濱口桂一郎『若者と労働』の要約と解説をしていく。
この記事は後半の②になる。
前半の①を読んでいなければ、先に以下を読んでもらいたい。

第5章 若者雇用問題の「政策」化
若者雇用問題に対応し続けきた欧米と、理解できなかった日本
日本の厚生労働省に、公式的な形で「若者雇用対策室」が設置されたのは2004年のことだ。それ以前は、業務調整課の単なる事務分掌として「若者雇用対策係」があっただけで、それもほぼ形だけのものだった。それ以前は、日本には「若者雇用問題がない」とされていた。(実際は、氷河期世代が問題に直面していたが、それが問題として認識されていなかった。)
若者が失業しやすい「ジョブ型」の欧米は、1973年のオイルショックによって若年失業率が急増し、それに対処しようとしてきた。70年代の労働問題の経験により欧米諸国は、「職業訓練で技術を身に着けさせ、採用されるようにするのが王道の雇用政策」ということを学んできた。
失敗例の一つとして、欧米では若年層の失業率改善のために熟練労働者を早期退職させる「高齢者引退政策」がとられたが、高齢者を引退させたからといって企業が何のスキルもない若者を雇おうとするわけではなかった。そのため、早期退職の政策は、国の財政に負担をかける一方で、望んでいたような成果は出なかった。
試行錯誤の結果、若年層の失業問題に対しての欧米の結論は、「若者の職業能力を向上させる」となる。成果があった一例は、「エンプロイアビリティ」という、補助金によって企業にスキルのない若者を雇ってもらい、若者に職業訓練を与える政策だった。
90年代には、日本も欧米の「エンプロイアビリティ」を取り入れようとしたが、「ジョブ型」と「メンバーシップ型」という根本的な雇用システムの違いがあるので、政策は要領を得ないものになってしまった。
当時の日経連において「エンプロイアビリティ」は、なんと、元の文脈とは別に、「これまでの終身雇用、年功序列に安住するな」というメッセージが込められた言葉として用いられた。「雇用のための職務能力を身につけるため」であるはずのものが、「すでに雇用された者に発破をかける(メンバーシップ型からジョブ型への移行を促そうとする)」ものとして、奇妙な形で用いられていた。
90年代は、若者の雇用への問題意識は欠けていたが、「メンバーシップ型」という日本社会の働き方への不満や疑問が噴出した時代ではあった。そのため、「労働者の個性を活かす」「個人主導の職務能力開発」がスローガンとして言われだすなど、「メンバーシップ型」からの脱却を目的とする動きがあった。
しかしその後、実態としては、あまりレベルの高くない英会話学校やパソコンスクールに労働者が殺到するというなことが起こった。このような中、相対的に公的な職業訓練が評価されていく。
2000年代からは日本でも本格的な若者雇用政策が行われ始める
2000年代に入ると、若者雇用問題が政策課題として認知され出し、2002年度から「未就職卒業者緊急支援事業」が始まり、これが日本における若者雇用政策の出発点となった。
2003年から、「若者自立・挑戦プラン」という政策文章がとりまとめられた。「若年者問題の原因を、若者自身のみに帰することなく、教育、人材育成、雇用などの社会システムの不適合の問題として捉えて対応する必要がある」というのが基本的な考え方で、「卒業即雇用」以外の仕組みを探っていこうとするものだった。
具体的には、キャリア教育、職業体験、インターンシップの推進、ジョブカフェの設置、日本版「デュアルシステム」の導入などだ。
「デュアルシステム」というのは、欧米の中でも例外的に若年層の失業が少ないドイツの仕組みを参考にしたものだ。ドイツの「デュアルシステム」は、学校教育の枠組みのなかで実践的な職業訓練をやるというもので、「学校における座学と、企業現場における実習とが、同じくらいの分量で組み合わされている」ゆえに「デュアル」システムだった。
しかし、「日本版デュアルシステム」は、ドイツとは似ても似つかないものだった。「学校」は関与せず、行政の範囲内だけでデュアルシステムを行おうとしたが、そもそも「職場」と「学校教育」が深く組み合わさっていなければ機能しにくい。後に文部省が協力するが、職場体験に毛が生えたようなものにしかならなかった。
政策の多くはほとんど成果が上がらなかったものの、「職業教育」の認知はそれ以前よりも高まってきた。
「職業高校」は、90年代には「専門高校」と呼ばれるようになっていたが、企業が人材養成にかけるコストが削減されるほど、一定の職業教育を受けてきた者に対する評価が上昇してく傾向があった。
また、「ジョブカード」という、職業訓練制度と職業能力評価制度を組み合わせた、企業横断的な基準を志向した制度が設けられた。ジョブカードは、「一般求職者や学生も活用する一般的な職業能力証明ツール」であり、「メンバーシップ型」の社会に対して「ジョブ型」の基準を作ろうとするものだった。
しかし、日本型雇用のメインストリームに影響を与えるというほどのものには到底なっていない。
2000年代からは、求職における年齢差別禁止が唱えられ、2007年の雇用対策法改正によってさらにそれが進められた。就職氷河期に職に就けずフリーターを続けている者や、定年を迎えつつある団塊世代を念頭に、年齢差別による門前払いをなくすのが狙いだった。とはいえ、それによって日本型雇用の「新卒採用」の慣行が薄れてきたかと言えばそうではない。
2000年以降からは日本でも、若年層の雇用が政策問題の俎上に載せられ、様々な対策がとられてきた。ただ、「メンバーシップ型」の「日本型雇用」を変化させるようなものには、少なくとも現状はなっていない。
第6章 正社員は幸せか?
「正社員」だから待遇が良いとは限らない
若年層の雇用問題においては、正社員になれなかった若者が問題とされるが、一方で、「正社員になれた若者たちは、本当に幸福な職業生活を送っているのか?」という疑問が第6章で提起される。
第2章で述べたが、「日本型雇用」は、「職務、時間、空間」にこだわらず会社にコミットする代わりに、会社は従業員を簡単に辞めさせられず、従業員は定期的に昇進していく、という雇用のあり方だった。「日本型雇用」における正社員の働き方それ自体が、欧米の「ジョブ型」からすればブラック労働なのだが、それに見合うメリットもあったのだ。
だが、同じ「正社員」という枠組みではあれど、従来の「正社員」並みに会社にコミットしなければならないにもかかわらず、その見返りがないことが問題視されるようになった。いわゆる「ブラック企業」問題だ。
日本型雇用の「正社員」という形をとり、「職務、時間、空間」に関係なく働かなければならない一方で、長期的な保障がありそうにない企業、つまり理不尽で激務だがそれに見合う恩恵のない企業が、「ブラック企業」と呼ばれるようになっていった。
「ブラック企業」は、明確な定義があるわけではないが、「メンバーシップ型」の慣行を悪用する形で人材を使い潰す企業、というニュアンスで使われることが多い。
「メンバーシップ型」への批判がブラック企業の源泉に
「ブラック企業」問題は、「メンバーシップ型」という日本型雇用の慣習の上に成り立っている。
だが一方で、著者は、「メンバーシップ型」に対する批判こそが、ブラック企業を生み出す要因のひとつになっていることを指摘する。
日本の労働者たちも、日本の労働社会の特殊性を認識していたが、80年代は、日本経済が欧米諸国に比べてうまくいっていたがゆえに、正当化されることが多かった。だが、バブル崩壊後は、「日本人の働き方」に対する批判が多くなり、「会社人間」や「社畜」を否定する流れが強くなった。
「メンバーシップ型」批判の流れに加え、80年代のイギリスやアメリカで流行していた「ネオリベラリズム」の思想が、90年代の日本に入ってくる。
このときの、「日本型雇用への不満」と「ネオリベラリズム」が、「日本社会批判」で意見を一致させ、本来であればネオリベラリズムを否定するはずだった社会民主主義的な抵抗があまり起こらなかった。そして、「会社に頼らずにもっと強い人間になって市場でバリバリやっていく生き方がいいんだ」という強い個人を目指す「ガンバリズム」が、マスコミなどで盛んに言われるようになった。
日本社会の硬直性を否定する「左翼的なリベラリズム」と、市場原理主義の「ネオリベラリズム」が、「日本社会批判という文脈で奇妙な共鳴現象を起こした」と著者は説明する。
「メンバーシップ型」とは別の働き方を求める動きが、「メンバーシップ型の形式が維持されたまま、メンバーシップ型のメリットがなくなった状態」という「ブラック企業」の発生を助長した側面があるのだ。
「成果主義」が一時はもてはやされたが、労働者が不利になりがちだった
90年代にもてはやされた言葉に、「成果主義」がある。「日本型雇用」のように基準が曖昧な横並びではなく、個人のスキルや能力をより評価すべきという考え方には、労働者からも賛同されることが多かった。
だが、実際のところ「成果主義」は、勤続年数を重ねた中高年の高賃金を下げる手段として利用されがちだった。
結局は、2004年あたりから、「成果主義」への批判がわき起こった。中高年の賃金コストの引き下げのために「成果主義」が持ち出されていることに、労働者たちが気づき始めたからだ。
日本は「ジョブ型」の社会ではないので、「成果とは何か?」という企業横断的な基準が社会に根付いているわけではない。「成果主義」という言葉は労働者からも支持を得やすいものであった一方で、実質的には「年功昇給」の否定という、労働者に不利な形での「メンバーシップ型」の解体が意図されがちだった。
「正社員」の労働負荷がどんどん上がっている
不況、ブラック企業、成果主義などの流れもあり、現在は、「正社員」の労働負荷が、かつてよりも上昇している。
著者は以下のように述べている。
今から30年ぐらい前に、銀行を既に定年退職していた人にこういう話を聞いたことがあります。「近所の銀行は夜中までみんな残って仕事をしているんだよな。俺たちの頃は、大体3時にシャッターを閉めたらある程度仕事をし、その後、近所の子どもたちの野球のコーチをしていた」と言うのです。その人の現役時代といえばもう50年以上前になりますが、昔の銀行員はそんなことができたのかと当時の私は非常に驚きました。メンバーシップ型で忠誠を尽くせば一生面倒をみる約束だと言いましたが、そうはいっても平日に少年野球のコーチができる程度の忠誠であって、そんなに無茶なものではなかったのだと思います。
同じ「正社員」であり、同じ「職務、時間、空間の制限がないコミットメント」であっても、かつての仕事と今の仕事とでは、密度がまったく違う。
仕事の密度が上がっていき、昔のような「ゆるさ」が許容されなくなってくると、日本の「正社員」という働き方自体が、過剰労働を当然とする無茶なものになってしまうことを著者は指摘する。
中途半端な「ジョブ型」の導入と混乱
「メンバーシップ型」社会に持ち込まれた「ジョブ型」の志向は、就職や雇用の現場に混乱をもたらした。
例えば、「メンバーシップ型」の正社員を募集しながらも、新卒の学生に「即戦力」を要求するという、矛盾したような状況が起きていた。
(「世界一即戦力な男」は、菊池良によるウェブサイトで、日本企業の就職時点において「即戦力が求められる」という筋の通らない状況へのパロディとして注目を浴びた。書籍化、ドラマ化もされるほどの人気を博した。)
『若者と労働』では、「ブラック企業」において、「お前らは何のスキルもないクズだ」「会社に利益をもたらせないやつがなぜ給料を貰えるんだ」というように、入社したばかりの学生が罵られるという例が紹介されている。
「メンバーシップ型」の制度を更新しないまま、部分的に「ジョブ型」の理論をもっともらしく持ち込むことによって、本来の「ジョブ型」社会では到底ありえないような、理不尽極まる「ブラック企業」現象が発生した。
中途半端に「ジョブ型」の考えが持ち込まれて混乱する中で、新卒の学生たちは、「何が採用の基準になっているのか」がはっきりしない就職活動に身を投じなければならなかった。
第7章 若者雇用問題への「処方箋」
労働市場の二極化、ブラック企業問題
90年以降は、日本独自の「入社」システムが縮小していき、そこから排除された若者が非正規労働に追いやられ、フリーターや派遣社員などの形で労働市場に滞留してきた。日本政府は、若者の雇用対策において先んじていた欧米の「ジョブ型」の政策を取り入れようとしたが、「メンバーシップ型」という日本社会の実態と衝突し、基本的には頓挫してしまうことが多かった。
90年代から現在までに起こったのは、「メンバーシップ型」の雇用形態が「縮小」または「変容」しつつも、基本的には維持され続け、そこからこぼれ落ちた人は、欧米の「ジョブ型」の水準には遠く及ばないような「非正規労働」という形で働かされるようになった、という状況だった。
「正社員」と「それ以外」で大きく待遇が異なる「労働市場の二極化」は、日本が「メンバーシップ型」だからこその問題だ。
また、「入社」できた「正社員」だからといって必ずしも待遇が良いわけではなく、過度な成果主義やブラック企業問題が表面化してきて、「メンバーシップ」に入れれば安心してやっていけるというかつての常識も成り立たなくなってきた。
「全員がメンバーシップ型」は無理がある
著者は、「全員がメンバーシップ」という日本型雇用の発想だけでは無理があることを指摘する。
かつての「メンバーシップ型」は、働き方のみに着目すれば一見ブラック企業に見えるかもしれないが、労働者が解雇されにくく、長期的な保障と年功昇給が約束されていることが交換条件だった。そしてそれは、企業側が「人間」を見定めて選抜した「正社員」だからこそ可能なことだった。
そのような文脈を無視して、何らかの雇用政策によって「むりやり全員を正社員にさせる」ことをしても、「正社員」としてのコミットメントの交換条件となるような恩恵の部分が形骸化し、正社員としての義務は果たさなければならないが見返りのない「義務だけ正社員(ブラック企業)」を生み出すだけの結果になってしまう可能性が高いと著者は見ている。「全員がメンバーシップ型」という処方箋には無理があるのだ。
また著者は、実定の労働法と「メンバーシップ型」という現実との大きな違いを、放置し続けることの問題点を指摘している。
第1章でも述べたが、雇用や労働に関する日本の法律は「ジョブ型」の発想に基づいているが、それが現実を反映しているわけではなく、裁判所の判例などによって現実とすり合わせようとしてきた。
日本の実定労働法制は基本的にジョブ型労働社会を前提として構築されています。メンバーシップ型のあり方はそうした法律の規定にもかかわらず現実の企業と労働者たちがその方が望ましいと判断して自主的自発的に作り上げてきた慣行に過ぎず、判例法理もそのような現実社会の慣行を前提として個々の事案にふさわしい解決が可能となるように結果的に形成されてきたものです。実定労働法の前提から逸脱したそのような慣行を、それ以外の労働のあり方が許されないような絶対的法的規範と思い込んで、企業や労働者に強制することができると考えるのは、日本の労働法の構造についてかなり大きな考え違いをしているというべきでしょう。
そして、そうした「全員メンバーシップ」型処方箋の最大の問題点は、「メンバーシップ」型の働き方が職務や時間、空間の無限定という、本来労働者にとって容易に受け入れがたいはずの本質的な権利の放棄と抱き合せになっているということに対して、あまり問題意識がなさそうに見えることです。そうした無限定性が前章で述べたブラック企業現象を生み出す土壌になっているということから目をそらしてはいけません。
日本の「ブラック企業」現象は、「メンバーシップ型」という仕組みの上に成り立っている。そして、「全員メンバーシップ」を政策的に推し進めようとしても、長期的に存続できるかわからないような中小企業などが、長期雇用や年功昇進などの「メンバーシップ型」のメリットを整備できるわけではない。
「メンバーシップ型」をむりやり押し付けようとする政策は、「メンバーシップ型」の義務はあるけど権利はないという、「ブラック企業」化を進めてしまうことにもなりかねない。
「全員がジョブ型」にも無理がある
「全員がメンバーシップ型」は無理があるが、かといって「全員がジョブ型」にも無理がある。
「ジョブ型」社会は、多くの日本人が想像しているよりも、「若年失業率の増加」という大きな問題に直面している。
本書で引用されている、OECDの報告書では、学校卒業後の若者を
- 勝ち組
- うまく入り込めなかった新参者
- 取り残された若者
- 教育に戻った若者
の4つに分類している。
OECDの定義によると、もっとも成功しているグループに分類される「勝ち組」は、「教育を離れた後の5年以上の期間、その期間の大部分(70%以上)において雇用に就いており、学校を離れてから初職を見つけるのにかかった期間が6ヶ月未満の若者」となる。
これは、若年失業率が高くなりやすい欧米の「ジョブ型」の基準だが、日本の「メンバーシップ型」の社会で言えば、ほとんどの若者が「勝ち組」に分類される。
様々な問題があるとはいえ、現在も日本は「若者が職を見つける」ことの難易度が低い社会といえる。
「ジョブ型」への転換は、若者の失業率が大きく増加することでもあり、そのようなデメリットに対して社会的な合意を得るのは難しい。
また、「偏差値」という「能力一元主義」の基準を重視してきた若者を、いきなり「ジョブ型」に放り出そうとしても、大きな混乱が生じることになる。
「メンバーシップ型」にまったくメリットがないわけではなく、すでに日本社会に根付いてしまっているので、完全に「ジョブ型」に転換してしまうというのも現実的ではない。
「ジョブ型正社員」を提唱
著者は、「全員がメンバーシップ型」という形で雇用を守るのは無理としつつも、「全員がジョブ型」も現実的でないとしている。
だが、「正社員」と「非正規」の格差という「労働市場の二極分化」は、現在の日本社会の大きな問題になっていて、その解決を図るために、「ジョブ型正社員」へのシフトを提案している。
著者の言う「ジョブ型正社員」は
- 非正規雇用のような有期契約ではなく、無期契約
- 勤続年数に比例して賃金が上がるとは限らない
- 仕事がなくなったという理由での解雇整理が可能
という働き方のことだ。
現在の日本の雇用システムの大きな問題は、「正社員」と「非正規」の格差が大きすぎて、「幹部候補として働く正社員」か、「保障のない環境で働く非正規雇用」の二者択一なってしまうことにある。
「正規か非正規かの二者択一」ではなく、まずはその中間に位置する雇用形態を整備しようという提案が「ジョブ型正社員」だ。
日本の雇用システム上、仕事自体は一時的なものではなく恒常的にあっても、正規ではなく非正規というやり方で雇わざるを得なくなってしまう。もし「正社員」として雇ってしまうと、「その仕事がなくなったときに解雇整理ができない」からだ。
だから企業は、たとえ長期的に雇用したい場合でも、非正規の雇用契約を結び、期間が満了したらそれを更新する、を繰り返す。これは「メンバーシップ型」社会の矛盾ゆえだが、それに苦しんでいる労働者が現実にいる。
- 恒常性を見込める仕事に長期間従事しているのに、非正規雇用に追いやられている労働者がいる
- しかし、「正社員」として雇用してしまうと、その仕事がなくなったときに解雇できなくなるので、企業側も雇えない
というのが、「メンバーシップ型」ゆえの問題であり、従来のような「解雇できない正社員」ではないが、「恒常的な仕事をこなす無期契約の社員」という枠組みができることで、救われる労働者がいるのではないか、というのが「ジョブ型正社員」の提案だ。
そしてそれは、「賃金が年功で上がるわけではなく、仕事がなくなれば解雇整理の対象になる」という「ジョブ型」の欠点も正しく取り入れた働き方でなければ、まともに機能するものにはなりにくい。
実は、2012年に改正された労働契約法の法改正で、「5年以上有期契約を反復更新してきた有期契約労働者が希望すれば無期契約に転換できる」という新たな規定が設けられた。これは実質的に、著者の言う「ジョブ型正社員」を進める改正だ。
日本における「正社員」は、いわゆる「幹部候補」の位置づけだが、全員にその働き方を適用するのは、労働者にとっても経営者にとっても無理がある。一方で、「正社員」以外の「非正規」は、権利が整備されておらず、低い待遇に追いやられがちだ。
このような、「正規か非正規かの二者択一」を脱して、より現実に見合った働き方を整備していく必要がある。
解説・検証
『若者と労働』は、濱口桂一郎の書籍の中でも、「若者」というテーマがはっきりしていて、最後までわかりやすく読めるものになっている。
原理的なシステムを分析しようとしているので、直接的に役に立つという内容ではないかもしれないが、就職活動を控える「若者」であれば頭に入れておきたい内容であることは間違いない。
就職活動において、「ジョブ型」の文脈で「スキル」をアピールしようとしても、業種にもよるかもしれないが、現在の日本企業ではあまり成功しない場合が多い。「正社員」の雇用において、日本企業が求めているのは、ポテンシャルや人柄などの「メンバーシップ型」の要素だからだ。
当サイトでは、小熊英二『日本社会のしくみ』の記事も書いていて、これも「日本の雇用」を扱った書籍だ。


『若者と労働』が、「現状どうなっていて、これからどうしていくべきか?」を論じているものとすれば、『日本社会のしくみ』は、「どのような経緯で現状が出来上がったのか?」について書いている。
『若者と労働』では、「メンバーシップ型」と「ジョブ型」という形で日本と欧米の雇用システムの違いの仕組みを説明しているが、「そのような違いがどこからできたのか?」について知りたいのであれば、『日本社会のしくみ』が参考になる。
なお、『若者と労働』では、90年代以降に「入社」システムが縮小したゆえに、若者が就職できなかったと述べている。一方、『日本社会のしくみ』では、「雇用労働者の増加」と「進学率の上昇」によって、「正社員」になれない人が増えたと説明している。
「入社」の枠が縮小したというのも間違いではないが、それより大きな要因として、「正社員の枠に応募する人が増えた」というのが『日本社会のしくみ』が論じていることだ。
近代化にともなって、かつては自営業者や家族従業者だった者が雇用労働者として働かざるをえなくなり、「正社員」の割合自体はそれほど変わっていなくとも、「雇用労働者における正社員の比率は下がった」と説明している。これについて詳しくは、『日本社会のしくみ』の要約と解説を読んでほしい。
日本社会は「ジョブ型」を幾度も志向しながら、あまりうまくいってこなかった、という経緯が『若者と労働』に書かれている。「労働法の重視」「世界的な基準の重視」という点で言えば、「ジョブ型」が本来の働き方である、というのはおかしな考え方ではない。とは言え、「ジョブ型」にも欠点は多くある。
近年では、著者の濱口桂一郎は、「ジョブ型」の労働社会も限界をむかえていて、「ジョブからタスクへ」と移り変わりつつあると述べている。
濱口 桂一郎氏 『メンバーシップ型・ジョブ型の「次」の模索が始まっている』-リクルートワークス研究所
これについては『日本社会のしくみ』でも論じられていたが、「ジョブ型」にしろ「メンバーシップ型」にしろ、どちらも限界を迎えている。「メンバーシップ型」の問題点は言わずもがなだが、「ジョブ型」にしても、社会の変化が急速で、「ジョブ」として身につけたスキルや資格が役に立たないものになってしまうという根本的な問題がある。
20世紀に確立した「働き方」が、21世紀には無理なものになってきているというのが現状だ。とはいえ、これからに対応していくためにも、過去から現時点まで続く雇用の仕組みを学ぶことは、無駄にはならないだろう。
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