小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』の「第6章」民主化と「社員の平等」の要約と解説をしていく。
前回にあたる「第5章」の要約と解説は以下。

目次
第6章の概要
第6章では、戦後の民主化と労働運動の過程で、日本型雇用の特徴である「社員の平等」がどのように確立され、その後どうなったかをたどる。
日本の労働運動は、欧米のように業種ごとの待遇改善を要求するのではなく、「同じ社員なら同じ扱い」という形で「社員の平等」を追求した。
「社員の平等」が確立された後は、「社員の平等」の内側と外側との格差が問題視されるようになった。
「社員の平等」によって「日本型雇用」が完成したが、そのパッケージは、欧米の「職務給」の体制とは馴染まないものになっていた。
総力戦体制による一体感の高まりが、「社員の平等」を要求した
第5章では、「年功昇進」「新卒一括採用」「定期人事異動」「大部屋」といった慣行の形成について述べてきた。ただ、日本型雇用の核となる「社員の平等」は、すぐに達成されたわけではなく、戦後の50年代から60年代の高度経済成長時代に達成され、それによって実質的に「日本型雇用」が完成した。
もっとも、戦後の運動のみによって「社員の平等」が成り立ったのではなく、それ以前からの前提が積み上がった結果として達成されたのだ。
戦前における「総力戦体制による格差解消」は、「社員の平等」の下地を作る役割を果たした。
「社員の平等」がまだ存在しない日本の企業においては、たとえ同じ会社に所属する者であっても、「職員」と「職工」の待遇は、大きく離れたものだった。
第二次世界大戦の軍需景気は、労働力不足により、労働者の待遇改善をもたらす傾向にあった。日本では、戦時中に、「職員」と「職工(現場労働者)」が一体で増産に励むべきだという主張が高まった。このような状況のなか、例えば日立製作所日立工場では、1939年に「職工」という名称が「工員」に改められた。とはいえ、現場の実態はそれほど変わらず、工員の月給制が奨励されてもいたが、実際に導入された企業は限られた。
日本の総力戦は、インフレをもたらし、格差を平準化した。戦時中のナショナリズムの高まりは、「運命共同体意識」を育み、企業内の身分差別の批判に繋がった。
戦後、「労働組合」を組織した「工員」たちは、「社員の平等」を要求する運動を行った。つまり、「給料を上げて欲しい」という形ではなく、「職員と同じ扱いにして欲しい」という形で、給料や休日の規定に関して、「工員」を「職員」に近づけることを求めた。
欧米の「三層構造」では、「職員」は「職員」、「工員」は「工員」で、それぞれの業種の待遇を良くしようとする運動が起こった。一方で日本では、同じ会社の中の「職員」と「工員」の待遇を平等にしようとする運動が起こった。
日本においては、これまで述べてきたように、「職務」ごとの労働運動の動きが弱かったのに加えて、「戦争」による共同体意識が、「社員の平等」を求める運動に繋がった。
「生活給」という発想
「職務」が明確に決まっているシステムの社会、例えばアメリカでは、
- 工員は時間単位で労働を売っているので同一労働同一賃金(日給や週休が一般的で、残業代が付く)
- 上級職員は時間単位で測れる労働をしていないので、勤務時間などは決まっていない
というのは筋が通っている。
一方で、「職務と待遇が対応していない」日本の労働者にとって、時給か月給か、出勤時間や退出時間の裁量があるかどうかの違いは、単なる差別としか映らなかった。
そのため日本では、労働運動が、「職員」と「工員」の区別を廃止する「社員の平等」という形で起こった。そのような中で、「どういう基準で賃金を決めればいいか」となったときに出てきたのが「生活給」だった。
「生活給」は、「生存に必要なだけの賃金を支払うべき」という発想で、それが提唱された理由には、食べることが最優先だったという敗戦後の事情がある。「生活給」の発想で、「家族持ちの中高年に高賃金を払うべき」となり、年齢と家族数が賃金に対応した。
「生活給」は、「年功序列」に影響を与えた発想ではあるが、とはいえ、「同じ企業での勤続年数」と連動しているわけではなかった。勤続年数の重視が確立されるのは高度経済成長期で、「生活給」はあくまで養う家族の多い中高年に高い賃金を与える発想だった。
- 職務が明確でないゆえに、「社員の平等」が要求された
- 生存に必要なだけの賃金を支払うべきとされた
が、「正社員ならば平等な待遇が与えられ、年齢が高いほど高賃金になる」という日本型雇用のベースになる。
「生活給」は、その発想が出てきた当時は、現在のような「同じ会社の勤続年数」と関連したものではなかったが、「男性正社員の中高年が、家族を養えるほどの賃金をもらう」という実態には影響を与えてきた。
どのような「紛れのないルール」を勝ち取ったか?
賃金や労働時間などの待遇は、「経営者」と「労働者」の交渉によって決まっていく。
- 「経営者」からすれば、「労働者」の給料や仕事内容や勤務先を、自分の都合で自由に変更できたほうが望ましい。
- 「労働者」たちは、「経営者」に対して自分たちの待遇を守るために、客観的なルールを要求する。もしルールが曖昧であれば、「経営者」は自分に都合の良い人事査定や人事配置を行って、「労働者」を好き勝手できるからだ。
労働研究では、労働側が経営側の裁量を制限するために要求する客観的で明示的な決まりを「紛れのないルール」と呼ぶ。
人種差別や性差別に関心の強いアメリカの労働運動では、「職務内容や審査基準を明示しなければならない」という「紛れのないルール」が経営者に要求され、実現した。その結果、職務記述書にない労働や人事異動をさせるのは違法だし、客観的でない基準で仕事内容を評価することは禁止されている。
戦後の日本人たちは、熱心に労働運動を展開してきたし、他国の労働運動と同じように「紛れのないルール」を志向していた。ただその内容は、「職務の明確化」ではなく、「年齢と家族数」だった。
戦後日本の労働者たちが掲げた「年齢と家族数」、つまり「養う家族がいる者を雇うなら相応の給与を支払うべき」というルールは、現代的な基準では差別的とされるかもしれないが、経営者側の都合で変えることのできない「紛れのないルール」だったし、当時においては、中途採用者が不利にならない企業横断的な指標ですらあった。
「年齢と家族数」は、のちの運動によって「勤続年数」に変化していくのだが、戦後すぐの段階においては「生活給」の発想が「紛れのないルール」として要求された。
「職務の明確化(同一労働同一賃金)」であれ、「生活給(年齢と家族数で決まる賃金)」であれ、労働者が経営者の裁量を制限するために「紛れのないルール」を労働運動と交渉によって勝ち取ったという点においては、日本も他国と変わらない。
どこの国の労働者も、「紛れのないルール」を要求しようとする。ただその内容は、それぞれの国ごとの状況により異なった展開を見せた。
労働争議の末に「社員」の権利が「職工」レベルまで拡張された
1949年の労働組合法の改正により、敗戦後の労働協約の多くが無効になったので、経営側は人事、昇進、解雇などの決定権を取り戻そうとした。これに対して労働者たちが強く反発し、50年代には大規模な労働争議とストライキが相次いだ。長期の労働争議は、数ヶ月から1年近くもの操業停止を招くこともあり、企業に大きな損失をもたらした。
一連の争議を経て教訓を学んだ経営側は、労働組合と妥協する道を選んだ。
そして、
- 解雇に慎重であること
- 定期的な昇給を行うこと
という、それまでは「職員」のみの権利だったものが、「工員(現場労働者)」にまで拡張された。
労働争議によって「工員(現場労働者)」たちが勝ち取ったのは、同じ会社の「職員(上級職員)」と同等の扱いをされることだった。
例えば、1953に「日本軽金属」が導入した「資格制度」は、旧来の職員である「事務員」や「技術員」も、旧来の職工である「工務員」も、並列して資格を付与し、参事まで昇進できる可能性を制度的に設けた。
実際のところは、中卒者は五級、高卒者は四級、大卒者は二級から始まり、「五級工務員」で採用された者が「参事」まで昇格することは勤続年数的に難しく、大卒者が圧倒的に有利であることは変わりなかった。
それでも、形式だけとはいえ「職員」と「工員」が同等であるような資格制度が導入されたこと自体が大きな変化であり、「現場労働者(職工)」にまで「年功による昇進と昇給」が拡張されたことを意味した。
「能力は勤続年数に比例する」という落とし所
「同一賃金同一労働」や「職務能力を重視すべき」という発想や要求が、日本の労働者や経営者になかったわけではない。
ただ、「能力」をどうやって測定するかの客観的な基準を作るのは簡単なことではない。「職務」が明確に規定されていないならばなおさらである。
労働者と経営者の労使交渉の中で、労働者側は「勤続年数」を評価に含めて欲しいと主張した。その当時の多くの労働者たちにとって、戦前では一握りの職員のみに限られていた「年功給」は、わかりやすい平等の指標だった。そのため、多くの労働者が「年功によって上がっていく賃金」を求め、そのために持ち出したのが「能力は勤続年数に比例する」という考え方だった。
経営者側にとっても、「勤続年数」という評価方法にはメリットがあった。「勤続年数」は、年齢と家族数を基準にする「生活給」とも類似していたが、「生活給」が企業横断的であるのに対して、「勤続年数」は企業を変えると効果を失う。
「勤続年数」はたしかに熟練度と相関するし、労働者を企業に定着させやすくする点で好ましかった。
「能力査定のための客観的なルールを作る」よりも、「同企業での経験年数が熟練度に比例する」という過程において、「勤続年数を評価する年功序列賃金」を全社員に適用するというのが、労働者と経営者の双方にメリットのある落とし所だった。
- 戦前の職員の年功型俸給が、戦後の労働者たちのめざすべき指標として存在し、戦後の労働運動で「社員の平等」が要求された
- 敗戦後の労働運動における「生活給」の発想が、年齢による賃金をもたらした
- 経営側と労働側の争議の結果、「勤続年数を能力評価に含めた年功賃金」という妥協と決着が成立した
という要素が重なり、戦後の日本企業の正社員に「年功給」が浸透していった。
いくつもの影響が合流して、「同じ企業に勤め続けると年功序列で待遇が上がっていく」という日本の正社員給与のあり方が形成され、この基本体系は現在も継続している。
「カイシャ」と「ムラ」の二重構造
以上まで、戦後の労働者たちが、労働運動などを通して「勤続年数による年功賃金」を勝ち取ったことを述べた。しかしこの制度は、特定の企業の勤続年数に左右される側面があり、「倒産しにくい大手企業に所属できた者」と「そうでない者」との格差を生むようになった。
「社員の平等」が確立されたからこそ、「社員の平等」の内部と外部との格差が目立つようになったのだ。
第1章で述べたが、大企業と中小企業の格差は、50年代半ばにはすでに問題として意識されるようになっていて、学問的には「二重構造」と呼ばれていた。
当時の経済学者たちが論じた「二重構造」論によると、日本は近代化の途上であるがゆえに「二重構造」が生じていると考えられていた。日本の労働者は教育程度が低く、作業方法や仕事の方法を経験で覚えていくしかないために年功賃金という制度になっているのであって、教育程度が上がれば作業の標準化が進み、「二重構造」も解決されるだろうと問題を捉える論もあった。
しかし現実は、むしろ「二重構造」を強化する形で制度化が進行した。日本の社会保障制度が「二重構造」を強化したのだ。
日本の社会保障は、まず「大企業従業員」をカバーする制度が作られ、後にそれ以外をカバーする制度ができた。社会保障制度は、「大企業正社員」と「それ以外」の分断を強める働きをした。
第1章では、「大企業型(カイシャ)」と「地元型(ムラ)」の類型を論じた。
60年代から70年代に整備された社会保障制度は、当時の状況をより強固にするように機能したが、それが現代では問題を生むようになっている、という話を述べた。
日本の「二重構造」は、「カイシャ」と「ムラ」の格差とも言えるが、もともと「ムラ」に実態があったわけではない。
「日本型雇用」のしくみが完成したあと、その状況を前提として、社会保障が整備された。
社会保障制度が「カイシャ」を前提とし、後にそれ以外をカバーしようとしたことで、「カイシャ」以外の残余である雑多な人々が「ムラ」として括られるようになった。
伝統的な実態としての「ムラ」があったわけではなく、「カイシャ」という権利が制度的に強化されていった過程で、その内側に入れなかった人たちが「ムラ」という形で類型化されていったのだ。
西欧型社会を志向する動きもあったが
「日本の雇用慣行は近代化に遅れによるものだ」という論調が強かったほど、当時の日本にも「欧米のような働き方を目指そう」という発想があった。「職務給」や「横断的労働市場」といった西洋型社会の働き方を構想する人は少なくなかった。
しかし、日本型雇用はそれぞれが連動したパッケージになっていて、それが完成したあとに、欧米基準のやり方を部分的に取り入れることは難しかった。
- 例えば、「職務を限定しなくてよい」慣行は、「社員を簡単に解雇できない」とセットで成立する。
- 逆に言えば、「職務を明確にしなければならない」慣行は、「その職がなくなれば社員を解雇できる」とセットで成立する。
「日本型雇用」のパッケージの場合、経営側の都合で社員の職務や職場を変更することができるが、その代わり社員のクビを簡単に切ることはできない。
日本の経営者たちは一時期、「職務給」と「横断的労働市場」、「同一労働同一賃金」を称賛したが、そこには中高年労働者の賃金を下げ、解雇を進めたいという動機があった。それらは労働者たちから受け入れられずに頓挫した。
「日本型雇用」として定着した制度・慣行は、雇用・教育・社会保障などが連動したパッケージになっていて、部分的に取り替えたりということは難しかった。
まとめ
欧米の労働運動では、「工員」たちは、「自分たちの業種」の待遇を良くするための運動をすることが多かった。
一方で、日本の労働運動では、「工員」たちは、「(戦前の)社員と同じ待遇を求める」という形で運動を行った。
その背景には、
- 総力戦の影響で、インフレによって格差が平準化され、運命共同体意識が高まっていた
- 戦前の特権階級だった「社員」の待遇が、労働者たちにとって目指すべき目標として存在した
- 職務と待遇が対応していないので、時給制か月給制かの違いなどが単なる差別に映った
ことが挙げられる。
また、戦後は生活が困窮していたので、養う家族が多い者ほど賃金を与えるべきという「生活給」の発想が生まれた。これは後の「能力評価」の動きと、労働運動による交渉の結果、「同じ企業の勤続年数に比例した賃金」という形で制度化された。
これらの経緯によって、「正社員は平等で、年功によって賃金が上がっていく」という、「社員の平等」を重視した日本型雇用の慣行が形作られていった。
「社員の平等」が成り立ったことによって、その内側と外側で大きな格差が生まれた。これは「二重構造」と呼ばれ、議論されてきた。
「二重構造」は、時代が進んでも解消されず、むしろ政府の社会保障政策によってより強固な枠組みになっていった。
日本の労働に関する議論や運動の中で、欧米のような職務給などを志向する動きもあったが、「日本型雇用」のシステムはすでに、教育、雇用、権利、能力評価、昇給、賃金、社会保障などが連動したパッケージになっていたので、他のやり方を部分的に採用しようとしても成功しなかった。
以上が、『日本社会のしくみ』「6章」民主化と「社員の平等」のまとめになる。
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