小熊英二『日本社会のしくみ』第4章の要約と解説【「日本型雇用」の起源】

小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』の「第4章」「日本型雇用」の起源の要約と解説をしていく。

前回にあたる「第3章」の要約と解説は以下。

小熊英二『日本社会のしくみ』第3章の要約と解説【歴史のはたらき】

「第4章」の概要

この第4章では、明治まで歴史を遡り、「日本型雇用」の起源を探る。

日本型雇用は60年代の高度経済成長期に完成するが、50年代の時点でも「日本型雇用」に繋がる特徴が強く見られる。それは、「職務」ではなく、「学歴という身分」が秩序を正当化していることだ。「この仕組の起源はいったい何なのか?」が、第4章で述べられている。

日本は他国と比べて急速に近代化を行ったので、「官」の影響力が強かった。

「官」は「民間」と違い、上から命じられた仕事を忠実にこなさなければならない。そのため、「職務」は副次的なもので、「官等(身分)」が重要視された。このような「官」の秩序が、日本の民間企業にも波及し、影響力を持ち続けた。

他国では「熟練工」や「貴族」が秩序を正当化する傾向があったのに対して、日本は近代化を急に進めたので、それらが機能しなかった。そのため「学歴」の影響力が高く、「学歴」がまるで「身分」のように秩序を正当化する現象が起こった。

 

かつては日本企業も「三層構造」だった

第1章第2章では、日本の働き方について、大企業と中小企業の格差が大きい「二重構造」と述べた。

だが、戦前から50年代あたりまでは、日本でも欧米の「三層構造」に近い働き方がされていた。

(これに関しては後に述べられていくが、戦後の日本人の働き方において、「三層構造」から「二重構造」への変化が起こったのだ。)

50年代に日本に滞在して、日本の雇用慣行を調査した、『日本の経営』などの書籍で知られる「ジェームズ・C・アベグレン」は、

  • 大卒の「上級職員」
  • 高卒の「下級職員」
  • 中卒の「現場労働者」

と、日本社会に「三層構造」が見いだせることを指摘した。

同時にアベグレンは、「日本の三層構造」ならではの特徴として、

  • 職務に対応した専門能力を重視しない
  • 三層構造がほぼ100%、学歴と対応している
  • 職務能力よりも「人物」を厳重に審査される

を指摘した。

日本にも欧米と同じ「三層構造」のような現象は見られる。

しかし、

  • 目標を立てて命令する仕事(上級職員)
  • 命じられた通りに事務をする仕事(下級職員)
  • 命じられた通りに体を動かす仕事(現場労働者)

というような、「職務」で格差が決まる「欧米の三層構造」とは異なる。

「日本の三層構造」には、「職務が重視されず、学歴と対応し、人物が評価される」という特徴があった。

日本において、「大卒(=上級職員相当)」は「えらい」のだが、それに対応した職務能力が規定されているわけでもなかったのだ。

当時の日本では、「学歴」が、職務能力と直接は結びつかない「身分」のような区分けだった。そして、特定の職に就こうとするとき、学歴は「低すぎてもいけないが、高すぎてもいけない」。つまり、大卒や高卒であれば「下級職員」にも「現場労働者」にもなれるというわけではなく、「現場労働者」にあたる仕事の応募条件は中卒者に限られた。アベグレンの調査によれば、「高校卒業の学歴をうまく隠して工員としてはたらいている人」さえ見られた。

なお、「専門能力ではなく人物」が重視されていた。上級職員は、「東大、京大、一橋、早稲田、慶応」の5つの大学のみから採用されたが、当時の大企業は、学校からの紹介のない応募をいっさい受けつけていなかった。応募には教授の推薦が必要で、徹底した身体調査で障碍者を排除し、本人と家族の素行も調査する。また、下級職員は高卒を採用し、工員は中卒から採用したが、いずれも学校の紹介によって選別されていた。

「学歴」によって「身分」が決まるが、「職務」は決まらない。職務能力を見ない代わりに、健康状態や潜在能力などを含めた「人物」を、学校の教師たちに審査させるような形で選別していた。

日本企業では、職務に応じて人材を採用しているわけではないので、職務をこなす能力がない人物も、解雇するのではなく他の何らかの仕事を見繕う必要があった。入社させたあとにずっと面倒を見る必要があるからこそ、入社選考は「人物」を見て厳格に行われた。これは現在の日本企業の就職活動にも繋がる部分だが、50年代の時点では、日本型雇用の特徴とされる「社員の平等」はまだ見られない。

この第4章から続く第5章にかけて、「社員の平等」が確立する以前の、50年代における「学歴と人物で選別する三層構造」に至るまでの歴史が描かれる。

 

「官制の三層構造」

日本には、ヨーロッパに見られたような「職業別労働組合」の伝統が希薄だった。江戸時代に職種別団体は存在したが、大名から御用を受注する組織という性格が強く、班ごとに分断されていて、全国的なものではなかった。

官営の「八幡製鉄所」の創立期、労働者の標準的な勤続年数は1年から2年に過ぎなかった。当時の日本では、すでにあった技術と、海外から導入した最新鋭の技術とが大きく隔絶していたので、入社時に熟練職種として雇われたものでさえ、職種をすぐ移動しなければならなかった。

1900年に八幡製鉄所に採用された職員158名のうち、47%にあたる75名が士族だった。旧秩序の知識層であり、中等・高等教育を受けやすかった元氏族は、事務職員や技術者といった知識職に就くうえで有利だった。元氏族が知識層として職を得ることは、明治期によく見られたキャリア形成だったが、有利なスタートを切ることはできても士族であるという理由で優遇されたわけではなかったので、士族の退潮は早かった。

明治の日本は、先進的な技術や知識を急速に取り入れたが、有力な民間企業は育っておらず、近代教育を政府が事実上独占していたので、高等教育を受けた者のファーストキャリアは「官職」になりやすかった。そして、職種にこだわりなく、教育を受けた少数の人材を様々な知的職種に使いまわしていた。

明治期の混沌状態において、「官庁の制度」が秩序の根拠になり、「学歴」がそこに当てはめられるようになった。

  • 「上級職員」にあたる「高等官(親任官・勅任官・奏任官)」
  • 「下級職員」にあたる「判任官」
  • 「現場労働者」にあたる「等外(雇・傭人・嘱託など)」

このような官の秩序が、官営の八幡製鉄所などに適用された。

官吏の秩序は、変更や整理などを経て、戦後の1949年には廃止された。廃止されて法的な根拠は失ったものの、現在の官庁の人事処理にも影響を与えている。

  • 「高等官(上級職員)」は、現代では昇進の早い「キャリア」
  • 「判任官(下級職員)」は、長期雇用だが昇進は限られている「ノンキャリ」
  • 「等外(現場労働者)」は、非正規の臨時職員

という形で、現代にも「官制の三層構造」の影響を見出すことができる。

この「官制の三層構造」は、戦前においては日本社会に広く影響していて、人々にとって身近なものだった。

学校、警察、町村役場、鉄道、官営工場など、様々な国営部門に「官制の三層構造」が適用されていた。また、軍隊も三層構造の影響が強く、多くの男性がこの制度に組み込まれた経験をした。

このような三層構造は、「職務」ではなく、主に「学歴」に対応していた。

 

日本における「官制の三層構造」は、欧米と似たようなピラミッド型の構造でも、「職務」とは対応したものではなく、「学歴」に対応した身分制のような秩序だった。

 

「任官補職」という秩序

当時の日本において、官吏の給料は、「職務」に対応した賃金ではなく、天皇と政府に対する忠誠の対価として与えられる「身分」に対応した給料だった。国家に対して永遠の忠誠を誓う代わりに、終身雇用が保証され、身分(学歴と勤続年数)に応じた給料が支払われるという発想だ。

官吏にとって、「職務(何の仕事をするか)」は副次的なものに過ぎず、重要なのは「官等(どれくらい偉いか)」だった。例えば当時、警視総監と大学総長は、職務内容はまったく違っても、官等は同程度だった。そのため、社会的地位は同程度という合意があり、俸給も同じだった。

以上のような特徴は、「任官補職(にんかんほしょく)」と呼ばれる原則で、まず「官」に任ぜられ、そのあとに「職」が補される。

「任官補職」は、日本に限ったものではなく、例えば「軍隊」には一般的に見られる原則だ。軍隊であれば、それぞれのやりたい仕事や得意分野と違ったとしても、上層部の判断で、様々な職務に従事することを求められる。また、当然ながら軍隊は国を超えた横断的な労働市場とは無縁であり、自国の軍隊の中で昇進していくしかない。

  • 永遠の忠誠を誓う代わりに待遇が保証される
  • 自らの希望で職を選べず、上層部の判断に従う
  • ひとつの組織の中で昇進していく以外の選択肢がない

は、どの社会の「軍隊」にも一般的に見られる特徴であり、また「官吏」にも同様の特徴が見いだせる。

日本ならではの特徴としては、日本では「任官補職」の秩序が、8世紀の律令制から続く官位の延長として位置づけられていた。そのため、「官等」が、単なる給与等級である以上の「身分を示すステイタス」という意味合いが強かった。

 

民間企業も「官」の構造を採用した

明治期の民間企業は、どのような近代的秩序を作るか模索していたが、官庁の制度をモデルにして秩序が定着していく。「上級職員・下級職員・現場労働者(高等官・判任官・等外)」という「官庁の三層構造」は、明治後期には「民間企業」にも似たような構造が現れ、「社員・準社員・職工」と呼ばれることが多かった。

明治時代には「官尊民卑」の傾向が強く、官庁や官営企業は庶民にとって尊敬の的だった。官と民とでは、地位も俸給も、官のほうが圧倒的に良かったのだ。

やがて、官尊民卑を打破しようとする勢いのある民間企業が現れ始めるが、その際に、民間企業は、待遇の良い官庁と、人材獲得競争をする必要があった。三井などの財閥系企業は、高等教育卒業者に対して、官庁に勤めた場合と同じ「身分」と「給料」を提示しようとした。

帝国大学の卒業者のほとんどは「官」の領域に進んだが、大手民間企業は「官」に類似した待遇を整えて、人材獲得競争に挑んだ。これによって、民間企業の職員の給与が、職務や市場経済とは関係なく決まる構造が形成された。つまり、「どれだけの経済的利益を生んだかで給与が決まる」という通常の民間の発想ではなく、「身分(学歴と勤続年数)で給与が決まる」という官庁の発想が、民間に適用されることになった。

官庁の制度がここまで強く民間に影響を与えた背景には、当時の日本では近代教育を受けた人材が貴重で、民間企業が官庁と同等の待遇を約束する形で人材獲得競争に挑んでいたことがある。

また、当時の民間人にとって、近代的な秩序と言えば「官庁・軍隊型の等級制度」以外に思いつかなかったので、自然とその秩序が社会の当たり前のようなものになっていった。

 

「学歴」が「身分」に転換した

日本の特徴は、「社員・準社員・職工」という三層構造が、職務に対応したものではなく「学歴」に強く対応したものだったことだが、日本社会において「学歴」は、すんなりと「身分」に直結する強固なものになった。

例えばイギリスなどの場合は、上流階級出身者を役職に就く慣行があり、「学歴」はそれに対抗する業績主義(メリトクラシー)として受け入れられていった。つまり学歴と身分が対立関係にあったのだ。一方で、日本の場合は、「身分」を持つ士族が早々に退潮してしまったので、「学歴が一種の身分的指標に転化する」という矛盾したような現象が起きた。

日本では、

  • 近代化が急速に進んだので「熟練工」の技術があまり意味を持たなかった
  • 士族が早々に退潮したので、「身分」と「学歴」の対立が起こらなかった

ため、秩序(等級)を正当化する上で唯一機能したのが「学歴」だった。それと「任官補職」の制度も組み合わさり、「学歴」が「身分」に直結するような現象が生まれた。

官の仕組みを民間が真似たので、民間企業においても、「高い学歴(高い身分)」を持つ「社員」が、長期雇用かつ年功序列で、賃金と地位が上がっていく仕組みがとられた。ただ、「官」と同じ待遇で採用されたのは、「上級職員」にあたる近代教育を受けた大卒エリートのみで、当時の大多数の労働者に適用されたものではもちろんなかった。

50年代の時点までは、日本はまだ「官制の三層構造」というべき状態であり、日本型雇用の特徴とされる「社員の平等」はまだ存在しなかった。ひとつの会社の中に、身分を持つ「社員」と、身分を持たない「職工」がいて、社内に大きな格差があった。のちの高度成長期の労働運動によって、この格差が解消されていくことになる。

 

「第4章」のまとめ

第1章、第2章では、「大企業」と「中小企業」の「二重構造」が日本型雇用の特徴と述べたが、日本型雇用が完成する高度成長以前は、日本も「三層構造」だった。

一方で、日本の三層構造は、秩序が「職務」ではなく「学歴」と結びついていた。

まず、明治からの「官庁」や「軍隊」のシステムは、職務にこだわらず命じられたことをこなし、勤続年数で地位が上がっていく「任官補職」が原則だった。

近代化の最中の日本は、「官尊民卑」の傾向が強く、高度人材の取り合いを官庁と民間企業が行っていて、民間産業が「官」と同じ待遇を用意したことで、民間にも「任官補職」と同じ秩序が普及した。

急速に近代化を進めた日本は、「熟練工」と「士族(旧貴族)」が影響力を持たなかったので、「学歴」のみが秩序を正当化する役割を果たし、「学歴」が「身分」と直接結びつくような現象が起こった。

日本において、「学歴」が「身分」とすぐに結びつき大きな影響力を持ったというのは不可解な現象に思えるが、その背景には「急速な近代化」があり、学歴以外に秩序を正当化する仕組みが育たなかったとも言える。

 

以上が、『日本社会のしくみ』「4章」「日本型雇用」の起源のまとめになる。

「第5章」の「要約と解説」は以下。

小熊英二『日本社会のしくみ』第5章の要約と解説【慣行の形成】

 

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