ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』の、第10章から第13章まで【3/3】の要約と解説をする。
前回にあたる第1〜5章まで【1/3】、第6章〜9章まで【2/3】の要約と解説は以下。


目次
第10章 会計の力を駆使したアメリカ建国の父たち
17世紀のアメリカは、イギリスのような商業国家ではなく農業国家で、複式簿記どころかお金そのものが珍しかったほど、多くのやりとりを物々交換で行っていたような国だった。一方で、初期のアメリカの歴史は、債務管理の歴史でもあった。メイフラワー号で新世界を目指したイギリスの清教徒たちは、信仰の自由を目指していたが、同時に、営利目的で組織された入植事業という側面もあった。1620年の船上で結ばれたメイフラワー盟約は、共同出資によって植民地経営に従事する商業契約のような形式をとっていた。
大勢の共同出資者が関与する事業では、きちんと帳簿を付けることが重要になる。会計的な注意深さをもってして新しい国が建設されるというのは、かつてないことだった。
合衆国建国の父の一人と呼ばれるベンジャミン・フランクリン(1706〜1790)は、会計を、生活の秩序を確立する手段として役立てていた。郵便を整備したフランクリンは、複式簿記の知見をそこに活かすことに成功した。フランクリンは、面倒な手続きを守るのが難しいこともよく承知していて、手続きを図解付きで簡便にまとめた大型のポスターを作って郵便局に貼り出し、郵便業務が合理的かつ円滑に行われるよう取り計らった。
合衆国の初代大統領ジョージ・ワシントン(1732〜1799)は、毎日帳簿をつけていて、その帳簿はおおむね複式簿記形式だった。ワシントンは独立戦争の戦費の管理と運営に関する最終責任者であり、軍事的にはもちろん財政的にも困難な任務だった独立戦争において、会計はとりわけ重要なものだった。
ワシントンは、公金を横領したわけではないが、戦争の最中に途方も無い金額を個人的に支出し、強迫観念に取り憑かれたように贅沢をした。独立戦争はリスクの大きい冒険的事業で、勝つ可能性は小さく、負ければイギリスに捕らえられて処刑されるのは目に見えているので、ワシントンは開き直って景気よく私財を浪費していたのだ。独立戦争後、ワシントンは自らの帳簿を公開した。ワシントンの贅沢品の支出が明らかになっても、彼の人気が衰えることはなく、満場一致で初代総理大臣に選出された。
アメリカは、独立戦争のためにフランスに借金をしていたが、外国からの借款は国内の借金よりも危険であり、期日までに債務を返済できない場合、フランスはアメリカの領土の支配権を要求してくるだろうと思われていた。独立もつかの間、公的債務のせいで国家の存続が危うくなってしまったのだ。この危機に際して、フィラデルフィアで成功していた実業家のロバート・モリス(1734〜1806)が、アメリカ初の財政最高責任者に指名され、アメリカの財政の立て直しが図られた。
モリスは、第9章で登場したジャック・ネッケルの『会計報告』の影響を受けていて、債務を返済したり、さらなる資金調達をしたいのであれば、アメリカの会計と財政がきちんと行われていることを内外に示さなければならないと考えた。モリスは、ネッケルのお手本にならって財政改革を進める。一定の書式に則った会計報告を義務付け、簿記係や監査官の仕事をチェックする仕組みを構築し、すべての帳簿を統括する元帳を整備した。
モリスの手腕によって、アメリカの行政システム全体に複式簿記のロジックが浸透していった。またモリスは、会計システムの整備と並行して、政治と財政に責任と透明性の文化を根付かせようとした。「自由な国においては、国民は自国政府について、ことの性質が許す限りの情報を受け取るべきである」とモリスは信じていた。
独立戦争でワシントンの副官を務めたアレクサンダー・ハミルトン(1755〜1804)は、「アメリカの財務システム構築を手伝わせてほしい」モリスに手紙を書き、アメリカの政治や財政に思想を与えた。ハミルトンは、「権力とは財布を握っていることだ」と、国力の多くが結局は財政に帰着するという考えを持っていた。そのため、「自由放任(レッセフェール)」な施策ではなく、中央政府が財政を掌握することで、アメリカの権威に実態を与えようとした。
ジョージ・ワシントンは、ロバート・モリスをアメリカの初代財務長官に推薦したが、モリスが断ったので、ハミルトンが就任することになる。ハミルトンは、アメリカ合衆国憲法の起草者としての仕事が有名だが、合衆国銀行の設立、効率的な徴税システムの確立、財務省証券の発行など、アメリカ財政の根幹となる幾多の仕組みを実現した。ハミルトンは、政府債務は「自由の代償」であるという考えを持っていて、州の負債を連邦政府が肩代わりすることを提案し、公債を肯定した。
多くの国において、国家の会計責任の確立は困難なものだったが、1788年発行のアメリカ合衆国憲法第一章第九条七項には、「国庫からの支出は、法律で定める歳出予算によってのみ、これを行わなければならない。いっさいの公金の収支に関する正式の決算は、随時公表しなければならない」という条文があり、会計報告における責任と公開性という、革新的な内容があらかじめ盛り込まれていた。
第11章 鉄道が生んだ公認会計士
産業革命はかつてない利便性を人類にもたらしたが、中でも、「鉄道」は、まさに「世界を変える」かのような、空間的、時間的な大変革を成し遂げた。それまでは自分の生まれ故郷から出ることを想像もできなかった人たちが、数時間で大都会へ行くことができるようになった。
鉄道は、社会を様々に変化させたが、その影響は「会計」にも及んでいた。鉄道事業の登場は、財務会計をかつてよりも複雑なものに変えてしまった。
事業としての鉄道の特徴は、車両や路線といった、これまでの製造業とは比べものにならないほど巨額の「固定資産」を抱え込み、それを運用して利益を上げることだ。これを会計的に処理するためには「原価償却」が重要になってくるが、巨額の固定資産をどのような基準によって償却するかには、客観的ではない各人の意図が介在する余地が多分にあり、会計不正の温床になりやすかった。
鉄道に巨額の投資を行い、莫大な利益を上げることに成功した投資家が現れるが、財務資料を不透明にするところや、公表しないところが出てきた。そうすると、政府は課税すらまともにできなくなる。
鉄道事業は会計を複雑化させたが、それは不透明な会計とやみくもな投資に繋がった。当時は投資家たちにしても、鉄道会社の経営や収益構造などをよくわからないまま投資をしていた。もし鉄道会社が破綻し、投資家たちを巻き添えにするようなことがあれば、市場や政府が機能不全に陥ってしまうリスクがある。健全な投資市場のためには、鉄道会社などの会計がちゃんと行われているかを監督する必要があったが、政府だけで近代的な巨大企業を監査するには無理がある。そこで生み出されたのが、「会計士」というプロフェッショナルだ。
1854年に、スコットランドは「勅許会計士(Chartered Accountant)」という、いわゆる「公認会計士」の審査基準を正式に定め、公的な認可を受けた会計士が誕生した。
会計士は、
- 会計のプロフェッショナルとしての専門教育を受けている
- 企業と政府との間に立つ公平なレフェリーとしての職業倫理を備えている
- 世間からの信頼が篤い紳士である
とされ、企業の帳簿を監査する役割を公的に定められた。
アメリカでは1887年に「アメリカ公認会計士協会」が設立され、19世紀末までに、多くの国で公認会計士という職業が誕生した。
鉄道事業などの登場によって複雑になった会計処理を適切に監査するプロフェッショナルとして「公認会計士」が生まれた。ただ、それでも企業に正確な財務報告をさせるのは簡単なことではなかった。
第12章 『クリスマス・キャロル』に描かれた会計の二面性
会計の複雑化に対応するために生まれた「会計士」は、尊敬される職業ではあったが、一方で不正に手を貸す会計士も少なくなく、嫌悪の対象にもなりがちだった。「会計」は、正しく使えば理性と秩序がもたらされるが、間違った使い方をすれば不正の強力な手段になるという、二面性のあるものだった。
19世紀の作家チャールズ・ディケンズの父は会計士だったが、職を失って借金が返せなくなり、債務者監獄に収監されていた。祖母の遺産によって父が釈放されるまで、当時12歳だったディケンズはひとりで下宿し、昼間は靴済み工場で働かなければならなかった。ディケンズは小説の中で「会計」を活き活きと描いた。
ディケンズの世界では、会計士は、あるときは善意だが不遇な事務員として、あるときは悪意に満ちた詐欺師や、あるいは非情な官僚として登場する。1843年に出版の『クリスマスキャロル』では、主人公のスクルージは無慈悲で強欲な守銭奴であり、彼にこき使われるボブ・クラチットは勤勉に働くがゆえに貧しい善意の人として描かれる。
「会計」は、文学のみならず、哲学や思想など、様々な場面で顔を覗かせるようになる。例えば、「帳尻を合わせる」という発想だ。
1798年に『人口論』を出版したトーマス・マルサスは、「平衡(釣り合い)」という概念を導入し、食料などの生存資料と人口を「平衡」させなければならないのだと危機を提唱した。生存資料を上回る人口の増加という罪に対しては、窮乏という罰が与えられなければ、「帳尻が合わなくなる」という考え方がされた。
1859年に『種の起源』を著したチャールズ・ダーウィンは、第8章で登場したジョサイア・ウェッジウッドの孫であり、会計教育を重視する環境で育った。ダーウィンは、日記作家のように克明に日記をつけ、妻とトランプした時間数まで記入して合計を出すなど、集計した数字から何らかの結論を出そうとした。マルサスの著書の熱心な読者でもあった。
ダーウィンが、彼のいとこのフランシス・ゴルトンからアンケート調査を受け、父親と自身を比較した際の、有名なエピソードがある。
例えばダーウィンは、「気質」という項目では
自分の欄に「やや神経質」と記入
父親の欄に「楽天的」と記入
「勉学」という項目では
- 自分の欄に「たいへん勉強熱心」と記入
- 父親の欄に「勉強嫌いで理解力も鈍いが、会話では好奇心旺盛で、逸話の収集に情熱を燃やす」と記入
「特別な才能」という項目では
- 自分の欄に「とくにないが、帳簿をつけて事業を把握すること、手紙に返事を書くこと、投資をすることは得意である。自分は秩序立てて仕事をすることが習慣になっている」と記入
- 父親の欄に「実務に長け、大きな利益を挙げて損をしない才能を持っている」と記入
ダーウィンは、自分の能力と父親の能力を対比する際に、「収支」を合わせようとした。ある特徴が絶対的に優れているとするのではなく、「進化」を、複式簿記に表されるようなバランスシステムとして考えていたという見方もできる。
アメリカ初の経営コンサルタントとして知られるフレデリック・W・テイラーは、のちに「科学的管理法」として有名になる近代的な生産管理方式を編み出し、厳密な会計を経営に活かした。テイラーは、利益のもとになるのは正確なコスト評価であり、そのために人件費、原料費、労働時間を正確に把握しなければならないとし、生産管理を徹底しようとした。この方法は大きな成果を上げた一方で、テイラー方式での非人間的な管理は労働者の負担を増やすという批判もあった。
19世紀にディケンズは強欲な会計士を描いたが、20世紀に入ると会計士は再び尊敬されるようになっていく。几帳面な帳簿に対しての嫌悪感や偏見があったにもかかわらず、会計士は公共サービスのシンボルとして、また公益に資する職業として認知されるようになっていった。会計に関する法律が整備され、政府関係の監査を担当する専門の官庁が置かれるようになっていった。産業が高度化していき、会計が社会に対して果たす領域が広がっていったのだ。
第13章 大恐慌とリーマン・ショックはなぜ防げなかったのか
会計の複雑化により、「公認会計士」という、大企業を監査する新しい職業が誕生した。会計士は、政府と企業との間に立つ公平なレフェリーとしての役割を求められたが、それを貫くのは容易なことではなかった。最善のケースでは、会計士は公平に企業を監査する役割を果たした。だが、多くのケースでは、帳簿をごまかそうとする悪徳企業の前になす術がなかった。最悪のケースでは、会計士たちは自らの専門技術を活かして企業の不正を手伝った。
20世紀のアメリカはビジネスの最先端を走っていたが、それらは総じて予測不能であり、変化のスピードが早く、政府の規制が追いつかなかった。20世紀の始めのイギリスでは、監査が企業にとって欠かせなかったが、アメリカでは監査がほとんどまともに行われていなかった。そもそも帳簿がきちんと付けられていなかったので、「推測」に基づいて監査されていた。
イギリスでは帳簿を付けないことが職業倫理に反することだったのに対して、アメリカではその意識がかなり適当だった。透明性が欠如した企業経営がいつかアメリカ経済を損なうという警告はされていたものの、20世紀初期のアメリカの証券取引所は、上場企業の財務報告に関して何のルールも定めていなかった。そのため、多くの企業の決算はお粗末なもので、収益をまったく報告しない大企業もあった。
お粗末な会計のツケは、大恐慌という形で起こった。1929年にニューヨーク市場が大暴落し、ニューヨーク証券市場に上場していた企業の時価総額は、1933年までに89%も失われた。アメリカのGDPは30%落ち込み、失業率は25%に達し、銀行は9000行が倒産した。大恐慌はアメリカのみならず世界中に影響を与えた。
大恐慌を経た1933年には、グラス=スティーガル法が可決され、銀行業と証券業の兼業が禁止された。銀行と証券が明確に分離されることで、資産と負債を把握しやすくなり、監査は以前よりやりやすくなった。34年には証券取引委員会(SEC)が設置され、上場企業の財務報告の基準が定められた。SECは上場企業の財務報告の規定を厳しく定めようとしたが、一方で監査法人側からは、「企業側には帳簿を捜査する余地があるのに対して監査側の負担と責任が大きすぎる」という反発があった。
大恐慌の後は、会計改革のうねりが世界各国に広がり、会計基準が重視されるようになっていった。著者は、1946年から61年にかけてを「会計士にとって黄金時代ともいうべき時期」と述べている。明確な監査基準や規則が制定され、欧米や日本の経済は順調に成長を遂げた。多くの会計士が、社会的地位の高い紳士かつプロフェッショナルとして活躍することができた。一方で「会計」自体が、非常に複雑な、高度な専門性を要するものにもなっていった。
会計士の黄金時代は長続きせず、企業と政府の間の公平な審判者としての役割はすぐにも崩れ始めた。アメリカでは、1950年代半ばには、監査法人同士の競争が熾烈になっていた。やがて会計士は、コンサルティング分野に業務範囲を拡大し始めた。「会計」という専門性を活かし、企業に助言することをビジネスにしたのだ。しかし、コンサルティング分野の隆盛によって、監査法人の独立性はあやしいものとなった。企業と独立した立場から監査をするのが会計士に求められる役割だが、自らが監査対象とする企業から巨額のコンサルティング契約を受注するようになったからだ。
会計が複雑化するほど、様々な不正の余地が生まれる。それに加えて、監査法人は、監査を担当している企業からコンサルティング料を受け取っていた。「コンサルティングの提供は、監査の責任とまったく相容れないので、国は監査法人のコンサルティング業務を禁じるべきだ」という批判は当然あった。しかし、コンサルティング契約から多大な報酬を得ている大手監査法人は、自らに有利な政治活動をできるだけの力があり、一般人にはほとんど理解できない会計の専門知識を持っていたので、その牙城を切り崩すのは難しかった。そのため、世間からの信用を失いながらも、会計士という職業は栄えた。
シカゴの会計事務所「アーサー・アンダーセン」は、かつては高い職業倫理と誠実な仕事ぶりで知られていたが、コンサルティング業務で多大な利益を上げるようになっていった。アーサー・アンダーセンは、粉飾決算で株価を押し上げていた「エンロン」の不正会計に手を貸していた。アーサー・アンダーセンの行った監査の一部は十分にまともなもので、優秀な中堅クラスの監査担当者が上司を告発したが、莫大なコンサルティング料を失うことを恐れた幹部たちは、報告を無視して監査資料をシュレッダーにかけた。2001年にエンロンが破綻したとき、不正を隠しきれなかったアーサー・アンダーセンも解散を迫られた。しかし、アメリカ史上最大の不正会計事件でありながら、関わった社員は誰一人として刑務所送りにはならなかった。
エンロンを筆頭に、大手企業の不祥事や破綻が相次いだことで、2002年に「上場企業会計改革および投資家保護法(SOX法)」が成立した。それでも、企業や銀行は、自らに有利な会計責任者やロビイストを高い報酬で雇入、不正をチェックしようとする会計士を常に一歩出し抜くような状況だった。これらの問題は、サブプライムローンに端を発する2008年の金融危機という形で顕在化した。
世界中に深刻な打撃を与えたリーマンショックには、多くの人が関わっていたが、有罪になった者は一人もいない。金融業界は、「会計の複雑さ」という、透明性に対抗する強固な壁を手にしているからだ。つまり、業務内容が複雑すぎるので、正しい監査が行われているのか、いったい何をすれば罪にあたるのか、ということを整備するルール作りが追いつかない。複雑になり過ぎた今の金融は、もはや監査が不可能なのだ。
終章 経済破綻は世界の金融システムに組み込まれている
ルネサンスから19世紀にいたるまで、多くの画家、作家、思想家が、会計士(帳簿に強い人物)を描いてきた。会計士は、あるときは守銭奴であり、あるときは公正な紳士だった。だが現在は、偉大な画家が「会計」を題材にすることはほとんどなく、会計を話題にする政治家や評論家はめったにいない。会計は、専門性が高くなりすぎて容易に理解できないものになり、ふつうの人の住む世界から遠ざけれてしまった。その一方で、会計士の数そのものは増え続けており、数字を扱うスキルもより高度なものになっている。
今まで何世紀にも渡って会計責任を確立する努力が続けられてきたにもかかわらず、現在、監査が効果的に行われ、企業や政府が責任を果たしているとは言えないと、著者は見ている。さらに、取引の高速化や複雑な金融商品の登場など、テクノロジーの発達が会計の仕事を一段と困難にした。
米国の大手会計事務所は、能力が高くても、立場が弱く誘惑にも弱い。企業が素直に財務データを渡すとは限らず、何らかの立場や便宜を餌に、抱え込まれることがこれからもないとは言えない。複雑化し過ぎた会計には様々な不正が入り込む余地がある。今や、会計や金融は、ごく基本的な原則を理解することにさえ多くの学習を前提とする。
著者は、「経済の破綻は、単なる景気循環ではなく、世界の金融システムそのものに組み込まれているのではあるまいか」と述べている。大方の国で、政府の財政はしだいに無秩序化してきており、アメリカでは地方自治体が破綻し、ヨーロッパでは一部の国が債務不履行の危機に瀕している。会計責任を果たさない超大国である中国はもちろんのこと、多くの国で会計の透明性が欠如している。この傾向が進めば、「精算」の日がいずれやってくる。
「本書でたどってきた数々の例から何か学べることがあるとすれば、会計が文化の中に組み込まれていた社会は繁栄する」と著者は最後に述べている。ルネサンス期のイタリアの都市ジェノヴァやフィレンツェ、黄金時代のオランダ、18世紀から19世紀にかけてのイギリスやアメリカは、「会計」が教育に取り入れられるのみならず、宗教や倫理思想に根付き、芸術や哲学や政治思想にも繁栄されていた。会計責任が、単なる職業倫理ではなく、文化の様々な面に深く根を下ろすことで、社会が繁栄する。一方で現在は、複雑化しすぎた会計が日常生活や文化から切り離され、ほとんどの人がもはや会計に興味を持たず、多くを期待しなくなってしまった。
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