濱口桂一郎『働く女子の運命』の要約と解説【1/2】

濱口桂一郎著『働く女子の運命』「要約と解説」をしていく。

著者の濱口桂一郎は、労働法、労働政策の専門家で、『新しい労働社会』『日本の雇用と労働法』『若者と労働』『日本の雇用と中高年』など、日本の労働に関する一般書をいくつも書いている。

『若者と労働』に関しては、以前「要約と解説」の記事を書いている。

濱口桂一郎『若者と労働』の要約と解説① 濱口桂一郎『若者と労働』の要約と解説②

 

当記事で「要約と解説」を試みる『働く女子の運命』は、「日本人の働き方」の特徴と問題点について、「働く女性」という視点からまとめた本だ。

 

実は、日本の「男女平等」は、六法全書に載っている法律を見る限り、欧米諸国と遜色ないという。しかし、女性管理職などの割合を評価するジェンダーギャップ指数において、日本にランクは先進国の中で著しく低い。

法律の条文には現れない、女性の活躍を阻害する要因が日本社会に存在する。本書はそれを明らかにしている。

「キャリア」や「ワークライフバランス」に悩む女性を意識して書かれた内容だが、当然ながら男性の立場からも読んでおきたい一冊と言える。

「メンバーシップ型」と「ジョブ型」について

まず、著者の濱口桂一郎は、日本の働き方を「メンバーシップ型」、欧米の働き方を「ジョブ型」と分類している。こられは、話の前提となるものなので、最初に理解しておく必要がある。

(「ジョブ/メンバーシップ」の話は、他の濱口桂一郎の書籍でも繰り返し出てくるので、すでに内容を知っているという方は読み飛ばしても問題ない。)

  • 「ジョブ型」は、「職務」が先にあり、後から「人」を集める。
  • 「メンバーシップ型」は、「人」が先にあり、後から「職務」を割りふる。
  • 「ジョブ型」は、「職務能力」を重視し、専門性や経験を見るが、それ以外の年齢や性別といった要素を考慮しないのが原則となっている。
  • 「メンバーシップ型」は、「社員であること」を重視し、出世のためには「同一企業での勤続年数」が最も大きなファクターになる。
  • 「ジョブ型」は、「職務契約」を重視するので、経営側の勝手な判断で契約した以外の仕事をさせることはできない。日本によくある過剰な残業や転勤は、契約違反になる。
  • 「メンバーシップ型」の場合、社員は「職務、時間、空間」を限定せず、経営側の要求に応えなければならない。その代わり、簡単に解雇されず、勤続年数に従って賃金が上がっていく。
  • 「ジョブ型」は、「仕事がなくなった」という理由での解雇が起こるので、人材の流動性が高くなりやすい。
  • 「メンバーシップ型」は、「仕事がなくなった」という理由で社員を辞めさせられず、また年功序列により社員側も辞めにくいので、人材の流動性が低くなりやすい。

 

「ジョブ型」と「メンバーシップ型」に関しては、『若者と労働』の「要約と解説」の前半により詳しく書いているので、ちゃんと内容を知りたいのであれば以下を読んでもらいたい。

濱口桂一郎『若者と労働』の要約と解説①

 

また、小熊英二著『日本社会のしくみ』の第2章「日本の働き方、世界の働き方」にも、日本と欧米の働き方を比較する記述があり、できればこちらも参考にしてほしい。

小熊英二『日本社会のしくみ』第2章の要約と解説【日本の働き方、世界の働き方】

 

「メンバーシップ型」の短所が社会問題に直結する例として

  • 過剰労働を招きやすい
  • 一度会社を退職すると再就職が難しくなりやすい
  • 「正社員(メンバー)」と「非正規」の派遣やバイトとの格差が大きくなりやすい

などが挙げられる。

ただ、「日本は遅れているのでジョブ型にするべき」という単純な話ではない。日本において、「ジョブ型」への転換を目指す政策は運動は何度かあったが、成功してこなかった。

「メンバーシップ型」は、まったく不合理な仕組みというわけではなく、それなりのメリットもあった。

例えば、「ジョブ型」の場合は、不況が訪れたり、そのジョブ自体が廃れたりすると、大量の失業者が発生する。一方で「メンバーシップ型」は、人員を自由に配置できるという意味では企業が変化に適応しやすく、簡単に社員を辞めさせられないので、「ジョブ型」と比べて失業が発生しにくかった。

また、企業と社員との信頼関係が生まれやすく、全員がある程度は出世していくので、労働者の平均的なモラルが高くなりやすい。このような「日本的経営」は、80年代の頃はうまく行っていて、国外からも注目されるほどだった。

だが、バブル崩壊以降は、「メンバーシップ型」の欠点が目立つようになっていき、現在も「働き方改革」が求められている。

「メンバーシップ型」を前提とした「日本的経営」は、メリットとデメリットを併せ持つシステムだ。

しかし、「働く女性」という文脈で言えば、「ジョブ型」と比べて「メンバーシップ型」は女性が不利になりやすい。

あるいは、「メンバーシップ型」に適した男女平等政策を、日本社会が見つけ出せていない。

 

序章 日本の女性はなぜ「活躍」できないのか?

欧米もかつては男尊女卑の社会で、女性が男性の職場に進出していくことに対しては、大きな批判と抵抗があった。

だが、「職務能力」と「職務契約」を重視する「ジョブ型」は、「同じ仕事をしているなら同じ待遇(同一労働同一賃金)」であり、この仕組みに乗って、女性が男性の職域に進出していった。

日本の「メンバーシップ型」の場合は、新卒入社から定年退職までの長期間にわたり、会社に忠誠心を持って働き続けることが求められるので、結婚や妊娠によって「会社へのフルコミット」が難しくなりやすい女性は、「ジョブ型」と比べて不利になる。

もっとも、「ジョブ型」における「同一労働同一賃金」だけでも、男女平等は片手落ちだ。「同一労働同一賃金」であっても、男性が「賃金の高い仕事」を独占し、女性が「賃金の低い仕事」に追いやられる状況であれば、制度だけ見れば男女平等でも、実質的にはそうではない。

「同一労働同一賃金」は前提条件であり、それがあるからといって男女平等が実現したわけではなかった。欧米では、男女が違う仕事に就きやすいことが格差の原因とされ、雇用において女性を優遇して待遇の良い仕事の男女比を同じにしようとする「アファーマティブ・アクション」「ポジティブ・アクション」が展開されてきた。

日本の場合、そもそも「職務」が明確に規定されていないので、仕事の内容が男女で別れることはあまりない。「ジョブ」という括りで見た場合、性差は欧米よりも少ない。だが、長期的なキャリアで見た場合、男女でまったく異なるコースをたどることが多い。

日本の男女平等政策は、「女性も男性と同様の出世コースに乗ることができる」という方向性で行われた。しかし、日本型雇用における「男性正社員」は、「生活面を妻にサポートしてもらいながら企業にフルコミットできる人材」を前提としている。

そのような「男性正社員」と同じ土俵で戦わなければならない「総合職」の女性たちは、結婚や出産などによって実質的にキャリアを中断せざるを得なくなることが多い。

たとえ「形式的には平等」であっても、「実質的な平等」は達成できていない。

 

 

 

第1章 女子という身分

第1章では、明治から戦後までの、「働く女子」の歴史を記述している。

戦前から戦後まで一貫した「女性の働き方」の特徴は、結婚する年齢になると退職する「短期勤続」にあった。

 

「女工」という女性労働者

明治から大正にかけて、日本の労働者の多くの割合を占めたのが、繊維工業で働く若い「女工」だった。これは、女性の労働という点で見れば、他の先進国と比べてもはるかに高い水準だった。

しかし、女工たちの多くは農村からの出稼ぎ労働力で、勤続年数は極めて短かった。

近代的な紡績工場の黎明期に働いていた女性は、女性の中でもエリートとされる良家の子女が多かったが、やがて単純な労働力の需要が激増し、農村からの出稼ぎ女工が主となっていった。

とにかく労働力に対する需要があり、当時の企業における最大の問題は女工の募集難だった。そのため、悪辣な募集人が十代の少女を騙して工場に連れてくるといったやり方が横行し、国レベルで募集人の取り締まりが行われるようになった。

1903年に、農商務省から刊行された『職工事情』は、工場法立案のための基礎資料として作成されたものだが、女工たちの悲惨な労働の実態が記録されていて、日本の労働事情に関する古典の位置づけになっている。

政府は、労働条件の改善に取り組んだが、繊維産業界の猛烈な反対にあって対応は遅れた。労働条件改善のための工場法は、1911年に制定され、1916年から施行された。

細井和喜蔵による『女工哀史』が刊行された1925年頃になると、悪辣な募集はなくなり、「特定地域からの固定的な採用」と「結婚退職」がセットになるくらいまで、「女工」という働き方の定着が進んでいた。

単純労働力として若い女性が採用され、「結婚して退職していく」という慣行は、早くは戦前の「女工」の働き方に見られる。

 

「女性は若いうちに退職して結婚するもの」という常識

現在にも続く日本の女性労働問題は、「結婚して早期退職していくことが前提」という制度(あるいは慣行)にある。

「女子若年定年制」は、「女工」の働き方にも見られたが、1930年代には、銀行や大企業を中心に制度として導入される。

例えば、当時の日本勧業銀行(現在のみずほ銀行の前身)は、「女子就職戦線のあこがれの的」だったのだが、1939年には、女子事務員の28歳定年制が導入された。

定年制ができる以前は、自己都合退職をした女性は少額しか退職金がもらえなかったが、28歳を上限に退職しなければならない代わりに、勤続年数に比例した一定の金額が与えられることになった。ようするに「早期退職」の制度化だった。この制度を導入した銀行側の弁は「婚期を逸することがないようにするため」だった。

1936年に国が定めた「退職積立金及退職手当法」は、女子労働者に対して、退職手当の支給を義務化したものだった。女子労働者が「結婚して仕事をやめる際」には、自己都合退職ではなく、「定年」と同じ扱いで退職手当が支払われるというものだ。実は、経営側はこの制度に対して反対していたが、全日本労働総同盟婦人部をはじめとする女性団体が、「家族制度の維持」を理由に制度を支持していた。

当時は、女性の間にも、「女性は若いうちに退職して結婚するもの」という意識が強固にあったのだ。

 

戦時中における女子活用と戦後の衰退

男性が戦闘員として駆り出された戦時中には、「女子勤労動員」が起こり、かつては男性がやっていた仕事に女性が参入するようになった。

1943年の「労務調整令改正」は、女子で代替できる仕事は、男子の就業を禁止または制限するもので、事務補助者、現金出納係、店員売子、外交員、集金人、出改札係、車掌などの仕事が対象になった。これにより、ホワイトカラーの職場への女子の進出が加速した。

戦時中は「女子若年定年」を維持できなくなり、さらに戦局が進行すると、女性の動員は、ホワイトカラーのみならずブルーカラーの職場まで拡大された。

戦時中の女子勤労動員の影響は大きく、多くの労働組合に「婦人部」が作られた。だが、終戦直後、復員者の失業対策のために、女子を中心とした人員整理が政府によって進められた。労働組合の婦人部は解雇反対運動に取り組んだが、戦後の女子労働者は戦時中と比べて激減した。

 

「短期勤続」という形の女性差別

著者は、戦前と戦後を貫く女性の労働の特色を、「短期勤続」にあると言う。

戦時中という例外を除いて、「女性が働くのは結婚するまでの短期間」というのが社会の常識だった。

この常識は、日本の「メンバーシップ型」の制度と組み合わさる形で強固になっていた。

1966年に、企業と労働組合(全国金属労働組合東急くろがね支部)との間で、男子55歳、女子30歳を定年とする「労働協約」が結ばれた。この協約によって定年になった女性が会社を訴えた「東急機関工業事件(東京地裁昭和44年7月1日、労働者勝訴)」において、会社側の言い分としては、「年功制で賃金が上がっていく以上、補助的な職務を担当している女子がいつまでも会社に残れば、女子の賃金が不当に高くなってしまい、男性社員からの不満とモラルの低下を引き起こす」というようなものだった。

実は、企業のこのような見解を、「労働組合」も支持していた。戦後日本の労働組合は、「賃金の一律上昇」を要求することで、労働者の権利を確保しようとしてきた。そのため、女性が「短期勤続」に従わずに企業に残り続けると、自分たちの要求にとって不利になると組合は考えていた。

女性従業員を長期間雇えないことに関して、企業側も組合側も同じ認識を持ち、「女子若年定年制」の導入で解決しようとする点においても意見を一致させていた。また、女性の間でも「結婚前の社会経験として企業で働く」という意識が当時はあった。

(なお、労働者たちが「社員の平等」を求めて、戦後に起こった経営側と組合側の労働争議に関しては、小熊英二『日本社会のしくみ』の主に第6章の内容が詳しい。「女性の働き方」という文脈からはややそれるが、より詳しく知りたいならば以下を参考にしてほしい。)

小熊英二『日本社会のしくみ』第6章の要約と解説【民主化と「社員の平等」】

以上のように、「日本型雇用」の女性差別は、「短期勤続」という形で起こっていた。

  • 欧米の「ジョブ型」は、「女性は給料の低い仕事に追いやられる」という格差
  • 日本の「メンバーシップ型」は、「女性は早期退職に追いやられる」という格差

「女性は結婚して退職するもの」という慣行と、日本型雇用に特徴的な「年功的な賃金制度」が組み合わさり、日本において、「女性は若いうちだけ働いてすぐに辞めるもの」という差別が強固なものになっていた。

 

第2章 女房子供を養う賃金

日本の賃金制度は、「職務に対する給料」ではなく「家族を養っていけるだけの給料」という「生活給」の発想が強かった。

戦後、「生活給」を廃止して「職務給(同一労働同一賃金)」を導入しようとする動きが政府や経営側からあったが、日本経済の好調とともに、「生活給」が改善されずむしろ評価されていった。

 

「生活給」の発想

日本型雇用の特徴に、勤続年数によって賃金が上がっていく「年功昇給」があり、これは女性の「短期勤続」を促す要因にもなっている。

「年功昇給」の前提には、「生活給」の発想がある。

「生活給」とは、「生活していけるだけの給料」という意味で、家族を扶養する必要のない若年期にはそれほど賃金は必要ないが、家族を扶養する壮年期以後には十分な額面を支払うべき、という考え方だ。

戦前、1921に全国の工場で「労働組合」が次々と組織され、22年には「日本共産党」が結成されるなど、労働者の待遇を改善していく動きが起こった。そこにおいて、早くも「生活給」の発想が持ち出されていた。

また、戦時中、勤労は国家への奉仕であり、「賃金」は、労働に対する対価というよりは、忠義への対価として生活を保障するためのものという思想が展開される。実際に、その思想に則った雇用制度と賃金制度が、実際の法令によって規定された。

「勤労は国家への奉仕」という風潮が強い戦前の「生活給思想」は、戦後は否定されるのだが、「労働組合」の運動で「生活給」が再び持ち出される。

 

「同一労働同一賃金」を導入しようとした政府・経営側と、「生活給(年功昇給)」を掲げた労働者側

戦後には、労働側と経営側の間で激しい労働争議が起こったが、労働組合が交渉の末に勝ち取ったのは、「生活保障を大前提とした賃金」であり、年齢と扶養家族年数によって賃金が規定される、まさに「生活給」の発想だった。

戦後の労働組合は、「生活保障」を、賃金要求活動の理論的根拠としていたのだ。

(戦後の日本の労働者の民主的な活動により、「生活給」が「年功賃金」となっていった過程については、小熊英二『日本社会のしくみ』の第4章から第6章までに詳しい。興味があれば以下の記事も参考にしてほしい。)

小熊英二『日本社会のしくみ』第4章の要約と解説【「日本型雇用」の起源】

戦後、「GHQの労働諮問委員会」や「世界労働組合連盟」は、日本の賃金制度を批判し、「同一労働同一賃金」を原則とするように求めた。

また、日本の政府側の「労働省労働基準局」なども、賃金制度を合理化することを目指していた。「年齢によって給料が決まる」というのは、近代化が遅れているがゆえの不合理な賃金制度であり、労働者の流動性を阻害するという問題があると見なされた。そのため、「労務体制を正しく近代化して、職務に対する賃金を確立するべき」というのが政府側のスタンスだった。

経営権の確立を掲げて1948年に結成された「日経連」は、「生活給から能率給へ」というスローガンを掲げ、「年功制」という不合理を排除して、労働者の能力や能率を基軸とした合理的な体系を確立しようとしていた。

当時、必ずしも「男女平等のための同一労働同一賃金」が意識されていたわけではなかったが、賃金制度を合理化するべきという意図が、外圧、政府、経営側にあった。

一方、「同一労働同一賃金」を導入しようとしていた政府や経営側に対し、労働者側は、基本的には「生活給」を要求する形で対決に臨んだ。

50年に発足した労働組合の全国組織である「総評(日本労働組合総評議会)」は、賃金闘争において、賃金の「大幅値上げ」という要求一本槍で戦った。「同一労働同一賃金」の原則を入れると、職務の違う労働者間の対立を招くおそれがあったので、労働者(男性正社員)全員に適用できる「生活給(年功昇進)」が持ち出された。

 

戦後の「労使対立」は、「同一労働同一賃金」という賃金制度の合理化を図ろうとする「政府」や「経営側」に対し、「生活給」を掲げた「労働者」が団結する、という形で行われた。

 

「日本型雇用」を評価する流れに

50年代、60年代には、経営側や政府は、日本に「ジョブ型」を導入しようとしていた。しかし、労働運動は「生活給」を掲げ、実際に「年功昇給」や、「社員を辞めさせにくい」という権利を労働者たちが勝ち取ってきた。

やがて、「経営側」である「日経連」も、「日本型雇用」の「企業集団に対する忠誠心、帰属心を培養するという長所」を活かそうとする方針を打ち出すようになっていった。

「政府」も、73年のオイルショックという経済危機に直面したとき、「社員を辞めさせにくい」という「日本型雇用」の特徴を活かし、企業を支援する形で失業を減らそうとした。実際に、欧米では多くの失業者が発生したのに対して、日本は比較的失業が発生せず、海外から評価される結果になった。

「経営側」も「政府」も、当初は「ジョブ型」の方向性で賃金制度を合理化しようとしていたが、日本経済がうまくいっていることがわかると、「日本型雇用」を評価する流れになっていく。

1979年には、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルが日本型雇用を分析した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という書籍が、日本でベストセラーになった。

60年代から70年代は、当初は近代化に遅れたためと見なされていた日本人の働き方が、優れたやり方として評価されていった時期だった。

当時の日本社会には、「日本型雇用」や「生活給(年功昇給)」の仕組みを評価する思想がいくつも登場し、それらは日本経済の高いパフォーマンスによって実証されているようにも見えた。

「日本型雇用」の評価は、80年代のバブル崩壊後からは、また反転して、「ジョブ型」が再び導入されようとするのだが、80年代の半ばまでは、強い日本経済と、その要因としての「日本型雇用」が、政府、経営者、労働者たちから評価されていた。

そして、80年代は、世界的に「女性の社会進出」が課題となっていた時期だった。

 

 

以上までが、濱口桂一郎『働く女子の運命』の前半になる。

続く「後半」の「要約と解説」は以下。

濱口桂一郎『働く女子の運命』の要約と解説【2/2】

 

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