小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』の「第8章」「一億総中流」から「新たな二重構」への要約と解説をしていく。
前回にあたる「第7章」の要約と解説は以下。

第8章の概要
第8章では、1973年の石油ショック以降、構造的な問題に突き当たった日本型雇用の展開を描く。
日本型雇用は、社員が増え続けていくことを前提としたシステムだったが、70年代の不況により、社員の量的拡大を止めざるを得なくなった。
とはいえ、70年代は、まだ農業と自営業がそれほど減少しておらず、格差の少ない時期でもあった。「大企業」と「それ以外」の格差はあったものの、地元の働き方もそれなりに豊かで、この時期に「一億総中流」や「地方の時代」という言葉が言われた。
80年代以降、企業は、出世を厳しくしたり、非正規雇用などを利用することで、なんとか日本型雇用を維持しようとしてきた。
実際に、60年代に完成した仕組みである「日本型雇用」は、当時から現在まで、コア部分に関してはほとんど変化していない。日本企業は、約3割の「大企業型」を、変えずに維持し続けてきたのだ。
一方で、地域コミュニティは解体が進んでいき、農業や自営業が減って非正規雇用が増えたので、現代における「大企業」と「それ以外」の格差は、70年代よりも深刻なものになっている。
石油ショックという転換点
第7章で述べたが、「社員は平等で、職務を限定せず、年功で昇進していく」という日本型雇用のシステムは、「組織を拡大し続け、新卒を入社させ続けなければ維持できない」という構造的な問題を抱えていた。
1973年のオイルショックによって高度経済成長が終わり、多くの日本企業がその構造的な問題に直面した。
とはいえ70年代は、「一億総中流」という言葉が言われたような格差の少ない時期だった。また、当時の日本人の間では、日本型雇用への評価がむしろ高まっていた。
世界的な不況により、欧米企業が「仕事がなくなった」という理由で多くの人員を解雇したのに対して、「職務」を限定しない日本企業は、「配置転換」によって社員の解雇を避けた。
政府は、「職務にこだわらない」日本企業の慣行を活用し、解雇を避けるための補助金を出す形で失業を抑えようとしたし、労働組合も、雇用の維持を優先させるために、賃上げ要求を控え、企業の配置転換をいっそう容認するようになった。
不況は、「労働者に職務変更や人事異動を強制できる代わりに、簡単に解雇してはならない」という日本型雇用の特徴を強める結果をもたらした。
しかし一方で、大企業の正社員の数自体は、石油ショック後の1974年を期に頭打ちになっていた。正社員採用の量的拡大がほぼ止まったことで、増えなくなったパイの奪い合いが、受験競争などの激化を招いた。
とはいえ、量的拡大が「止まった」のであって、採用数自体が「減った」わけでは必ずしもない。日本型雇用のシステムでは、新卒の採用数があまりにも減ると、昇進させた中高年に部下がいなくなってしまう。とはいえ、増やしすぎても後の賃金コストが負担になる。高度成長期の組織膨張が終わったあとの日本企業には、採用数を一定にする傾向が見られた。
「少数のトップ、中堅を担うそこそこの中高年、たくさんの新卒社員」というピラミッド型が無理になったあとは、「毎年同じくらいの数の新卒社員を採用する」ようにした企業が多かった。
一家総出、一億総中流、地方の時代
60年代に完成した「日本型雇用」のシステムは、70年代で早くもその構造的な問題に直面した。一方で、70年代の日本は一種の安定状態にあった。地域間賃金格差や階級間年収格差は1975年ごろが最小で、全体の貧困率も低かった。「一億総中流」「地方の時代」という言葉が生まれたのも70年代だ。
第1章で述べたように、日本には「カイシャ」と「ムラ」の格差がある。だがその格差は、それほど硬直したものではなかった。
石油ショック後の1974年には、高校進学率がすでに90%を超えていた。この時点で、高校や大学は細かく序列化されていて、偏差値の高い高校や大学へ行くための受験熱が高まっていたし、日本社会のほとんどの人が受験競争の秩序に取り込まれていた。例えば、50年代には、家業を継がせるために子供の教育を否定したがる親がそれなりにいた。70年代には、ほとんどの親が、子供に家業を継がせるよりも良い大学に入れることを望むようになっていた。
「カイシャ」と「ムラ」の格差があったものの、「ムラ」から受験競争で勝ち上がった者が有名大学に入り、大企業正社員として就職するルートもあったので、必ずしも再生産され固定化される格差ではなかった。
また、「ムラ」がそれなりに豊かだったことが、当時の日本社会の特徴だった。「一億総中流」は、「全員が正社員」という形で成り立っていたのではなく、「カイシャとムラの格差がありながらも、ムラの生き方も豊かだった」ことで成り立っていた。
以下は、「産業別自営業主・家族従業者の推移」と「就業者数の推移」の推移のグラフである。
どこの社会でも一般的に起こることとして、経済が発展するほど、自営業者や家族従業者が減り、雇用労働者が増える。つまり、小規模に細々とやっている人たちが淘汰され、より多くの人が「企業に雇われる」という形で働くようになっていく。日本でも、「自営業主+家族従業者」は減り続け、「雇用者」は増え続けている。
とは言え、日本に特徴的なのは、「兼業農家」と「非農林自営業」の衰退が遅かったことだ。
第1章でも述べたが、日本においては、「非農林自営業」が、80年代までむしろ増加し続けていた。高度成長期に「集団就職」で都市部にやってきた中卒労働者の多くは、地元に戻り「一国一城の主」になることを夢見ていたし、実際に小売店などを開業した。
70年代から80年代の日本は、欧米諸国と比べて小売店の数が多いことを特徴としていた。日本では、「二重構造」という企業間の移動が制限される格差ゆえに、生産性の低い零細中小企業や自営業も生き残りやすかった。
以下は第1章でも出した図だが、「企業間の移動が自由」な欧米に比べて、「企業間の移動が不自由(大企業と中小企業の格差がある)」日本のほうが、中小零細や自営業が生き残りやすい。
また、第1章の図でより詳細に示したが、日本では、戦争によって都市部の産業が破壊され、農家の比率が戦前よりも高まるということが起きていた。
それに加え、50年以降に農林自営業者の数は減り続けるが、実は日本においては、農家戸籍自体はそれほど減少せず、「兼業農家」という形で農業が続けられた。自民党の政治家たちは、農村票の維持を目的に、公共事業や地方への企業誘致、農業政策を進めた。そのため、地域にとどまりながら農業と農外労働の両方を続けるという働き方が可能だった。
以上のような経緯により、70年代の日本は、経済成長によって雇用労働者が増えていく過程にありながらも、自営業や農業がまだそれなりに行われていた。
「一家総出」という言葉があるが、70年代の農家や自営業家庭は、例えば、子弟が会社員に、女性がパート労働者に、戸主が期間工になるなどして、「兼業農家・零細自営業」と「雇用労働者」の両方をこなしながら、家族全員で細々と働いていた。そして、個人の単位では賃金や生産性が低くとも、「一家総出」で働けば、世帯所得は決して低くはならなかった。持ち家や自作の農作物、地域コミュニティの充実、それなりの世帯所得があれば、「大企業正社員」並の賃金をもらわなくとも、豊かに生きていくことは可能だったのだ。
60年代の高度経済成長期には、地方から人が流出して過疎化することが問題視されていたが、70年代の石油ショック以降は、むしろ都市から地方への人口の逆流が起こるほど、地域間格差が縮まっていった。地方が豊かであるという認識は多くの国民にあり、79年には「地方の時代」という言葉が流行した。
第1章で述べてきたように、日本型雇用における「大企業正社員」とその家族として生活してきたのは、全体の3割に過ぎない。
「一億総中流」は、約3割の「大企業型」と、残りの「地元型」によって成り立っていた。ひとりの社員の賃金ベースで見れば、「カイシャ」と「ムラ」には大きな格差があった。とはいえ「ムラ」のほうも、「一家総出」で雑多な働き方をすることで、それなりの豊かさを享受していた。そのような状況が、「一億総中流」や「地方の時代」という言葉で表された。
とはいえ、地域社会の空洞化は進み続けていて、70年代は、経済が発展していきながらも、まだ地域コミュニティが残っている、一時的な均衡点のような状況だった。80年代に入ると、地方から都市への人口移動が再び強まっていく。
日本型雇用の限界と、その対応
1979年には、『「歩」のない経済』というタイトルの書籍が出版された。多くの大企業が、年功で昇進していく管理職の増加に苦しみ始めた。
企業は、「人事考課(従業員の業績評価)」の基準を厳しくし、以前より出世しにくくすることで問題に対応しようとした。これによって、出世争いがより過酷になる傾向があった。
人事考課の厳格化の他に、企業は
- 出向
- 非正規雇用
- 女性の活用
によって、「社員の平等」の外部を作り出そうとした。
- 「系列会社への出向」は、中高年を外部に排出するために利用され、これは官庁が公社や公団を「天下り」に活用したのと類似の対応だった。
- 「非正規雇用」の活用は、60年代からすでに始まっていて、作業請負契約を結んだ関連企業の社外工、農村からの季節工、中高年女性のパートタイマーが導入されていた。80年代からは、そこに「派遣労働」が加わった。「派遣労働法」が施行された1986年の時点ではまだ業種が限定されていたが、派遣の業務範囲は段々と拡大されていった。
- 「女性」は、そもそも「社員の平等」から排除されることが多かった。それに対する訴訟と企業側の敗訴などが重なり、あからさまな男女差別はなくなったが、慣習としては女性は排除されることが多かった。1985年には「男女雇用機会均等法」が制定されたが、企業は年功で賃金が上がっていく「総合職」の外部としての「一般職」という区分を導入した。「一般職」に採用されるのは女性が多く、20代のうちに退職する者が多かった。
日本型雇用のピラミッドは、組織の拡大なしには成り立たないという構造的な欠陥があり、石油ショック後には、何らかの策を打ち出さなければ持続不可能になった。
企業は、
- 「人事考課」によって出世を絞る
- 「出向」によって中高年を外部に排出する
- 「派遣労働」や「一般職」という正社員の外部を作る
といった方法で対応せざるを得なかった。
変わらなかった「日本型雇用」
70年代に「地方の時代」と呼ばれた日本社会だが、その後は、自営業や家族従業員として働いていた人たちが、非正規の雇用労働者となっていく動きがさらに進んだ。
80年代には、「新たな二重構造」をめぐる議論が始まった。50年代に始まった「二重構造」の議論では、大企業と中小企業の格差が問題視されていた。80年代からの議論は、「正規社員」と「非正規社員」という「新たな二重構造」が出現しているというものだった。
第1章で述べたように、「大企業型」の比率自体は、日本型雇用が完成した60年代から現在まで、それほど変わっていない。しかし、「二重構造」の下の部分では大きな変化が起きていた。
「地方の時代」には機能していた地域コミュニティも、80年代以降は、雇用労働者の増加という形で切り崩されていき、1991年にバブル景気が終わると、非正規雇用の増大が社会問題として注目を浴びるようになっていく。
家族、持ち家、自作の農作物、地域ネットワークなどが充実していれば、低賃金でも問題なく暮らしていくことはできるかもしれないが、地域から切り離され、かつ賃金も高くない非正規労働者は、社会問題になりやすい。
1986年には、人数の多い「段階ジュニア」世代の進学が予想されていたので、私立大学・短大の定員抑制が緩和された。そのため、90年代からは大学進学率がさらに上昇した。とはいえ、60年代の経済成長期と違って、企業は正規雇用を増加させなかったので、「就職氷河期」と呼ばれる就職難が起こった。
「大企業型」で生きられる正規雇用の数自体が大きく減ったわけではないにしても、正社員になれなかった大卒人材が地域コミュニティに戻って生きるのも難しく、「地元型」が解体された残りの「残余型」は、社会保障制度の枠組みからも漏れ落ちるので、生活苦や疎外などの問題に晒されがちだった。
「日本型雇用」は、構造的な問題を抱えながらも、60年代以降から10年代後半にかけて、根本の部分では特に変わらなかった。人事考課を厳しくして出世を絞り、非正規雇用などの外部を作り出すことで、「社員は平等で、職務を限定せず、年功で昇進していく」というコアの部分を維持し続けた。そして今も、「大企業型」の3割という比率はそれほど変化していない。
90年代以降の動きとして、「日本型雇用」の改革が叫ばれることは多かった。例えば、「成果主義」が喧伝され、労働者側からも経営者側からも強く求められた。しかし「成果」のためには、各企業を超えて統一された客観的な「成果」や「職務」の基準がなければならない。各社がばらばらに「成果」や「職務」を規定しても、企業を横断する互換性を持つわけではないので、その会社を出てしまえば通用しない。
「成果主義」を導入しようとする日本企業は少なくなかったが、混乱をもたらす結果になりやすかった。第6章で述べたように、日本型雇用は「雇用・教育・社会保障などが連動したパッケージ」になっていて、業績評価などを表面的に導入しようとしても、形にならなかった。
まとめ
「日本型雇用」には、組織を拡大し続け、より多くの新卒社員を入社させなければ維持できないという構造的な問題があった。60年代の経済成長期には問題が表面化しなかったが、1973年の石油ショックによる不況が転換点となった。企業は、日本型雇用のシステムを維持するために、正社員の採用数を大幅に減らすことはできなかったが、後の賃金コストを恐れて、増やし続けることもできなくなった。そのため、「毎年同じくらいの数の新卒社員を採用する」ようになった企業が多かった。
経済成長が進むほど、「自営業者や家族従業者が減り、雇用労働者が増えていく」のが一般的な傾向で、戦後日本もその流れにあった。一方で、70年代の日本は、まだ農家と自営業の減少があまり進んでいない均衡点のような状況にあり、政府の公共事業や地域支援などの政策も相まって、地元がそれなりに豊かだった。
「大企業型」と「地元型」で構成されていた70年代の日本は、地域間や階級間の格差が小さい時期で、「一億総中流」や「地方の時代」という言葉が言われた。
だが、70年代は一時的な均衡に過ぎなかった。80年代からは地域コミュニティの解体が進み、雇用労働者が増えていった。
日本型雇用の「少数のトップ、中堅を担うそこそこの中高年、たくさんの新卒社員」というピラミッドが難しくなったので、「人事考課の厳格化」や「出向」で出世を絞り、「非正規雇用」や「一般職」という正社員の外部を作ることによって、構造を維持しようとした。
60年代に完成した「日本型雇用」は、日本全体の3割に適用され、その比率も、慣行も、現在までそれほど変化していない。日本型雇用の特徴は「変わっていない」ことなのだ。
だが、「日本型雇用」の「外側」は大きく変化した。地域コミュニティが解体され、雇用労働者が増えていったが、「正社員」の数が変わらなかったので、「雇用労働者の中で正社員になれる者の割合」は下がった。
90年代からは大学進学率がさらに上昇したが、企業の正社員雇用が増加したわけではなく、人口の多い「団塊ジュニア」世代の新卒時には深刻な就職難が起こった。
日本型雇用の改革が叫ばれることもあったが、「社員は平等で、職務を限定せず、年功で昇進していく」日本型雇用のシステムは、「雇用・教育・社会保障などが連動したパッケージ」となっていて、表面的な働きかけでは揺らぐことがなかった。
以上が、『日本社会のしくみ』「8章」「一億総中流」から「新たな二重構」へのまとめになる。
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