濱口桂一郎『若者と労働』の要約と解説①

『若者と労働「入社」の仕組みから解きほぐす』は、雇用・労働などを研究テーマにしている学者の濱口桂一郎による中公新書ラクレの書籍だ。

濱口桂一郎氏は、『新しい労働社会』『日本の雇用と労働法』など、労働に関する一般向けの書籍をいくつも出しているが、本書『若者と労働』は、タイトル通り「若者」という視点から「労働」を論じたものだ。

「若者」を主要テーマに据えることで、話がすっきりしていて、非常に読みやすくなっている。

就活生や若い世代向けにかかれているが、日本社会ではたらく多くの人にとって重要なことが書かれているので、世代に関係なく読む価値のある内容だと思う。

今回は、濱口桂一郎『若者と労働』の要約と解説を試みたい。

序章 若者雇用問題がなかった日本

著者は、「日本には若者雇用問題がなかった」と述べる。実際のところ、バブル崩壊後の90年代までの日本は、「ほとんどの若者が就職できる」社会だった。

日本社会の雇用システムは、「若者が就職しやすく、中高年が就職しにくい」。

一方、日本と逆に、欧米の雇用システムは、「若者が就職しにくく、中高年が就職しやすい」。

1973年のオイルショックが起こったとき、世界中で、それぞれの国の雇用システムの弱点が表出した。そのとき、欧米諸国と日本とでは、問題の表れ方が対照的だった。

社会の雇用情勢が悪くなった70年代に、

  • 「若者が就職しにくく、中高年が就職しやすい」欧米の雇用システムでは、若者の失業が社会問題になった。
  • 「若者が就職しやすく、中高年が就職しにくい」日本の雇用システムでは、中高年のリストラが社会問題になった。

70年代の日本社会は、若年失業率の増加が問題にならず、日本は90年代になるまで「若者雇用問題がなかった」。

そして、90年代以降に、いわゆる「就職氷河期世代」の、新卒の若者が就職できないという若者雇用問題が起こったのだが、それまでの日本は「若者雇用問題がなかった社会」だったので、当時はそれが問題であると認識されなかった。

氷河期問題が「若者雇用問題」として社会から認知され出したのは、2000年代に入ってからだった。

なぜ日本は「若者が就職しやすい」社会なのか、そして、その前提が崩れつつある現在、どのような対策を打つべきなのか。『若者と労働』は、それを丁寧に説明していく。

 

第1章 「ジョブ型」社会と「メンバーシップ型」社会

「ジョブ型」と「メンバーシップ型」

著者は、欧米の働き方を「ジョブ型」日本の働き方を「メンバーシップ型」という言葉で説明している。

  • 「ジョブ型」は、まず「仕事」が先にあり、後から「人」を集める。
  • 「メンバーシップ型」は、まず「人」が先にあり、後から「仕事」を割りふる。

 

  • 「ジョブ型」は、その「仕事」がどういう内容なのか、範囲や責任、権限などを明確に決めて人を募集し、「職務契約」を重視する。入社の年次や性別など、「仕事」に関係のない要素を考慮しない。
  • 「メンバーシップ型」は、「仕事」とは関係ない「人」を評価される傾向があり、立場や年次によって賃金が決まる。

 

「解雇しやすい(辞めやすい)」or「解雇しにくい(辞めにくい)」

日本の「メンバーシップ型」は人材の流動性が低く、欧米の「ジョブ型」のほうが人材の流動性は高くなる。

  • 「ジョブ型」は、必要なときに、必要な資格、能力、経験のある人を、必要な数だけ採用するという「欠員補充」の発想
  • 「メンバーシップ型」は、人を会社に所属させ、必要な仕事に対応させていくという「入社」の発想
  • 「ジョブ型」は、「仕事がなくなった」という理由での解雇が起こりやすい
  • 「メンバーシップ型」の場合、「仕事がなくなった」という理由で「社員」を辞めさせることは難しい
  • 「ジョブ型」は、解雇されやすいが、再雇用も比較的しやすいので、人材の流動性が高くなる
  • 「メンバーシップ型」は、解雇されにくいが、転職によって待遇が下がりやすいので、人材の流動性が低くなる

 

「ジョブ型」は、雇用するときに厳密な職務契約を結ぶので、最初にした契約と違う仕事をさせることは難しい。そのため、社会情勢により職務内容が変われば、解雇して再雇用という形になりやすい。「ジョブ型」の場合は、最初に契約した「仕事」がなくなれば、それを理由に労働者を解雇整理することが可能だ。

「メンバーシップ型」は、「職務」という形で契約を結ぶわけではなく、職務が定まらない「社員」として雇用する。「ジョブ型」と比べて、「メンバーシップ型」がまったく不合理というわけではない。「社員」の職務が限定されないので、社会情勢の変化に対応しやすい部分があり、また、企業の様々な部門を経験させていくという形で「社員」を育成することができる。

「メンバーシップ型」は、経営者側の都合で社員の職務変更や配置転換を強制できる代わりに、一度「社員」にした者を「仕事がなくなった」という理由で解雇できない。同時に社員の側からしても、勤続年数で待遇が良くなっていくので会社を辞めにくい。そのため、日本社会は欧米と比べて人材の流動性が低くなる。

 

「入り口」が新卒に限定されているからこそ、若者が就職できる

「メンバーシップ型」は、「入社」の時期が新卒に限られていて、「新卒での就活」がうまくいかなかった人が不利になりやすい仕組みと言える。だが逆に、「新卒採用」の時期を逃さなければ、若者は非常に就職しやすい。

  • 「ジョブ型」の場合、「入り口」は、誰に対しても開かれていることが原則
  • 「メンバーシップ型」の場合、「入り口」が、新規学卒という特定の時期と年齢に限定されている

「ジョブ型」の場合、年齢に関係なく「入り口」が開かれている。それゆえに、職務経験のある中高年と、職務経験のない若者が同時に応募したときに、経験のある中高年が選ばれることが多い。よって、欧米では若年失業率の増加が問題になる。

「メンバーシップ型」の場合、主要な入り口が「新卒採用」という若者に限られたものになる。若者は中高年と競争しなくても良いので、就職しやすい。

  • 「ジョブ型」は、年齢による区別がないゆえに、経験のない若者が不利になり、若年失業率が上がりやすい
  • 「メンバーシップ型」は、就職活動が新卒採用に限定されるがゆえに、若者が就職しやすい

「メンバーシップ型」は、新卒採用の時期を逃さなかった若者にとっては、メリットの多い雇用システムでもあるのだ。

 

「ジョブ型」の思想と「メンバーシップ型」の現実との齟齬

欧米の法律は「ジョブ型」社会であることを前提に作られているが、実は、日本の法律も同様に「ジョブ型」社会を前提としたものになっている。だが、日本の現実としては「メンバーシップ型」社会が機能しているので、そこに齟齬が生じている。

日本では、「ジョブ型」の法律と、「メンバーシップ型」の現実とのギャップが大きすぎて、法律を適用して制度を変えようとしてもうまくいかないという問題が起こりやすい。

日本の裁判所の判例においては、「メンバーシップ型」の現実を追認する判決がいくつも出されていて、例えば「社員」を解雇する(一度認めた「メンバーシップ」を剥奪する)ことに関しては、かなり厳しい縛りをかけている。そのため、日本の企業は、「仕事がなくなった」という理由では、「社員」を簡単に解雇することができない。

日本社会の基本原理とはことなる「ジョブ型」の発想で運用されている制度に、「ハローワーク(公共職業安定所)」があるが、日本社会においては、ハローワークのような直接「仕事」探しをするやり方は、信頼されにくい傾向にある。

法律や制度の設計思想とは乖離していても、「就職」とはすなわち会社の「メンバー」の一員になることである、という感覚は、多くの日本人に根付いている。

 

第2章 「社員」のしくみ

「メンバーシップ型」に特有の「定期昇進制度」

「メンバーシップ型」の日本においては、一定期間ごとに賃金が上がっていく「定期昇進制度」が一般的なものになっている。

欧米の「ジョブ型」の感覚からすれば、同じ仕事をし続けているのであれば、賃金を余分に支払う必要はない。だが日本の場合、まったく同じ仕事をしていても、勤続期間によって賃金が上昇していく。

「ジョブ型」では、ひとつひとつの職務について、仕事の内容、範囲、責任、権限がはっきり定められる。「仕事が行われるなら人種や性別とは関係なく同じ賃金が与えられる」というのが原則であり、「同じ仕事をしていても人によって賃金が違う」というのは基本的にあってはならないことなのだ。

一方で日本の場合、仕事の内容、範囲、責任、権限がはっきり定められないからこそ、職務内容ではなく、「メンバーシップ」に付随する要素(同企業での勤続年数や役職)によって賃金が支払われる。

 

「職務」ではなく「職能」

実は、50年代から60年代の日本において、政府や経営者たちは「同一賃金同一労働」を主張していた。つまり、日本も欧米のような「ジョブ型」でやっていくことが目標として掲げられていたのだ。

しかし、「ジョブ型」は定着せず、日本においては「職務遂行能力(職能)」という独自の能力解釈が生まれた。

欧米において「職務」が重視されるとしたら、日本においては「職能」が重視される。

ふたつは似たような言葉に思えるが

  • 「職務」……具体的な仕事を行う専門的な能力
  • 「職能」……どんな仕事にも適用し得る汎用的な能力

という使い分けがされ、日本においては「職能」が能力の基準となった。

日本では、現場でのOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)によって、社内の様々な部署を経験しながら、社員が「職能」を高めていくというやり方をする。

日本型雇用の能力評価では、特定の「職務」の専門性ではなく、必要な仕事が割り振られたときに対応できる「職能」が重視され、それは「勤続年数に比例する(長く働いているほど高まっていく)」という前提になっている。

「定期昇進制度」は、働いた年数が長いほど「職能」が上がっていくという見方によって成り立っている。

 

働く「時間」や「空間」が限定されない

欧米の「ジョブ型」の場合、職務契約において「時間」と「空間」を定める。つまり、「何時から何時まで、どこで働くか」を決めて、契約したのであれば経営側がそれを勝手に変更することは許されない。

一方、「職務」を明確に定めない「メンバーシップ型」では、「職務」のみならず、働く「時間」や「空間」も限定されない。

日本でも労働基準法は「ジョブ型」の発想なので、「1日8時間、週40時間」という労働時間の上限が規定されている。しかしこれは、実態としては形骸化している。

また、「転勤」のような、必ずしも社員が望まない場所への移動を強いることは、欧米の感覚からすれば権利侵害だが、日本の場合は命じられれば従うのが当然となっている。

その会社の「社員」であるならば、会社が必要とする限り、「時間」や「空間」を限定せず働くことが当然の義務であり、それは労働者にも経営者にも暗黙の了解となっている。最高裁判所の判例を見ても、このような日本社会の「常識」を実質的に認めていると解釈し得る判決が出されている。

また、「ジョブ型」の場合は、個々の労働者の責任範囲が明確なので、同じ職場にいても、自分の仕事と他人の仕事がはっきり区別されていることが多い。

一方で、「メンバーシップ型」の場合、自分の仕事と他人の仕事の区別は「ジョブ型」ほど明確ではない。そのため、たまたま今やっていた自分の作業が終わったからといって、同僚が仕事をしているのに、自分だけ帰るのは難しい。「個々の職務が明確でない」から、日本企業では残業が発生しやすいのだ。

 

「社員」を簡単に辞めさせられない

日本企業において、「社員」は、「職務」や「時間」や「空間」を自ら選ぶことができず、会社の必要に応えなければならない。一方、企業に忠誠を尽くすような働き方の見返りとして、勤続年数が長いほど待遇が良くなっていく。これが「日本型雇用」における「社員」としての契約のようなものなのだ。

このようなある種の契約が機能している以上、日本の企業は「社員」を簡単に辞めさせることができない。

「ジョブ型」の場合、契約した「職務」がなくなれば、労働者を解雇することはそれほど難しくない。だが、「メンバーシップ型」の場合、「職務」がなくなったという理由で「社員」を解雇することはできない。会社を継続できなくなりそうなど、よっぽどのことがないかぎりは、社員がうまく仕事をこなせなくとも、解雇せずに何らかの仕事をあてがわなければならない。

ただ、実際のところは、「追い出し部屋」など、社員を「自己都合退職」に追い込むような仕組みが設けられている企業がある。これは脱法ではあるが、「メンバーシップ型」だからといって「どれだけ働かない人でも解雇されない」というのも現実的ではない。

(なお、中高年のリストラ問題については、同じ著者による『日本の雇用と中高年』が詳しい。)

 

日本では「中高年」が問題に、欧米では「若者」が問題に

経済状況が悪くなったとき、日本では「中高年」が問題になる。なぜなら、「定期昇進制度」による中高年労働者の給料が高いからだ。不況で仕事が縮小していき、割りふる仕事が減っているなか、給料の高い中高年を多く抱えていれば、それは企業の大きな負担となる。

業績が立ち行かなくなった企業では、中高年のリストラが検討されるが、日本は中高年が再就職しにくい社会なので、中高年のリストラは社会問題になりやすい。

一方、欧米の社会では「若者雇用問題」が起こる。

「ジョブ型」では、日本のように「会社」のウェイトが重くない。不況のときは大勢が解雇されて、景気が戻ってくればまた採用する、という発想だ。そのようなとき、「中高年」と「若者」とでは、「中高年」のほうが解雇されにくいし、再雇用されやすい。

「同一労働同一賃金」ならば、日本と違って中高年のコストは高くなく、誰を雇っても給料は同じだ。そのため、経験のある中高年が優先して採用されやすく、熟練度の劣る若者ほど採用されにくくなる。だから欧米では、スキルのない若者が大量に失業し、治安の悪化などが社会問題になるのだ。

一方で日本の「メンバーシップ型」は、何のスキルも持たない若者が就職しやすい雇用システムだった。そのため、70年代の日本で問題視されたのは主に「中高年」であって、「若者」の失業問題は深刻なものにはならなかった。

バブル崩壊以降の就職氷河期世代からは状況が変わってくるのだが、それ以前の日本は、「若者の雇用問題がない社会」だったのだ。

 

第3章 「入社」のための教育システム

「職業教育」の否定と、「偏差値」という一元的な指標

日本社会にも、例えば「医療」のように、「ジョブ型」の原理で動いている業種もある。しかし、基本的には、日本には「職業教育」という発想が根付かなかった。

「ジョブ型」の欧米では、「仕事に対応したスキル」が重視され、そのための教育課程が設けられる。

日本も50年代から60年代は、政府と経営側が、「職業能力と職種に基づく近代的労働市場の確立」を目指し、「同一労働同一賃金」の原則に基づく職務給を主張していた。「職業教育」の動きとして、職業高校の設立や、普通科高校での職業教育が提案された。しかし、70年代以降からは、「職業教育」の動きが後退の一途をたどっていく。

日本では、「職業教育」と逆転する動きが起こり、それは「能力の一元化」だった。

日本社会で重視されたのは、「偏差値」という、特定のスキルではない一元的な指標であり、すべての大学や高校が「偏差値」という単一の指標で序列化されることになった。「偏差値」は、能力の高さを表す指標のように定着し、その一元的なものさしが社会全体を覆うようになった。

日本では、特定の職業スキルを身に着けさせる「職業高校」は、偏差値の低い者が行くところとみなされやすくなった。

日本において、学校教育とは、何らかのスキルを身に着けさせるものではなく、「偏差値」という基準において一般的な学力を伸ばし、頭の良い人物を選抜するためのものだった。そして企業も、「学校は余計なことをせずに、優秀な人材を優秀なまま企業に手渡してくれれば、あとは企業のOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)で育てていく」という考え方をするようになった。

特定の業務に対する具体的な能力を身につける「職業教育」を否定して、「偏差値」という指標における「一元能力主義」を重視してきたのが日本の教育なのだ。

 

公的な教育への支援が同意されにくい日本社会

「教育費の公的な補助」は、雇用システムと強く関連している。

日本は、「定期昇進制度」によって中高年の給料が高いが、その前提として、「子供の養育費を支払わなければならない中高年に高い給料を与えるべき」という「生活給」の発想がある。

「生活給」の発想がある日本と、「同一労働同一賃金」の欧米とでは、「教育費の公的な補助」に対する考え方も異なる。

  • 「メンバーシップ型」の日本では、「一家の大黒柱」が高い給料を貰っているはずなので、子供の教育費はそこから出すべきという考え方になる
  • 「ジョブ型」の欧米では、年齢や扶養家族などの事情は考慮されないので、子供の教育費は政府が補助すべきという考え方になる

欧米諸国で「教育無償化」が進んでいるのは、「一家を養わなければならない中高年だからといって若者より給料が高いわけではない」という事情による

日本では、例えば1971年に「児童手当制度」が設けられた。これは欧米の「ジョブ型」の制度を参考にして、子供のいる親を公的に支援しようとしたものだった。しかしこの制度は、「(実質的に)会社が社員のために家族手当を支給しているのに、それに加えて政府が余計なことをする必要があるのか」という批判を受け、うまくいかなかった。

欧米と比べて日本は、子供を養う年齢の中高年ほど給料が高くなる社会なので、「児童手当」や「教育無償化」などの動きが同意を得られにくい。「日本型雇用」においては、生徒や学生の親が、子供の教育費や授業料を支払える賃金をもらっていることが、当たり前の前提になっている。

 

「入社」に要求される「偏差値」と「人間力」

日本であれ欧米であれ、求職者が企業に対して「自分が役に立つ人材である」と売り込まなければならないのは変わりない。

ただ、「ジョブ型」の欧米において求職者は、求人されている仕事をこなす能力を持っていることをアピールする。職務経験のない学生の場合は、資格やインターンの履歴をアピールする。

欧米の大学は、入試は比較的入りやすいが、カリキュラムがハードで、卒業するのが難しい。欧米の大学生にとっての「就活」は、何よりもまずカリキュラムをこなして学位を取得することになる。

「偏差値」によって「能力が一元化」されている日本では、「大学で何を学んだか?」よりも「難関大学の入試を突破した能力があるか」が重視される。日本の大学は、入試で厳しい選抜が行われる一方で、卒業するのは比較的簡単だ。日本では、「入学試験を突破したこと」が主に評価され、卒業して学位を得る前から就職活動が行われる。

日本企業で「社員」になるための就職活動は、「入学した大学の偏差値」という「能力一元主義」に基づいた見方に加えて、「人間力・コミュニケーション力」といった人物評価が重視される。「現時点で専門的な能力を持っているか?」ではなく、「一緒に働きたいか?」という人柄のようなものが評価されるのだ。

「メンバーシップ型」の就職活動は、あいまいな基準に基づいたものではあったが、新卒の若者にとって、「ジョブ型」よりも就職しやすいことは確かだった。

ただ、90年代以降、「社員」になるための競争が激化すると、「人間力」などと言うような曖昧な基準に対しての不満が高まっていった。

 

「キャリア教育」の頓挫と、「教育と職業の密接な無関係」

「キャリア教育」という言葉は、若者の雇用問題が顕在化してくる90年代までほとんど使われることがなかった概念だが、2000年代から急速に教育政策の中で使われるようになっていった。

「キャリア教育」は、「ジョブ型」の考え方に基づいて、職業に関する知識や技能を身に着けさせようとするものだった。しかし、日本の「メンバーシップ型」という実態との乖離ゆえに、「キャリア教育」の内容は要領を得ないものになりやすかった。

例えば、学校で行われた「キャリア教育」の内容として、職業意識を身に着けさせるのではなく、「正社員として就職するのと、非正規労働者として就職するのとでは、給料が大きく変わる」という実態を追認するような内容を、あたかも脅しのように教育されていたというのが典型的だった。

また、日本における「就活スキル」のための教育は、実質的に「就活の場で企業に良い印象を持ってもらえるための作法を身につける教育」となり、本質的な根拠を見出しにくいものだった。

著者は、日本における「雇用」と「教育」との関係を、「教育と職業の密接な無関係」という言葉で説明している。日本では、偏差値による「能力一元主義」のもと、教育と職業が意図的に切り離そうとされてきたのだ。

ただ、「教育と職業の密接な無関係」も、若者にとっては、潜在能力が評価され就職しやすいという点ではメリットがあったし、少なくともある時期まではうまくいっていた。だが、バブル崩壊後、既存のシステムからこぼれ落ちる若者が大量に発生する中で、日本の雇用システムと教育システムの双方で本質的な解決を図る必要性が浮き彫りになってきた。

 

第4章 「入社」システムの縮小と排除された若者

若者が就職しやすい「メンバーシップ型」の雇用システムだった日本には、若者の雇用問題がなかった。しかし、90年代からは、メンバーシップ型の「入社」システムが縮小し、そこに入ることができず排除されてしまった若者が大量に発生した。

「フリーター」という言葉は、「フリーアルバイター」の略称として、80年代後半から広まった。87年にはリクルート社のアルバイト情報誌「フロムエー」により、『フリーター』という映画が作られた。

(東宝東和株式会社、映画『フリーター』より)

 

バブル期において、「フリーター」は挑戦的で肯定的な用語だった。

しかし、その後にバブル崩壊で一気に景気が後退した。バブル崩壊後から2000年代半ばまでの就職が困難だった時期に大学新卒として就職活動を経験した世代は、「就職氷河期世代」と言われることが多い。

「氷河期」以前の日本の大卒は、「理想の企業への就職は困難でも、どこかしら就職先はある」状態だったが、「氷河期」からは、「頑張って就職活動をしても正社員になれない」若者が登場するようになった。

氷河期世代の多くは、バブル期のフリーターのようなポジティブな理由からではなく、仕方なくフリーターとして働かなければならなかった。

だが、そのような「仕方なくフリーターになった若者たち」は、社会からは「甘え」「よくわからない」と批判されることが多かった。

それまでは大学卒業とともに正社員として就職するのが当たり前だった日本社会において、フリーターとして働く若者が大量に出現したことは、社会に大きなインパクトを与えた。しかし、問題が発生した当初は、「就職できない」のではなく、「就職しない」のだと捉えられていた。

つまり、バブル期における「会社に縛られない自由なフリーター」像が、若者の雇用問題を問題として認識することを困難にさせていた。そのため、就職氷河期の若者問題は、当時においては、実態より深刻に見られていなかった。

日本は長らく「若者雇用問題がなかった」社会であったため、若者の雇用問題に初めて直面したとき、それを問題であると認識するのが遅れたのだ。

2000年代に入ってから、ようやくフリーターとして働き続ける年長が問題視されるようになってきた。

「メンバーシップ型」の「日本型雇用」は、職業経験も知識もない若者が、若者であるという理由で企業に雇ってもらえてスキルを身につけることができるという点で、若者にも大きなメリットのあるシステムだった。しかし、経済状況により、企業が採用を絞る時期に就職活動をしなければならない世代には、大きな負担と不公平がのしかかるという矛盾が露呈した。

2000年代の半ばには景気が回復し始めていたが、氷河期世代たちは、自分たちよりも年下の職業経験もない若者たちが正社員として就職していくなか、フリーター(非正規雇用)として働き続けなければならない状況が続いた。

「ジョブ型」の場合、社会情勢や経済状況の影響を受けないわけではないが、新卒の年度によって挽回しようのない格差が生じるということはない。

「メンバーシップ型」の雇用システムにおいて、長らく若者の雇用問題が起こってこなかったのだが、氷河期世代の若者が大きな不公平に直面することになった。

 

 

濱口桂一郎『若者と労働』の要約と解説①(第1章から第4章まで)は以上になる。

続く「第5章から第7章」の要約と解説は以下。

濱口桂一郎『若者と労働』の要約と解説②

 

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