小熊英二『日本社会のしくみ』第7章の要約と解説【高度経済成長と「学歴」】

小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』「第7章」高度経済成長と「学歴」の要約と解説をしていく。

前回にあたる「第6章」の要約と解説は以下。

小熊英二『日本社会のしくみ』第6章の要約と解説【民主化と「社員の平等」】

「第7章」の概要

第6章では、戦後の労働者たちが、労働運動によって「社員の平等」を要求したことについて述べられた。

「社員の平等」が成り立った背景には、労働運動に加えて、「進学率の上昇」が大きなファクターとしてある。第7章では主に、高度経済成長期の進学率の上昇が企業に与えた影響について述べられる。

進学率が上昇すると、「大卒・高卒・中卒」の比率が変わるので、企業は構造的な変化を迫られる。

  • 上級職員に、少数の大卒
  • 下級職員に、そこそこの高卒
  • 現場労働者に、多数の中卒

といった、旧来の構造では立ち行かなくなり、「全員が平等な社員で、年功昇進していくが、大卒でも現場労働レベルの職務に配属されることがある」という形の、日本型雇用が出来上がっていった。

日本型雇用では、社員の能力評価として「職能資格制度」が掲げられた。これは客観性のある企業横断的な指標ではなく、「社内のがんばり」と「勤続年数」を重視する曖昧な評価基準だったが、社員からはそれなりに支持されるやり方でもあった。

 

「学歴に対応した三層構造」は進学率が上昇すると崩壊する

第6章で述べたが、戦後の労働運動は、同じ企業に所属する者に同じ待遇が与えられる「社員の平等」を追求した。それによって、まだ日本社会に残っていた「三層構造」が崩壊し、「社員の平等」を重視する日本型雇用が達成されたが、「社員の平等」が適用される内部(正社員)と、その外部の格差という「二重構造」が問題視されるようになった。

「三層構造」を崩壊させて「社員の平等」を推し進めた「労働運動」以外の要因として、「進学率の上昇」が挙げられる。

進学率の上昇は、日本社会に特有の「三層構造」を崩壊させるように働いた。

第2章第4章でも述べたが、

  • 欧米は「職務に対応した三層構造」
  • 日本は「学歴に対応した三層構造」

という違いがあった。

三層構造が職務内容と対応している場合、社会が高学歴化しても、三層構造自体は崩れない。応募に必要な学位を繰り上げらればいいからだ。

「職務に対応した三層構造」は、以前は高卒が条件だった職を大卒に、以前は大卒が条件だった職を院卒に、という形で高学歴化に対応した。職務と待遇が結びついているので、賃金はそのまま、応募条件を引き上げることもやりやすい。

一方で、「学歴に対応した三層構造」の日本にあったのは、「上級職員は大卒、下級職員は高卒、現場労働者は中卒」という慣例だった。職務と関係なく、学歴と年齢で賃金を決めるのが日本の秩序であり、この場合、まったく同じ仕事をさせても、高学歴者を雇うほど賃金コストが高くなってしまう。

日本の「学歴に対応した三層構造」は、職務と対応せず、「少数の大卒、そこそこの高卒、多数の中卒」を前提として慣例的に学歴と対応していたものだったからこそ、高学歴化が進むことで維持できなくなってしまう。

戦後、日本の民衆は、学歴で身分が決まってしまうような秩序に反発しながらも、自分の子供には高い学歴をつけさせようとした。

そして、高校進学率や大学進学率は急上昇していった。

 

日本の労働者が理解した戦後民主主義

労働史の研究者たちは、新卒一括採用や終身雇用などの「日本型雇用」のパッケージが完成した時期を、60年代と位置づけることが多い。

実際に、戦前には「官庁」や大企業の「職員」のみに適用されていた「年功昇給」が、社員の多数派にまで広まったのは、60年代になってからだ。

とはいえ、60年代に制度が完成する以前から、日本の民衆たちは、「新卒一括採用」「終身雇用」「年功昇給」などの特権的な待遇を、戦前の官僚や職員が享受していることを知っていた。民衆たちは、戦後の運動において、かつての社会の上位層の慣行が自分たちにも適用されることを求めた。

著者は、戦後の民衆が、戦前の「上級職員」と同じ扱いを求めたことを、「日本の労働者が理解した戦後民主主義だったかもしれない」と述べている。

労働運動の結果、実際に「社員の平等」が形作られていったが、それは構造的な問題を抱えていた。「上級職員」の待遇は、多くの「下級職員」や「現場労働者」を抱えていたからこそ成り立っていたものであり、全員にそれが適用されることを想定したものでは決してなかった。

戦前にはすでに、大卒の数が増えすぎて就職難が社会問題になったが、戦後の進学率の上昇は、制度そのものを揺るがす変化をもたらした。

 

高校進学を抑制しようとした企業と、抵抗した民衆

高校進学率が急上昇しても、多くの企業は急に方向転換できたわけではなく、しばらくは数少なくなった中卒者の採用に固執していた。

60年代には、大企業は賃金コストの低い中卒を募集し、中小企業がやむを得ず高卒を雇ったので、「大企業ほど低学歴」という現象さえ見られた。「教育程度の高い者が企業に忌避される」という、経済学や教育学の常識に反することが起こっていたのだ。

当時は、生産現場での技術革新が進んでいて、機械のマニュアルを読みこなす知的能力を持つ高卒が有利とも言われていたが、旧来の「三層構造」の秩序のほうが影響力のある時期がしばらく続き、大企業は高卒よりも賃金コストの低い中卒を好んで採用していた。

「職務に対応して賃金が決まる」のであれば、低学歴でも高学歴でも賃金は同じであり、より高学歴のほうが好んで雇われた可能性が高い。しかし、「学歴と待遇が直接連動している日本の雇用秩序」の場合、高卒を雇ったなら、中卒とまったく同じ仕事をやらせた場合でも、より高い給料を支払わなければならなかった。

企業は、進学を抑制するよう政府に働きかけ、また汎用的な教育を受けた者ではなく、現場労働者として働くことができる実学課程を卒業した者を欲しがった。これを受けて文部省は、工業課程、農業課程、商業課程と、実学課程の学校を増設する方針を定め、60年代からは各地で職業学校が新設された。

だが、進学を抑制し、実学を重視しようとする企業と政府の動向に、民衆は激しく反発した。「当時の民衆にとって、子弟を進学させることは夢であり、それを抑制するなど許しがたいものと映った。子どもたちも、親の希望を反映して、燃えるような進学熱を抱いていた」と著者は述べる。

日教組、母親大会、総評などの団体が「高校全入運動」を行い、1962年には「高校全員入学問題全国協議会」が結成され、幅広い支持を集めた。「高校全入」は当時の強力なスローガンとなっていた。

民衆の進学志向が強まるほど、実学課程には優秀な生徒が集まりにくくなった。この結果、大手企業も、高卒者を作業員として採用せざるを得なくなっていった。

「高校全入」の運動は成功した。しかし、民衆が、高卒の学歴さえあれば「高卒が増える以前の高卒相当の職務と待遇」が手に入ると期待しがちだったのに対して、実際には現場労働者としての仕事がほとんどだった。

進学率が増加しても、高い学歴に見合う仕事の比率は同じだけは増えないからだ。

 

大卒の急増がもたらした社会問題

高校進学率と並んで、大学進学率も大きく上昇し、社会構造に変化を与えた。

戦後すぐに新制大学への移行が始まり、多くの師範学校や高等専門学校が「大学」に昇格した。大卒の数は増えたが、大企業は限られた有名大学の学生のみを採用していたので、有名大学に入学するための競争が激しくなった。

60年代からは、事態が本格的に変化した。58年までは、大学進学率が8%に過ぎなかったが、62年に10%に達し、70年に17.1%、75年には27.2%と急上昇していった。なお70年代は人口の多いベビーブーマーの世代のため、率以上に学生数が増大していた。

増加した大学のほとんどが、新設の私立大学だった。

企業側は、急増した大学のレベルには「ばらつき」があるとみなしていたが、採用においてはすべての大学生を一律に処遇しなければ学校差別だと批判されかねなかった。

結局のところ、「大卒・高卒・中卒」の「学歴に対応した三層構造」は崩壊した。企業は大卒全員を「社員」として迎え入れたが、その代わり、従来は中卒や高卒が就いていた職務に大卒を配置することになった。

大卒卒業者は、旧来の大卒と同程度の待遇を求めがちだったが、大学進学率が上昇したからといって大卒に見合う仕事が急に増えるわけではない。そのため、企業と学生の間に軋轢が生まれることが多くなった

日本の企業は、採用時に職務内容を告げず、応募者の期待とは異なる職務に配属することが多かった。この対応は、労働者の士気の低下と離職率の増大となって現れた。また、同じ「学歴(大卒)」であるにもかかわらず、「職員」相当の立場の者と「現場労働者」相当の立場の者に分かれる企業があり、このような処遇は大きな問題になることが多かった。

学歴で待遇が決まる秩序が慣行になっていた日本社会では、「同じ会社で同じ学歴(大卒)なのに待遇が違う」ことは、社会問題として捉えられることだったのだ。

 

日本型雇用の構造的弱点

進学率の上昇に伴い、学歴に見合うポストが足りなくなるのは、日本に限らず、どの社会でも起こる問題だ。専門的業務や管理的業務は比率が限られているからだ。

以前は低学歴者が就いていた職が、高学歴者によって代替されていく現象は、経済学や教育学では「学歴代替」などと呼ばれ、欧米ではそれが起こった。

「三層構造」が「職務」に対応していた場合、「学歴」が上がっても「三層構造」自体は崩れにくい。

それまでは

  • 上級職員は、「大卒」以上に応募資格
  • 下級職員は、「高卒」以上に応募資格
  • 現場労働者は、「中卒」以上に応募資格

だったものを、

  • 上級職員は、「大学院」以上に応募資格
  • 下級職員は、「大卒」以上に応募資格
  • 現場労働者は、「高卒」以上に応募資格

と、進学率の上昇に応じて応募資格を繰り上げれば、「職務に対応した三層構造」自体は変化しない。

ただこの場合は、高学歴化が加速してしまう問題がある。

例えばアメリカでは、1946年から72年までの間に、急激な高学歴化が起こったが、学歴別生涯賃金格差はほとんど変わらなかったという。全員の学歴が上がったからといって、そのぶんだけ全員の待遇が良くなったわけではないのだ。むしろ、待遇の改善が伴わないまま高学歴化が進んだ場合、学費を出せる家庭が有利なので格差が固定されやすく、若者が莫大な奨学金を背負うことなどが社会問題になる。

日本の場合、「大学院への進学が増える」という形の高学歴化は起こらなかった。

日本では、「上級職員=大卒を一括採用」という慣行が定着していたので、高学歴化のスライドは起こらず、「大企業に入りやすい有名大学への入試競争」や「大企業に採用されるための就職競争」が激化した。

以下、第2章でも出した図を再び出す。

 

日本企業は「社員の平等」を拡張したが、それは、「大卒」にかつての「高卒」や「中卒」相当の仕事を行わせることでもあった。

ただ、年功昇給によって、勤続年数が増えるほど管理的な業務が増えていった。「誰もが現場労働者や下級職員相当にあたる様々な職務をこなしながら、年齢によって上級職へとキャリアアップしていく」というのが、日本型雇用の働き方だった。

日本型雇用は、「社員全員が上級職に昇進しうる制度」でもあり、社員のモチベーションとモラルを維持しやすいという強みを持っていた。一方で、構造的な弱点を抱えてもいた。組織を拡大し続け、新卒社員を定期的に入社させ続けなければ、日本型雇用は破綻してしまうのだ。

日本型雇用は、

  • 上級職員は、勤続年数が長い社員
  • 下級職員は、勤続年数が中間の社員
  • 現場労働者は、勤続年数が短い社員

となっているが、この場合、組織を拡大させ続け、若い新入社員を入社させ続けなければ、システムを維持することができないという構造的な弱点がある。

「社員は平等で、職務を限定せず、年功で昇進していく」システムは、日本型雇用の完成形とも言えるが、「組織を拡大し続け、新卒を入社させ続けなければ成り立たない」という大きな問題を抱えてもいた。

以上のような、日本型雇用の構造的な問題とその顛末については、第8章で記述される。

 

職能資格制度

「年功序列」が基本的枠組みの日本型雇用ではあったが、「実力」や「成果」を評価しようとする動きは、経営者側からも労働者側からも当然のようにあった。

ただ、日本においての能力評価は、「職務」ではなく「職能」だった。

まぎらわしいが、「職能」という言葉は、「職務に対応した能力」ではなく、「一般的な職務遂行能力」を意味する。つまり、「特定の職務の専門性」ではなく、「どんな職務に配置されても適応できる汎用的な能力」が「職能」と呼ばれ、実力評価の基準となっていた。

ただ、「職能」を評価する客観的な指標があったわけではなく、基本的には、勤続年数に比例して「職能」が上がっていくとされるというのが実情だった。

また、「資格」と呼ばれる制度が多くの日本企業で使われた。

「資格」は、官庁や軍隊の階級システムの延長であり、「職務」とは別に存在する階級のような概念だった。例えば、「経営課長」や「営業部長」といった「職務」とは別に、「主事」や「参事」といった「資格」がつけられた。

「資格」の導入には、年功で社員を昇進させ続けるルールのために、形だけのポストを増やす必要があったという事情もあった。「資格」もまた、職務を遂行する一般的な能力を示す階級で、基本的には勤続年数に比例して上がっていった。

「職能」と「資格」による能力評価の慣行は、「職能資格制度」と呼ばれていた。

  • 職能……潜在的な職務遂行能力
  • 資格……職務に基づかない一般的な能力の指標で、勤続年数に比例

の組み合わせが、日本の「職能資格制度」だった。

「職能資格制度」は、能力を評価する指標とされていたが、客観性に乏しく、それぞれの企業の内部だけで効果を持つもので、企業を超えて横断的に通用するものではなかった。

ただ、能力が評価されるというコンセプト自体は、社員の支持を得ていた。

「職能資格制度」は、基本的には「勤続年数」に比例するが、それに加え、「社内のがんばり」という漠然としたものが評価基準になっていた。これは、能力が評価されれば誰もが昇進できるルールとして映り、「社員」としてのアイデンティティの形成や、モチベーションの維持に役立ってもいた。

「職能資格制度」に対して、労働研究者の評価は分かれることが多い。

  • 肯定的な評価は、現場作業員にすら昇進の道を開いた平等な制度であり、入り口の時点で最終的な待遇が決まっていないので、労働者のモラルと勤労意欲を高めたというものだ。
  • 否定的は評価は、企業を横断する指標ではないので、会社を辞めれば通用しなくなり、企業に忠誠心を持つ「会社人間」にならざるを得ないというものだ。また、過剰労働を招きやすいという問題もあった。

日本型雇用ならではの能力評価システムである「職能資格制度」は、「社内のがんばりが評価される」という柔軟性の高いものであるがゆえに、誰もが高い競争意識とモチベーションを持って働きやすい制度だった。一方で、企業を離れられない人材を作り出したし、末端の労働員まで過剰労働に晒される傾向があった。メリットとデメリットの両面を併せ持つものだったのだ。

 

「第7章」のまとめ

「日本型雇用」のパッケージは、戦後の高度成長期に完成したが、労働運動の影響に加えて、「進学率の上昇」も大きな要因だった。

日本企業の「学歴に対応した三層構造」は、「少数の大卒、そこそこの高卒、多数の中卒」を前提とした慣例で、進学率が上昇すると三層構造は崩壊してしまう。

企業は政府に働きかけるなどして進学を抑制しようとしたが、民衆は強く反発し、日本の高校進学率、大学進学率は上昇していった。

日本の企業は、現場労働者レベルまで「社員の平等」を拡張することで、高学歴化に対応した。「社員」は平等になったと同時に、大卒の社員であれど現場労働者レベルの職務を担うことがあった。

「社員は平等で、職務を限定せず、年功で昇進していく」という日本型雇用のシステムは、社員のモラルやモチベーションを維持しやすいという強みを持っていた。一方で、組織を拡大し続け、新卒社員を定期的に入社させなければ破綻してしまうという構造的な問題を抱えていた。

日本企業は、社員の能力評価のための「職能資格制度」を用意したが、会社を横断する客観的な指標にはなり得なかった。とはいえ、基準が曖昧ではありながらも「社内のがんばり」が評価されるというコンセプトは、労働者側にも受け入れられた。

日本型雇用における「職能資格制度」は、転職を難しくし、現場労働者レベルの仕事にまで評価査定や過剰労働を浸透させた一方で、現場労働者から上級職へ昇進する可能性を全社員に与える制度でもあった。

 

以上が、『日本社会のしくみ』「7章」高度経済成長と「学歴」のまとめになる。

 

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