その当時は宗教にも比較的寛容で、プロテスタントにも信仰の自由が認められた。

当時のイギリスは、市民の自由という面においては、政治的に大きく進歩していた。しかし、政府の財政責任に関しては、ほとんど進歩がなかった。

18世紀の始め、イギリスで激論の対象になったのは、公的債務、フランスとの貿易収支、スコットランドとの連合に伴う資金調達などだった。ロバート・ウォルポール(1676〜1745)は、ケンブリッジを卒業し、不動産管理を手掛けていた父親から実地で会計を学んだ、応用数学や財務管理に精通している新しいタイプの政治家だった。ウォルポールは、国家財政に関する世間の不満を利用して政権に切り込み、政敵となる政治家に対して会計知識の欠如を理由に批判するなど、統治において会計の力をうまく使う術を知っていた。

ウォルポールは、1720年の「南海泡沫事件」の後処理を指揮して、イギリス初代首相になり、21年の長期政権を築き上げることができた。

1720年に、「南海泡沫事件」という、「バブル経済」の語源にもなった投機ブームによる株価の急騰と暴落が起こった。これは、金融市場全体に対しての民衆の信頼が失われ、投資市場が機能不全に陥るきっかけになるような大事件だった。南海泡沫事件の打撃によって、フランスは18世紀の大半を半ば破産状態で過ごすことになるが、イギリスは政府の介入によって立ち直ることができた。

財務や金融に関する深い知識を持っていたウォルポールは、事件の対処への裁量を委ねられ、イギリスの信用市場を立て直すためのプランを設計した。南海会社は「大きすぎて潰せない」規模に達していたので、ウォルポールは「公的信用回復のための法案」によって、政府から南海会社に融資をして倒産を防ぎ、イングランド銀行に南海会社が政府に払うべき借金を肩代わりさせた。

ウォルポールは、ダーティーなやり方も含めて手腕を発揮し、非常に強硬な国家介入をやり遂げた。政府や市場への信頼が破綻することを防ぎ、イギリス経済はひとまず立ち直ることができた。しかしウォルポールは、イギリス経済を立て直す過程で必要だった会計責任や政府会計の不透明性を不正に利用して、政治の裏金としても使った。

ウォルポールは、会計に対する深い知識と卓越した手腕を持ってして、イギリス経済を立ち直らせたという功績がある一方、財政の不透明性を自己利益のために利用し、自らの地位の安定に役立てた。

 

第8章 名門ウェッジウッドを生んだ帳簿分析

18世紀のイギリスは、南海泡沫事件の舞台ともなったが、世界に冠たる大帝国でもあった。「財政責任」はともかく、「会計」はイギリスの産業を支えた要素の一つであり、実務上の会計知識は重要視されていた。多くの学校が、かつてのイタリアやオランダの教育モデルにならって会計を教えるようになった。1740年の時点で、イギリスにあった会計学校は12校程度だったが、18世紀末には200校を超えていた。

「イギリスのプロテスタント文化を複雑に絡まり合う織物に擬えるなら、会計はすべてをつなぎ合わせる一本の緯糸だったと言えよう」と著者は述べている。神の業である自然を理解し、その知識に基づいて化学を発展させ、産業を興して富を得ること(帳簿の額面を増やしていくこと)は、けっして罪深いものではなく、むしろ自分が神の救済に値することの証明だった。きちんと付けられた帳簿は、神の救済をよりいっそう確実にしてくれるものとされるようになった。

中世やルネサンス期のヨーロッパでは、会計や金勘定の負の面を強調する絵画が頻繁に描かれた。一方で18世紀のイギリスでは、デスクの上に開いた帳簿を前に、にっこりと微笑みながらポーズをとる誇らしげな実業家や銀行員の肖像画が流行る。会計は後ろめたいものではなく、善いことと見なされるようになっていった。

第2章で登場したルネサンス期のイタリア商人フランチェスコ・ダティーニにとっては、額面が増えていく帳簿は、自分の罪が重くなっていくことを示すものでもあった。一方、18世紀のイギリスで成功した実業家にとっては、帳簿は単に満足の源だった。ダティーニは神(修道院)に資産を残したが、一方で、イギリス史上最も成功した陶磁器メーカーの創立者であるジョサイア・ウェッジウッド(1730〜1795)は、家族に資産を残し、「ウェッジウッド社」は現在も名門であり続けている。

当時の勤勉な非国教徒の模範的成功者だったウェッジウッドは、会計を活かした「効率的経営」に熱心に取り組んだ。ウェッジウッドの事業の成功の要因のひとつには、綿密な「原価計算」があった。生産時間、賃金、原料費、機械設備費、販売費などを綿密に計算することによって、原価率を割り出し、それを経営に役立てることができた。

産業革命によってますます会計は重要視されるようになったが、会計技術の進歩は『スムマ』以降しばらく停滞し、産業の発展に追いついていない状況だった。ごく原始的な原価計算は中世の頃から存在したが、人件費や原材料費、機械設備費を評価する方法が確立されていたわけではなかった。ウェッジウッドは会計が競争優位になり得ることを理解していた最初の実業家たちの一人であり、過去の販売実績に基づく将来予想や生産計画の準備を行った。コストを分類し、順位を付け、発生しうるコストを予想するウェッジウッドの経営手法は、企業経営に確率の概念を持ち込んだ初期の例となる。

ウェッジウッドの経営努力は実を結ぶ。18世紀後半にヨーロッパで物価が下落基調になり、多くの消費財が影響を被ったが、ウェッジウッド社は製品原価の切り詰めによる戦略的な価格設定を行い、生産を拡大して国内史上でのシェアを伸ばした。

18世紀イギリスでは、商業に会計が根付いていた一方で、財政に関しては改革がほとんど行われてこなかった。ウォルポール以降、公的債務はなんとか制御できていたからだ。しかし、アメリカ独立戦争によってイギリスは植民地を失い、債務危機の瀬戸際に追いやられた。債務残高は、ウォルポールが首相の時代には4000万ポンド前後だったのが、独立戦争終結の翌年である1784年には2億5000万ポンドに達していた。

戦争、経済危機、債務の膨張、社会不安が重なった末に、ようやくイギリスにおいても財務会計の改革が実現した。財政規律の回復のため、国家の歳出を監視する目的の会計委員会が設置され、すべての官庁の支出がチェックされ、あらゆる会計報告が点検されるようになった。国家の歳入と支出に複式簿記が導入され、これを国民に公表することによって、国家財政は公明正大に近づいた。

 

第9章 フランス絶対王政を丸裸にした財務長官

フランス語で会計や決算や報告を意味する「compte」という言葉は、革命憲法の中にも登場する。英語の「accounting(会計)」や「accountability(会計責任)」という言葉は、じつはイギリス生まれでもオランダ生まれでもなく、フランスから輸入されたと言われる。そのようなフランスだが、フランス革命以前は、実は国家の財務会計の不透明性が高い、会計責任と縁遠い国だった。

革命以前のフランスにおいても会計責任の概念が存在しないわけではなかったが、一握りの商人や経営者がそれを実行していたに過ぎなかった。ルイ14世の死後、政府が破産状態に陥り、財務官僚のパーリ兄弟が財政改革に着手したが、特権を脅かされたくない人たちの激しい抵抗にあってうまくいかなかった。徴税請負人は複式簿記をなかなか勉強しようとしないし、そもそも徴税という特権のうまみを手放そうとしなかった。

秘密主義の絶対王政では必然のなりゆきだが、イギリス人が歳入や金利や減債基金を論じている同時期に、フランス人は自国の財政事情をまったく知らずに暮らしていた。国家が一元管理する財務会計が存在しないのだから、誰も税収のおおよその額さえ把握していなかったし、財務残高にいたっては検討もつかなかった。監査がまともに行われておらず、徴税請負人の付ける帳簿はお粗末で、怠慢と不正にまみれていた。

ルイ16世の時代に、もはや借金もできず税収も増やせないほど行き詰まり、1777年に、スイス出身のプロテスタントで裕福な銀行家であるジャック・ネッケル(1732〜1804)が財務長官に任命された。ネッケルは財務改革に着手したが、旧体制の特権を脅かされた者たちに抵抗にあい、外国人でもありプロテスタントでもあるネッケルは「激しいネッケル叩き」を受けた。

1781年にネッケルは、フランス王家の財政を詳しく説明した報告書という体裁で『会計報告』を公表する。本書は1781年だけでも10万部売れ、社会現象と言えるベストセラーになった。それまで民衆は、王家の内情について憶測をするほかなかったが、『会計報告』はそこに踏み込んで具体的な数字を開示した。

ネッケルは情報公開によって秩序と信頼がもたらされると信じていたのだが、民衆は、あまりにも偏った予算配分を見て、王国への怒りを湧き上がらせた。財政について論じられる天文学的な数字は、ほとんどの人にとって実感できないものだったし、計算方法などを理解できている人もほぼいなかったが、「とんでもない金額を使っている国王は信用ならない」というふうに、飢餓に怯える民衆の怒りに「数字の裏付け」がなされるようになったのだ。

ネッケルが行った「財務情報の開示」は、「絶対王政の大前提である秘密主義を冒涜する行為であり、国家の秘密の暴露は国王の権威に対する直接的な脅威」と批判を受けた。ネッケルは罷免されたが、そのあとスイスに赴き、『フランスの財政運営について』を1784年に出版し、財政と金融に対しての一流の専門家と認められる。

1788年に再びフランスに呼び戻されたネッケルは、あくまで革命ではなく改革を意図していた。しかし、激怒した群衆が改革すべき旧体制それ自体を崩壊させてしまったので、穏健派であるネッケルになす術はなくなってしまった。

フランス革命は、責任ある代議政治を確立することはできなかった。一方で、数字に基づく税制議論は後に受け継がれた。長らく秘密主義を続け、国家の会計責任とは縁遠い国だったフランスは、後に他国から手本とされ、フランス語が転じて「accounting(会計)」という言葉になったほど、会計責任の文化を政治に定着させることに成功した。

 

以上が、ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』、第6〜9章の要約と解説になる。

続く【3/3】は以下。

ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』の要約と解説【3/3】

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。