ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』は、「歴史上の重要な出来事の裏には、帳簿(会計)が大きく関わっている」という視点から世界史を捉え返したベストセラーだ。
帳簿、会計、金融、経済、政治などについて、多くの知見を得られる良書だ。
世に出ている「会計本」の多くは、簿記検定などに合格するためだったり、企業財務に携わるための具体的な内容のものが多いが、本書は、「会計と社会との関わり」という、「会計の本質的な意義」に焦点を当てた内容だ。読み物としても面白く、歴史が好きな人や、経済関連の教養を求める人にもおすすめできる。
詳しい「要約と解説」については別の記事で書いているので、詳しく知りたいのであれば以下を参考にしてほしい。



良くも悪くも、著者の「視点」が強く現れている内容に思うが、帳簿や会計に対しての面白い見方を提供してくれるので、読んで損はない書籍だと思う。
当記事では、『帳簿の世界史』の、個人的に面白かったと感じたところを、簡潔にまとめて紹介していく。手短に要点を把握したい人は、この記事を参考にすると良い。
会計責任が果たされる土壌にのみ政治の安定が存在する。
本書を通して、著者が一貫して発しているメッセージは、
政治の安定は会計責任が果たされる土壌にのみ実現すること、それはひとえに複式簿記に懸かっているということ
というものだ。
なお、「複式簿記」というのは、ある取引について複数の記述をする帳簿の付け方のことを言う。「複式簿記」は面倒だしマスターするのに訓練が必要だが、単純に取引を記録していく「単式簿記」と違って、間違いのチェックや、資産と負債の状況を把握がしやすくなる。そのため、「複式簿記」で帳簿がつけられているかどうかは、きちんとした会計が行われているかどうかの目安になるのだ。
「複式簿記」で会計が管理され、その数字が公開されていることは、政治(秩序の安定)にとって重要な意味を持つ。
本書は、
- かつてヨーロッパ最大の金持ちだった「メディチ家」は、貴族的な教養を重視し、実践的な会計をおそろかにしてしまったので、早々と衰退した。
- カール5世の頃の全盛期だったスペインも、会計のような実務的なスキルを軽視する文化が流行っていたので、会計改革ができないまま終わった。
- 会計責任の文化が根付いていた商業共和国のオランダにおいて、「史上初の株式会社」が誕生した。
- フランスの秘密主義の王政では、会計責任の概念すらなかったが、財務長官が『会計報告』を公表したことにより民衆の怒りが加速し、革命の勢いが強まった。フランス革命後は、フランスに先進的な会計責任の文化が根付いた。
などなど、「会計が政治にどのような影響を与えたのか」という視点で、世界史を捉え直している。
実務の軽視が文化の衰退に繋がる
歴史を通して、「会計」は軽視されがちなものだった。金を稼いだり、金勘定に熱心なことを忌避する文化は、世界の至るところで見られた。
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』によれば、資本主義以前は、そもそも「経済全体が成長して、みんなのパイが増えていく」という発想そのものがなく、経済はゼロサムゲームのようなものとして捉えられていたので、多く稼ぐことはそのぶん誰かの富を奪っていることを意味した。

それを考えるなら、「帳簿をつけること(金に執着すること)」が、良くないことと見なされがちだったのも無理はない。
そして、教養ある人や権力のある人の「文化」は、金稼ぎを低俗なものと見なし、本質的な価値を追求しようとすることが尊い、とする傾向があった。
本書が提示する面白い視点は、「本質的な価値を志向する文化」こそが、逆説的に、文化のための基盤を衰退させてしまう、という指摘だ。
帳簿をつけること(金をちゃんと数えてそれを公開すること)、つまり、会計責任と財務の公開性こそが、政治や文化の基盤となる。
本書で描かれるのは、人文学的な教養を追求し、会計を金稼ぎのためのものとして下に見る姿勢こそが、金銭へのだらしなさを蔓延させ、むしろ文化を衰退させてしまうことに繋がる、という逆説だ。例えば著者はそれを、メディチ家の衰退に見ている。
メディチ家は、卓越した会計技術を誇り、ヨーロッパで最大の銀行となった。メディチ家はルネサンスを支援したことで知られるが、ルネサンスで流行した「新プラトン主義」の思想には、会計を軽視するところがあり、それがメディチ家の衰退を招いた。メディチ家は自らが支援した価値観に滅ぼされたのだ。
「本質を見ようとする文化こそが、会計的なだらしなさを発生させ、それが結果として責任や秩序を破壊してしまう」という著者の視点は、その正当性については審議が必要とも思うが、なかなかに示唆的でもあるように思う。
「帳尻を合わせる」という会計的な思想
本書は、「会計」が、文化や思想に与えた影響についても記述されている。
中世において、「帳尻を合わせる」という会計的な概念は、キリスト教に大きな影響を与えていた。
いわゆる「最後の審判」では、善行と悪行の差し引きによって結果が決まる「決算」が行われると考えられていた。これは、悪行を犯しても、そのマイナスを打ち消すぶんのプラスを積むことで、収支をプラスに転じさられるということでもあった。
本書では、124,549通の商用文書、573冊の帳簿と元帳という「中世最大の個人の会計記録」を書き残した、14世紀イタリアの商人フランチェスコ・ダティーニが紹介される。ダティーニは最期、莫大な財産を教会に寄付することに決めた。
当時のキリスト教の価値観では、金稼ぎは後ろめたいことであり、帳簿に増えていく残高は、自分の罪が増えていくことでもあった。中世イタリアでは商業が発展していったが、同時期の商人たちには、常に罪の意識がつきまとってもいたのだ。
教会は、「金を稼ぐことに対する罪の意識」をうまいこと利用して、教会に金を寄付するという「善行」を積むことによって、金を稼いだという「悪行」の差し引きをゼロにできるとした。そのため、教皇庁の大広間には大勢の会計係が陣取るようになったし、15世紀には「免罪符」が大量に発行され、ルターによる宗教改革のきっかけになった。
また、他の紹介されているエピソードの中で興味深いと思ったのが、『種の起源』の著者であるチャールズ・ダーウィンの逸話だ。
本書では、イギリスの陶磁器メーカー「ウェッジウッド」の創始者ジョサイア・ウェッジウッドが、会計を経営に活かした事業家として紹介される。実はダーウィンは、ウェッジウッドの孫であり、「会計」が重視される環境で育った。ダーウィンは、細かな数字を書いた日記をつけるなど、記録して集計する習慣をしっかり身につけていたようだ。
ダーウィンは、進化上の何らかの性質を、複式簿記で記入されるような「帳尻の合うもの」として捉えていたのではないか、というエピソードが紹介される。彼はあるアンケート調査で、自身と父親を比較したが、どちらが優れているという見方はせず、「良い面と悪い面の帳尻が合っている」という複式簿記的な回答をしている。
例えばダーウィンは、「気質」という項目では
- 自分の欄に「やや神経質」と記入
- 父親の欄に「楽天的」と記入
「勉学」という項目では
- 自分の欄に「たいへん勉強熱心」と記入
- 父親の欄に「勉強嫌いで理解力も鈍いが、会話では好奇心旺盛で、逸話の収集に情熱を燃やす」と記入
「特別な才能」という項目では
- 自分の欄に「とくにないが、帳簿をつけて事業を把握すること、手紙に返事を書くこと、投資をすることは得意である。自分は秩序立てて仕事をすることが習慣になっている」と記入
- 父親の欄に「実務に長け、大きな利益を挙げて損をしない才能を持っている」と記入
厳密な実証ではなく、面白い小話程度の話題として扱われているものの、ダーウィンの発想に「会計」が影響していたのかもしれないと考えると面白い。
帳簿から見える人柄
「帳簿」には、「正当性を示すための公開用」と、「自分のための記録用」という、二種類の性質がある。
歴史上、数多くの事業家たちが、徴税や監査のときに提出する「公開用の帳簿」と、自分だけのために秘密にしておく「自分用の帳簿」を用意していたという。
だが、本来であれば自分用として秘密にされていたような帳簿が気前よく公開された、面白いエピソードも本書では紹介されている。
アメリカの建国の父であり、合衆国の初代大統領となったジョージ・ワシントンは、独立戦争時に戦費の管理をする最高責任者だった。ワシントンは、戦費を横領していたわけではないにしろ、戦時中に、強迫観念に取り憑かれたような贅沢をしていた。アメリカの独立戦争は非常にリスクの大きな賭けであり、負ければ処刑される立場のワシントンは、開き直ってめちゃくちゃな散財をしていたのだ。
豪快に散財した人物が、その贅沢の内容をちゃんと帳簿につけておく、ということ自体が稀有なことかもしれないが、さらにワシントンは、独立戦争後に、自身の帳簿を公開する。
もし現代の政治家がワシントンのような帳簿を公開したなら、「こんなに贅沢をしやがって」と支持率が下がること間違いなしだろうが、ワシントンの人気はまったく衰えず、満場一致で初代総理大臣に選出された。
「会計」が順調に社会に根付いているとは言えない
多くの人が、「会計」は、過去から現在に至るまでにどんどん整備されて、今はかなりきちんとされるようになっているのだろう、と漠然と考えているかもしれない。しかし著者は、会計は決して順調に根付いてきたわけではないし、いちど会計が根付いた社会でもそれが失われるということは多々あり、さらには、「現在の世界も会計が根付いているわけではない」と考えている。
「現時点で、優れた会計がなされているわけではない」というのが著者のメッセージであり、これについては驚く人が多いのではないだろうか。
「公認会計士」や「税理士」などの職業が世界的に整備され、企業の財務部など、会計に携わる人間の数自体は増えているし、計算の方法もより高度で複雑なものになっている。しかし、高度で複雑なものになってしまったがゆえに、会計は文化と切り離された。
著者は、「会計責任が文化と結びつくこと」が重要だと考えていて、単に複雑さが増しただけの会計が影響力を持っている現状を、良いものと見ていない。
一部の利己的な人たちが、専門知識の複雑さを盾にして、自らに有利な状況を作り出している状況は、むしろ会計と文化を切り離す結果になっているのだ。「会計は重要で、高度なものになっているから素晴らしい」という単純な見方をしていないのが、本書が評価されている理由でもあるだろう。
「公認会計士」は、複雑になってしまった会計に対応する目的で、企業の監査のため作られた役職だが、アメリカの大手監査法人は、監査とは別に、コンサルティング業務を担っている。確かに、企業の財務を監査できる専門知識があれば、経営的なアドバイスを与えるのは合理的かもしれない。しかし、「企業の監査」と「企業のコンサルティング」は、倫理的に相容れるものではない。
監査法人がコンサルティング業務を行うのは、正当なことではないが、一方で会計はあまりに専門的で複雑なので、そこに切り込むことが難しくもなってしまった。
「会計責任の文化」とは、正しく会計がなされ、数字が万人に公開され、それを元に議論などが行われることだ。しかし、現在の会計の複雑化は、むしろ「透明性」や「公開性」から遠ざかる結果をもたらしてしまった。
「会計が文化に根付いた社会は発展する」と著者は考えている。現在は、たしかに財務報告などの会計責任は、過去と比べてかなり厳しく要求されるようになっている。一方で、多くの人が、「会計」のあまりの複雑さを前に最初から匙を投げ、無関心になってしまった。そのような意味で、現在は過去と比べて優れた会計が実践されているとは言えない。著者のこの視点には賛否があるだろうが、重要な論点に思える。
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