小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』の「第5章」慣行の形成の要約と解説をしていく。
前回にあたる「第4章」の要約と解説は以下。

目次
第5章の概要
第5章では、「年功昇進」「新卒一括採用」「定期人事異動」「定年」「大部屋主義」「人物を評価する企業面接や学校推薦」といった、「日本型雇用」の特徴とされる慣行が、どのように形成されていったかをたどる。
第4章でも述べられたように、日本型雇用の各特徴は、「官庁」や「軍隊」の慣行を、民間企業が真似ることで普及した。とはいえ、官や軍が民間に影響を及ぼすこと自体は日本に限ったものではなく、どの社会でも起こることだ。
だが、日本の場合は、そもそもの「官庁」のしくみが、他国と異なる事情のもとに形成されてきた。
急速に近代化を進める必要があった日本においては、「官」の職務や権限が厳密に規定されず、大きな裁量が与えられることになった。それを真似した「民間企業」においても同じように、「職務」を明確化せず、「官」と同様に年功で昇進していく慣行が根付いた。
大卒が供給過多だったドイツと、大卒を強く必要としていた日本
1887年から始まった日本の官僚の試験任用制度は、プロイセン(ドイツ)の制度が参考にされた。そのため、日本とドイツの官僚制は類似点も多い。一方で、当時の日本は近代教育を受けた人材が不足していたのに対し、ドイツではすでに高度人材が供給過多になっていたという違いがある。
ドイツにおいて、官吏のポストは限られた特権であり、採用される平均年齢は非常に高くなっていた。ポストに欠員が出たときに採用するという形だったので、「新卒一括採用」のようなことは起こりようがない。それに対して日本は、増加する行政需要に対して早急な人材供給が必要だったので、帝国大学の卒業生なら無試験で採用していたほどだった。
行政職のための試験が整備されたものの、人材不足を早く満たしたかった省庁は、無試験の帝大卒業生を採用するほうを好んだ。試験合格者は年に一度の試験を待たなければ採用できないが、試験が免除されている帝大卒業生は随時採用できたからだ。やがて、帝国大学卒業生で省庁の採用がほぼ埋まるようになっていき、1891年には試験そのものが中止になった。
「試験」は形骸化し、帝大卒業という学歴さえあれば実質的に無試験で官僚に採用されるようになったのだが、このような状況の背景にあったのは、「行政事務の拡大に対して、大学卒業生が圧倒的に不足していた」という日本ならではの事情だった。
なお、当時の日本では、出自を問わず帝大生になれる可能性が広がっていて、その意味では、同時代のドイツよりも明治の日本は平等な社会だった。その一方で、帝大を卒業しさえすれば、近代教育を受けた貴重な人材として、隔絶した特権階級になることができた。
「年功昇進」「新卒一括採用」「定期人事異動」
「年功昇進(年功序列)」と「新卒一括採用」と「定期人事異動」は、日本型雇用の特徴とされるが、これらはまず近代日本の「官庁」において、慣行として確立された。
第4章で説明した「任官補職」の原則では、基本的には勤続の長さによって等級が上がっていく「年功昇進」になる。
明治期には、官吏の俸給費が国家予算を圧迫するようになったので、国家は「昇進制限」を設けようとした。昇進制限の規定は、何度かの変更を経たあと、1895年の改正で「2年ごと」に決まった。昇進するためには、最低でも2年間は同じ役職に留まらなければならないルールが出来たのだ。これは、必ずしも2年経てば昇進させることを約束したものではなかったが、官庁において、「2年ごとに役職を異動しながら一つずつ官等を上げていく」という昇進パターンが慣行として根付いた。これは実質的に、「年功昇進と年功昇給」の定着だった。
帝国大学を卒業して官僚になった者たちは、2年ごとに異なる職務に就きながら、「年功」によって等級を上げていった。
「2年ごとに昇進」の制度が定着すると、官吏として昇進するには新規学卒で任官されるほど有利になった。高い年齢で官吏に就職しても、昇進には年齢的な限界が来てしまう。そのため、日本のような「年功昇進」の慣行が根付くと、実質的に「新卒採用」を前提とした制度となっていく。
また、「新卒者の一括採用」は、「定期的な人事異動」に繋がる。毎年新しく入ってくる新規採用者のための職務を空けるには、それ以前にその職務を担っていた者を異動させる必要があるからだ。ある組織が、新卒の一括採用を一定期間続けると、定期的に人事異動を行わなければならない状況が出来あがる。
つまり、「年功昇進」の定着は「新卒一括採用」に繋がりやすく、「新卒一括採用」の定着は「定期人事異動」に繋がりやすい。
- 「官」に特有の慣行である「年功昇進」
- 急な近代化という事情に加え、「年功昇進」が定着したがゆえの「新卒一括採用」
- 上の帰結としての「定期人事異動」
が、まずは日本の「官庁」において定着し、のちに「民間企業」にも波及した。
軍隊から来た「定年」
総力戦は、多くの国民が軍隊を経験するので、軍隊の影響が民間に及ぶのも一般的に起こりうることだ。
日本の軍隊用語で現在まで残っているものに「現役」があるが、「定年」もまた軍隊から来た言葉だ。戦前には「停年」と呼ばれていたが、現在は「定年」が定着している。
官庁では「2年ごとの昇進制限」があったが、軍隊でも同じような慣行があり、ある官等で一定以上の年数を過ごさなければならない決まりが「停年」と呼ばれていた。
「停年」と並行して、一定の年齢を超えた者を軍から退役させる制度が作られた。体力を要求される軍隊では「年齢定限」を定め、階級ごとに一定の年齢に達した者を退役させていた。年齢によって退役した者には恩給(退職手当)が支給される。高齢労働者を排出し、その代わりに老後保証のための退職金を与えるという制度だった。
一定年齢に達した者を解雇する制度は、軍の官営工場や、民間企業にも広まった。現在にも続く「定年制」は、陸海軍の恩給法に端を発していて、老後のための退職金を与えるのは「企業の社会的責任」ともされていた。
「定年」は、軍隊の制度にルーツを持ち
- 高齢労働者を排出する企業の能率保持
- 退職後の手当を与える企業の社会的責任
として定着した。
「一定年齢に達した者を強制解雇するが、その代わり、これまでの忠義に報いる恩給を与える」という軍隊の制度が、民間企業にも適用された結果なのだ。
官僚制度の国ごとの違い、日本の官僚の裁量の大きさ
「官吏(役人)」の制度も、国ごとに特色がある。日本の官僚の特徴は、「大きな裁量を与えられていること」だが、他国ではまた異なる事情があった。
アメリカの場合、連邦政府の官僚は、大地主や大事業家などの富裕層がコネ採用などで登用される場合が多かった。それに対して世論の批判が高まり、能力のない者の不正な採用への対策として「職務分析」が導入されることになった。
アメリカでは、「職務分析」によって分類された職務ごとに、ポストが空いたときに採用される仕組みが整備された。また、官僚でありながらも「同一価値労働、同一給与」を原則とし、勤務成績が基準に達しない者は免職される原則もあった。そのため、アメリカは現在でも、官僚の出入りが頻繁に起こり、官庁と民間の人材交流が盛んな国になっている。
日本が近代化にあたって参考にしたドイツやフランスは、アメリカのような職務給ではなく、官僚制の内部で昇進させていく制度だった。だが、先に述べたように、大卒が足りていたドイツにおいては、飽きポストが出れば欠員補充される形だった。急ごしらえで近代化を進めた日本だからこそ、同時に大卒を大量に雇い入れるような「新卒一括採用」のようなことが起こったのだ。
また、プロイセン(ドイツ)においては、君主と官僚は対立関係にあった。官僚の立場は、長らく貴族たちが占めていて、官職は利権になっていた。それに対してプロイセンの君主は、官僚たちの裁量を狭め、「職務内容と権限」を明確にすることで、官僚が力を持ちすぎることを防ごうとした。
ドイツにおいては、官僚制と王政の緊密関係が、「職務および権限の明確化・文章化」を促したのだ。
一方で日本の場合は、「職務」が明確に定義されず、官僚に大きな裁量が任されることになった。
第4章で述べたように、日本は貴族(武士)が早々に退潮したので、「学歴」が秩序を正当化する役割を担った。日本において「学歴」は、「能力の証明」であると同時に、「一種の身分的指標」にもなった。
- 急速に近代化を進める必要があった
- 官庁を監視しようとする対抗権力がなかった
- 「学歴」の正当性が非常に強かった
などの理由で、他国では「職務内容と権限を明確にする」という形で官僚に対する制限を課す動きがあったのに対して、帝大を卒業した日本の官僚たちはそれを受けなかった。
日本においては、「職務」が厳密に定義されず、官僚に大きな裁量が与えられたのだ。
「大部屋」という特徴
日本の官庁や企業の特徴として挙げられがちなものに、仕切りを設けない「大部屋」がある。
アメリカやドイツなどの官庁や企業では、それぞれの職員が「個室」を持っているのが一般的だ。一方で日本の働く環境には、「個室」がないことが多いとされている。
「個室」がない環境もまた、日本の「官庁」が発端で、それが民間にも波及した。
コネ採用に反対する世論の高まりから「職務の明確化」が要求されたアメリカや、君主と対立しながら「権限」が制限されたドイツと違って、日本の官僚は職務と権限が曖昧だった。その特徴が「大部屋」に反映されている。
著者は以下のように述べる。
建造物とは、それを利用する人々の意識を、目に見える形に表したものだ。明治初期の建造物に個室が存在しなかったとしても、各職員の職務が明確化され、各自に個室が必要だという意識が形成されれば、個室がある建物は作られただろう。現在でも「課」や「室」を単位にした大部屋の建物が使われているのは、「課」や「室」までしか所掌事務を定める必要がないという意識の反映にほかならない
日本の官庁や、多くの企業において、「個室」は作られなかったし、必要に応じてあとから作られることも少なかった。
明治の日本は、行政組織が急ごしらえで、管轄の行政事務が人を集めた後に法文化されたくらいだった。そして、「課」という単位までは管轄の細分化がされても、そこから先の職務内容や責任範囲などは定められなかった。
建造物の間取りを見ても、「課」の単位までは部屋が分かれているが、「課」の内部では仕切りのない大部屋になっている。
「大部屋」の単位となっている「課」は、大まかな枠組みを決めた後は任されている状態で、「一種の独立王国」のような大きな裁量があった。
日本の働き方の特徴とされる「大部屋」には、職務を細かく規定せず、責任者に大きな裁量を与えるという制度が反映されている。
「官庁」の性質が違った
第4章では、「官」の秩序が、日本の民間企業に波及し、影響力を持ち続けたことについて述べた。
「官庁」や「軍隊」は、上から命じられた仕事を忠実にこなす必要がある。日本の民間企業には、企業を横断する「職務」ごとの組合が根付かず、官庁の近代的な秩序をそのまま取り入れたところが多かった。そのため、日本の民間企業には「官庁の制度」との類似点が他国より多く見られる。
もっとも、「官庁」や「軍隊」の制度が「民間」に波及することは日本に限ったものではなく、近代化の過程において、どの国にも一般的に起こったことだ。だが、先に述べてきたように、そもそもの「官庁」の性質が、国ごとに大きく異なるのだ。
例えば、ドイツの官僚制は
- 専門的訓練と分業
- 明確な権限
- 文書主義
を特徴とする。
一方で日本の官僚制は
- 職務を限定しない大部屋
- 新卒一括採用
- 定期的人事異動
を特徴とする。
急速な近代化が必要だった日本においては、急ごしらえの慣行が官庁に定着し、それは現在のしくみにまで影響を与えている。
日本以外の国では、「官庁の裁量を削ぐ動き」や、「職務分析」、「職種別労働運動」などが、官僚制の影響を弱める働きをした。それが希薄だった日本では、「官」や「軍」のしくみが、より露骨に企業に影響を及ぼした。
「成績」と「人物」
「職務が明確でないなら、何を基準に昇格を決めるのか?」という問題が出てくるが、戦前の官庁では、大学時代の成績や、文官高等試験の順位が、昇進と強い関係にあった。「学歴」に加えて、学校時代の「成績」が、秩序の正当性にとって大きな影響力を持っていた。
新卒一括採用が官庁から民間企業に広まったときも、卒業時の成績が重視される傾向があった。ただ、次第に「成績」よりも「人物」を重視した選考が行われるようになっていった。
- 大正期の教育改革により、成績評価が点数制ではなく、「優良可」などの段階方式で行われるようになった
- 企業が新規学卒者を雇用する経験を積むなかで、成績優秀者とビジネスの有能さに関連が強いわけではないことに気づいてきた
などといった事情から、企業はしだいに「成績」ではなく「人物」を重視するようになり、それゆえに大学教授からの紹介を重視していた。
大学令によって私立専門学校が「大学」として認可され、大卒が増加すると、教授の紹介によるスクリーニング機能はそれほど絶対的なものではなくなった。そのため、企業はそれぞれの基準で「人物」を見定める面接を行うようになった。この仕組は、現在の「人物」を評価される就職活動まで続いている。
なお、企業が自社面接を行うようになったあとも、学校のスクリーニング機能は大きな影響力を持ち続け、多くの企業が学校に人材の紹介を依頼したし、学校側にも生徒の就職先の面倒を見るという慣行が根付いた。
また、実は、戦前の1920年代から30年代には、はやくも大卒の数が増えすぎて就職難が起こるようにもなっていた。1929年には「大学は出たけれど」という映画が作られるほどだった。
日本型雇用の「学歴に対応した三層構造」は、大卒の人数が増えてしまうと崩壊する。この問題は、戦後に起こる進学率のますますの上昇によって本格化するが、戦前にもすでに「大卒の過剰」が問題になっていた。
(大卒の増加により「三層構造」の秩序が崩壊していくことについては、第7章において詳しく述べられる。)
まとめ
「年功昇進」は、日本企業だけのものとは言えず、どの社会でも「官」や「軍」では一般的に見られるシステムだ。日本は他国と比べて、「国に忠義を尽くし、その見返りとして、勤続期間に伴って官等や階級が上がっていく」という「官」や「軍」の仕組みが、「民間企業」に強く影響を与えた。
日本は、ドイツなどの官僚制を参考にしたが、「行政需要に対して近代教育を受けた人材が不足していた」という独特の事情があった。そのため、帝国大学の卒業生を官庁が一気に採用する「新卒一括採用」が起こり、それが「定期人事異動」にも繋がった。
官僚の影響力を削ぐための「職務と権限の明確化」が起こったアメリカやドイツと違って、日本の官庁は「課」ごとに大まかに区切られた上で、大きな裁量を与えられていた。その制度は、個室を持たない「大部屋」に反映されている。
官庁の慣行が民間にも波及することで、民間企業にも「新卒一括採用」「定期人事異動」「大部屋」が根付いた。
「職務」で評価される仕組みではなかったので、誰が昇進を決めるために、学生時代の「成績」が大きな影響力を持ったが、やがて「人物」が評価されるようになっていった。
企業は独自に「人物」を評価する面接を行うようになったが、「学校の推薦」によるスクリーニング機能にも頼っていた。
以上が、『日本社会のしくみ』「5章」慣行の形成のまとめになる。
「第6章」の「要約と解説」は以下。

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