濱口桂一郎『働く女子の運命』の要約と解説をしていく。
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第3章 日本型男女平等のねじれ
80年代からは、雇用・労働における男女平等政策の流れが世界的に進んでいたが、「男女の雇用機会を均等」にすると、「強い日本経済」が破壊されてしまうと80年代には見なされていた。
そのため、85年に制定された「男女雇用機会均等法」は、十分な内容のものとは言えなかった。
女性が不利になりやすい「日本型雇用」
「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」の通称である「男女雇用機会均等法(以下、均等法)」は、1985年に制定され、86年に施行された。
80年代は、世界的に男女平等の流れが進んでいた時期で、日本においては、労働省の女性官僚たちが男女平等政策の準備に取り掛かっていた。
本書では、均等法の制定作業が本格化しようとしていた1983年に、労働省の女性官僚たちの共同執筆によって出された高橋久子編『変わりゆく婦人労働』の文章が引用されている。孫引きになるが、以下に引用する。
まず終身雇用制あるいは終身雇用的原理のもとでは、長期勤続を期待できる男子労働者と比べて、結婚、家庭責任等のために短期に退職する可能性および確率の高い婦人労働者は、企業にとって極めて不安定な労働力とみなされる。終身雇用原理の働かない他の工業国では、男子もいつやめるかわからないのだから、それに対応した雇用管理、人事政策が行われるので、女子の勤続年数が短いことがさして問題とはならないが、日本ではこのことは致命的なハンディキャップとなる。そこで経営者は、彼女等に男子と同じ訓練費用を投入することや責任あるポストに登用することをためらう。一方、女子側は、本格的な仕事を与えられない挫折感から、結婚や出産を好機として未練なく退職することになる。こうして鶏が先か卵が先かの悪循環がくり返される。
思えば、終身雇用を中心とするこの雇用慣行は、かつては日本社会の後進性を象徴するものと見られ、日本社会の近代化が進めば自ら変化し欧米型雇用慣行に脱皮していくものと考えられていた。それに伴って、婦人労働も変わり、前述のような日本的問題点も解消されるとの予測も可能であった。が、60年代以降のわが国のめざましい近代化にもかかわらず、この日本的雇用慣行はなかなか変化を見せず、むしろ石油危機等を通じてその有用性を改めて内外に評価され、今日では”三種の神器”的地位を獲得してしまった感がある。その是非は別として、どうやらこれは日本文化の一部として定着してしまい、今後とも微調整はあるにせよ、その基本パターンは続いていくことになりそうである。したがって、婦人労働問題も、日本的特異性を今後ともひきずっていかなくてはならないことになろう。
「年功昇給」が権利となっている「日本型雇用(メンバーシップ型)」は、経営者側からしても「辞めさせにくい」し、労働者側からしても「辞めにくい」。
そのため、企業は、「辞めない(長期的に働けそうな)」人材を厳選するが、このような慣行のもとでは、結婚や出産を抱える女性が著しく不利になる。
これが、「ジョブ型」では問題にならない、「日本型雇用」だからこそ起こる、「女性が不利になりやすい」仕組みであると本書で指摘される。
「ジョブ型」と比べて女性が働きにくい「メンバーシップ型」は、近代化するに従って「ジョブ型」に向かっていくだろうと思われていたが、日本経済の好調とともに、むしろ評価されるようになっていった。
「婦人労働問題も、日本的特異性を今後ともひきずっていかなくてはならないことになろう」という予言は当たっていて、現在のなお、日本の「働く女性」は、「日本型雇用」の呪縛を強く受けている。
「同一労働同一賃金」から「形式的な女性優遇」へ
欧米では、日本と違い、「ジョブ型」の仕組みに則って、女性の社会進出が進んでいったという経緯がある。しかし本書では、欧米「ジョブ型」の「同一労働同一賃金」が、必ずしも男女平等に結びつくわけではないことが指摘されている。
そもそも、「男女同一賃金」は、決して女性のために唱えられたものではなく、むしろ女性を排除するために唱えられたものなのだ。
欧米でも、男性と比べて、一般的に女性の賃金は安かった。職業機会が均等化された結果として、女性が男性の仕事に進出してきた場合、経営者は賃金の低い女性を雇いたがるので、男性の仕事の賃金を安く見積もられてしまうという危機感が、その時期の労働組合にはあった。
そこで、欧米の労働組合は、「同一労働同一賃金」を掲げ、「女性を雇っても男性と同じ賃金を支払うように」を主張した。これは一見は男女平等を目指したもののように見えるが、実質的には女性の雇用を阻み、男性の雇用を守ることを意図したものだった。
「男性でも女性でも同じ賃金を支払われなければならない」のであれば、経営者は男性のほうを選びやすく、女性は選ばれにくい。妊娠・出産などの女性が抱えるハンデは、「メンバーシップ型」において重大なものとなるが、「ジョブ型」の雇用においても決して無視できる要素ではない。
もともと、欧米で唱えられた「男女同一賃金」の原則は、「男女平等」のためではなく、男性の雇用を守るための「男性分離」のためのものだった。
(この「女性が雇用されにくくなる」理屈に関しては、欧米の「ジョブ型」社会において、職務経験のない若者と、職務経験のある中高年が、「同一労働同一賃金」であるがゆえに「若者が雇用されにくくなる」という社会問題にも似ている。これについては、詳しくは『若者と労働』の「要約と解説」を参考。)

実際に、「ジョブ型」社会における男女の不平等は、「スキルが高く評価されるジョブが男性に独占され、無技能のジョブに女性が押し込められる」という形で起こっていた。
そこで、欧米のとった解決策が、「男女同一賃金」を前提とした上での、雇用面での積極的な「女性優遇」だった。
「形式的な男女平等」が「実質的な女性排除」となる現状が明らかだったので、「形式的には機械均等に反する女性優遇をしてこそ、実質的な男女平等が実現する」という考え方が主流になった。これは、アメリカでは「アファーマティブ・アクション」、欧州では「ポジティブ・アクション」と呼ばれる。
機会の均等だけでは決して男女平等にたどり着かないので、あえて女性を優遇する「アファーマティブ・アクション/ポジティブ・アクション」を行わなければ、男女平等は実現しないと考えるのだ。
しかし、欧州の「ポジティブ・アクション」をめぐって、機会を奪われた男性が訴訟を起こした例などが本書では紹介されているが、「どこからが正当な女性優遇で、どこからが行き過ぎた女性優遇なのか?」というのは、大きく物議を醸すトピックになっている。
「ジョブ型」の欧米においても、「アファーマティブ・アクション/ポジティブ・アクション」といった火種を含んだやり方をしなければ、男女平等は難しい。
中途半端になった85年の「均等法」
85年の「均等法」を作り上げたのは、赤松良子をリーダーとする労働省の女性官僚たちだった。
戦前には、キャリア官僚というコースがそもそも女性に開かれていなかった。
戦後、形式的には女性にも官僚への受験資格が開放されたのだが、試験に合格しても採用する省庁はほとんどなかった。例外的に毎年女性を採用し続けたのが「労働省」で、その理由は、婦人少年局に女性用の局長ポストや課長ポストがあったからだ。
赤松良子は、53年に入省し婦人少年局長になったが、労働省と言えども女性を積極的に活用しようとしていたわけではなかった。鬱屈した思いを抱えていた赤松良子たち女性官僚が、均等法を作り上げようと奮闘したのだ。
男女平等政策が日本でも始動したのは、国連の動きが大きかった。
67年の国連総会が「婦人差別撤廃宣言」を採択し、1975年を「国際婦人年」と定め、85年までの10年間の世界行動計画が採択された。この10年間は「国連婦人の10年」と呼ばれ、日本政府に対しても、85年までには男女平等法制を作らなければならない外圧として効果を発揮した。
85年の「均等法」制定に向けて、様々な議論が行われたが、経営側は「均等法」に反対し、赤松良子ら婦人少年局長サイドと対立した。
結果的に、85年の「均等法」は、募集・採用から配置・昇進に至るまでを努力義務にとどめ、教育訓練や福利厚生の差別禁止も一部に留まった。明確に禁止されたのは「定年・退職・解雇」といった分野だけだったが、これらに関しては、均等法以前からすでに判例などで確立していたものでもあった。
均等法は後に、より男女平等な形に改正されていくが、85年の時点では中途半端な内容だった。
「均等法」が「日本型雇用」を壊すものと見なされた80年代の風潮
「均等法」が整備されようとしていた80年代前半は、日本人の間で「日本型雇用」の優位性が声高く叫ばれていた時代だった。そして、雇用における男女平等の歩みは、「強い日本型雇用」を切り崩すものと見なされていた。
経営型からも、労働者側からも、「均等法」に反対する意見が多かったが、それは、「均等法」が、「日本型雇用に悪影響をもたらし、国際競争力の低下を招くのではないか」という危機感から来ていた。欧米の「ジョブ型」に根ざした男女平等政策は、日本の「メンバーシップ型」と相性が悪く、それを導入することで、「柔軟な人員配置」などの日本経済ならではの強みが潰されてしまうと考える人が多かった。
欧米の「ジョブ型」においても、男女平等のために女性優遇をする「ポジティブ・アクション」は様々な議論を巻き起こしたものの、それが雇用システムを根幹から脅かすものとは見なされなかった。
一方で、日本の「メンバーシップ型」の場合、男女平等政策を進めることが、当時においては礼賛されていた日本独自の雇用システムの弱体化に繋がると考えられていたので、抵抗はより激しく、「均等法」の成果も中途半端なものになった。
ただ、少なくとも形式的には「均等法」を意識した取り組みがなされ、主に大企業において、「コース別雇用管理」が導入された。現在の大企業にも見られる「総合職」と「一般職」の違いは、85年の「均等法」によって生まれたものだ。
しかしこれは、要は、それ以前の男性正社員の働き方を「総合職」、女性正社員の働き方を「一般職」という形で制度化したに過ぎない。「一般職」が「短期勤続」という実態が変化したわけではなかった。
男性が「一般職」になることも、実際にはほとんどないにも関わらず、制度上はあり得ることにして、「均等法」に対応した人事制度の体裁を整えた。
女性も「総合職」になれるという、「形式的な平等」がひとまず達成されたと見ることもできる。ただ、「メンバーシップ型」の制度のもと会社にフルコミットしなければならない「総合職」が女性にも開かれたからといって、「実質的な男女平等」には程遠かった。
第4章 均等世代から育休世代へ
「日本型雇用」の幻想が薄れ、市場主義が進んでいった90年代からは、「女性を労働力として活用しよう」という風潮が強くなる。また、「少子化」に対する危機感から、「育児休職制度」などが整備されていく。
しかし、「日本型雇用」の根幹が変わらないまま、欧米を参考にした男女平等政策を取り入れているので、様々な齟齬が生じている。
「女性労働力の活用」を目指した、90年代の「均等法」改正
バブル崩壊後の90年代からは、80年代ほど「日本型雇用」への信頼はなく、むしろ日本型雇用への不満が噴出してくる時期だった。
その時期の風潮の一つとして、「女性労働力を積極的に活用すべし」という方針が、経営側からも打ち出されるようになっていった。
「日経連」は、「春闘(毎年の春に行う全国的な労働交渉)」で、経営側の姿勢を明らかにするために公表する「労働問題研究委員会報告」の1993年版において
女性の労働は、新たな労働力の確保という点だけでなく、女性の機会均等、社会進出の促進という観点からも重要である。この問題への対応は、企業の人事方針の基本として、個々人の適正に応じて仕事に従事させ、成果によって処遇することを徹底することからはじまる。……さらに、男性中心の考え方で構築されがちな種々のシステムや考え方の見直しに加えて、企業のなかに女性の活躍を積極的に位置づけるという管理職の意識改革や組織風土の醸成を図り、それを根づかせていく経営トップの方針を明確にすることが求められる
と、女性の社会進出を促し、女性労働力を活用していこうとする方針を発表した。
そのような流れのもと、1997年には、均等法が大幅に改正されることになった。
85年とは違い、「定年、退職、解雇」のみならず、「募集、採用」における差別の禁止に加え、その実効性を確保するための措置の強化が目指された。また、時間外、休日労働、深夜業に係る労働基準法の「女子保護規定」が撤廃された。
形式的な平等ではなく、実質的な平等を目指す「ポジティブ・アクション」の観点が加わり、単なる「男性並みに働く権利が得られる」ではなく、「女性労働者が性別により差別されることなく、かつ、母性を尊重されつつ充実した職業生活を営むことができるようにすることをその基本理念とする」となり、男女差を踏まえた上での、実質的な男女平等が意図されるようになった。
「セクシュアル・ハラスメント」の問題が、取り組むべき新しい課題とされたのも97年の改正からだった。
少なくとも法律上の男女平等に関しては、90年代に大きな進歩を見せた。
ただ、90年代は、市場原理を重視する「ネオリベラリズム」の思想が日本に流入し、「非正規労働」が増えた時期でもあった。
本書では、「均等法」が改正が成立した1997年は、それ以前の日本の女性労働のベーシックモデルだった「OL」というあり方が、大きく揺さぶられた年であったことも述べられている。
多くの企業が、「一般職」の女子を採用しなくなり、同じ仕事のために「派遣社員」を雇用するようになった。また、目に見える変化として、OLには企業ごとの制服があるのが常識だったが、それを廃止する企業が相次いだ。
なお、OLの制服の廃止は、男女平等の文脈からは肯定されるものかもしれないが、経費削減できる企業側は肯定的で、当のOLたちは制服の廃止に猛烈に反対する人が多かったという。
「転勤」を必須とするのは「間接差別」なのではないか、という視点
90年代半ばからは、女性「総合職」の本格的な活用が始まったが、とはいえ「メンバーシップ型」の働き方それ自体を変えようとするものではなかった。つまり、もともとあった「総合職(男性正社員の働き方)」の門戸を女性にも開く、という形で男女平等政策が行われた。
しかし、
- 「職務、時間、空間」を問わない会社へのコミットが求められる「日本型雇用」
- 女性にかかり続ける家事負担や育児負担
の2つを両立することは難しい。
そのため、「総合職」が女性に開放されたあとの女性労働問題の焦点は、「総合職という働き方」と「女性が直面する家事や育児の問題」との矛盾に当てられていくことになる。
「メンバーシップ型」の働き方の中でも、とりわけ「転勤」については、「女性差別問題」であると捉える政策視点が2000年代から出てくる。
女性に「転勤」を要求することが女性差別に繋がるのではないか、という考え方で、これは、欧米で発達した「間接差別法理」に影響されている。
「ポジティブ・アクション」が進んでいた欧州では、「間接差別法理」という、表面的には平等だが、実質的には差別的な機能が働く制度に対処する法理が発達していた。例えばEUでは、「パートタイマーの多くは女性労働者だから」という理屈で、同一労働をしているパートタイマーに対して低い処遇を与えることを「間接差別」と捉える「法理」が成り立つ。
欧州の「間接差別法理」を日本の雇用状況に適用する形で、男性よりも女性は「転勤」のコストが高く、「転勤」を「総合職」の必須条件とするのは女性差別なのではないか、という考えが、2006年には均等法に盛り込まれた。
手厚いが使いにくい「育児休職制度」
「育児休職制度」は、働く女性を支援するうえで、非常に重要な制度と位置づけられることが多い。
日本で初めて「育児休職制度」が導入されたのは、電電公社(現在のNTT)であり、早くも1965年には協約として確立していく。
法制度としては、1975年に議員立法で成立した「義務教育諸学校等の女子職員及び医療施設、社会福祉施設等の看護婦、保母等の育児休業に関する法律」が最初だった。
早い時期に成立した「育児休職制度」は、電話交換手、教師、看護師など、出産や育児で退職されては困る特定の職種の女性を働かせ続けるためのもので、そうでない女性に適用されるものではなかった。また、男性には適用されない「女性のみ」の制度だった。
女性全員に、そして男性にも適用される「育児休業法」が成立したのは1991年だった。これが成立した背景には「少子化」がある。
日本の合計特殊出生率は、89年に「1.57」、90年に「1.53」と、著しく低下していて、これを見て自民党首脳部が「育児休業法」の立法化を決断した。つまり、日本における育児休業、ワークライフバランス政策の政治的原動力は、「少子化」への危機感に端を発していた。
実は、少なくとも法律上、日本の「育児休職制度」はしっかりと整備されていき、かなり手厚くなっている。例えば、育児休業中の所得保障を雇用保険財政から一部まかなう「育児休業給付」は、94年には25%だったが、次第に拡充されて、2014年には(最初の6ヶ月に限って)67%にもなる。また、2009年からは、子供が3歳になるまで、短時間勤務の権利や、時間外労働の免除が義務化された。
著者は、
六法全書の上の法律の規定を見る限り、日本のワークライフバランス法制はどの先進国に比べても遜色はありません
とすら述べている。
しかし、非正規労働者」には育児休業の権利はほとんどなく、増大し続けているのは非正規労働者のほうだ。また、法律上は男女平等に権利があることになっているが、男性が普通に制度を利用するという実態はなく、女性専用の片面的な制度になっている。
そして、育児休業の権利が手厚くなったことで、同じ「総合職」の間に不平等が生まれるということが起こっている。育休をとった社員が残業をしないぶんだけ、他の「総合職」社員にそのしわ寄せがいく。
個々の仕事が明確な「ジョブ型」と違って、「メンバーシップ型」の働き方は個々の職務が曖昧かつ「その場の全員で仕事に取り組む」という形になりやすい。日本における正社員の働き方では、「育児休業をとった社員」と、他の「総合職正社員」との労働強度の差が大きくなりすぎ、それが社員間の不満に繋がる例が多い。
このような状況では、制度が準備されていても、それを安心して使えなくなるという問題が出てくる。
法律の文言を見る限り、実は日本のワークライフバランス関連の制度は充実している。しかし現実的には、「手厚くとも使いにくい」ものになってしまっている。
ワークライフバランス
日本においては、現在もなお、労働時間を緩和してより自由に働けるようにすることで、ワークライフバランスの実現や、女性の社会進出が進むという論調が強い。この理由として、日本が参考にしているヨーロッパの文脈において、労働時間の柔軟化が労働者のワークライフバランスに繋がるという議論が多く見られるからだ。
しかし、「労働時間の緩和=ワークライフバランス」について、重大な前提の違いが考慮されていないことを著者は指摘する。日本のヨーロッパとでは、「労働時間規制」における前提が異なるからだ。
著者は、EUにおけるワークライフバランス政策を「第一次ワークライフバランス」、「第二次ワークライフバランス」と分けて説明する。
- 「第一次ワークライフバランス」は、「労働時間の規制」によって成立する
- 「第二次ワークライフバランス」は、「労働時間の柔軟性」によって成立する
「第一次ワークライフバランス」は、「労働時間が規制」されているからこそ、例えば、子供に朝食を作ってから会社に向かい、家に帰ってから子供に夕食を作ってあげることができる。
「第二次ワークライフバランス」は、「第一次」の「労働時間の規制」を前提にした上で、保育所に預けた子供を迎えに行くために同僚より早く帰るとか、子供が病気になった場合に休暇をとるといった、「労働時間の柔軟性」を目指すものだ。
上の見出しで述べたが、日本において、「第二次ワークライフバランス」に類する制度は、欧米と比較しても遜色ないという。しかし日本の問題は、「第一次ワークライフバランス」の「労働時間の規制」が空洞化してしまっていることだ。
例えばヨーロッパでは、「毎日必ず11時間は仕事から離れて過ごす時間を確保しなければならない」などの規定があり、基本的にはこれがしっかり守られる。「労働規制の規制」という「第一次ワークライフバランス」の土台がしっかりしているからこそ、「第二次」の「柔軟性」の施策が意味を持つ。
日本では、週40時間労働の規制が、実質的には空洞化している。そのような中で「第二次」が議論されがちだが、「第一次」の労働時間規制がしっかり行われるようにしなければ意味がない。
「まずは労働時間を制限をまともにやれ」ということなのだが、日本の働き方は、その「前提」となる部分ができていない。
そして、「第一次ワークライフバランス」が空洞化している中、しっかり整備された「第二次ワークライフバランス」が持ち込まれることで、「総合職」間の不平等の拡大という、日本特有の問題が発生する。
同じ「総合職」でも、「育休を取得した者」と「通常の総合職の基準で働く者」との間で、労働時間や労働負担の格差が生じ、それゆえに対立が高まったり、制度の利用を思い留まらせたりしてしまう。
「女性が働ける働き方」を基準にすべき
著者は、「男女平等を考えなくてよかった時代の男性正社員の働き方」を基準として、「女性の活用を促す」という形の男女平等の無理を指摘する。
「総合職」という日本人の働き方は、「妻のサポートを受けながら職務・時間・空間を限定せず働く正社員男性」がデフォルトとなっている。そこが変わらないまま「女性も男性と同様に働けるように」としたところで無理があるし、育児・介護の責任を持とうとする男性にも無理が出てくる。
日本の大企業は、会社にフルコミットする男性正社員を、仕事内容や労働時間や場所にこだわらず配置できる「究極の柔軟性」を駆使し、それは実際に強い日本経済をもたらしたという成功体験がある。それゆえに、欧米の男女平等政策の前提となる「労働時間の規制」などが空洞化している。
日本において行われた男女平等政策は、「女性も男性と同じ制度で働けるようにする」ことと、「育児休業などのサポートを女性に与える」ことだったが、土台となる「第一次ワークライフバランス(労働時間の規制)」が徹底されていないので、様々な不具合が生じている。
『若者と労働』で述べられた話だが、著者は「ジョブ型正社員」という働き方を提案していて、それが女性の働き方問題の解決策の一つになる可能性を指摘している。
企業における「総合職」と「一般職」の分類で言えば、女性でも「総合職」になれる、という形で進めるのではなく、むしろ「一般職」こそが適切な働き方であるというのだ。そもそも、「かつての男性正社員の基準で全員が働く」ことに無理があり、それよりは、「ほとんどの人が一般職」のほうが現実的だ。
現在は、「総合職」こそが正当な権利で、「一般職」は差別と考えられがちで、実際に待遇面ではそうなっている。しかし、「一般職のような働き方」こそが、むしろ働き方としては基準とすべきものであり、「総合職」の前提となる「妻のサポート+会社にフルコミット」を解体していくこと(少なくとも全員がその制度で働くという前提を捨てること)が必要だ。
「総合職」に要求される基準が高いまま、休業制度などで「総合職」の女性の労働問題を解決しようとしても、様々な齟齬が起きやすい。
まとめと解説
簡単なまとめ
日本にしても欧米にしても、女性は「働く」から排除されてきた。
労働における男女平等の機運が高まってきたのは80年代で、当時の日本も先進国としてその問題に取り組もうとはしてきた。
しかし、日本が参考にしようとした欧米とでは、「ジョブ型」「メンバーシップ型」という働き方の違いがあった。
「ジョブ型」は、「同一労働同一賃金」が労働者の権利として重視されていた。その「同一労働同一賃金」を女性にも適用したあと、待遇の良いジョブに男性が偏らないように、「アファーマティブ・アクション(ポジティブ・アクション)」で雇用における女性の優遇を図ることで、男女平等が目指された。
しかし、「メンバーシップ型」の日本は、そもそも「同一労働同一賃金」ではない。日本の男女平等政策は、「かつての男性正社員」を「総合職」として、そのキャリアを女性にも開放する、という形で行われた。しかし、「メンバーシップ型」の「日本型雇用」の働き方それ自体が、「ワークライフバランス」を考えるうえで都合が悪く、家事・出産・育児の責任を負いやすい女性にとって不利に働くという部分は解決されなかった。
日本は、主に「少子化」の危機感から、「育児休業」などの女性へのサポートは、欧米と遜色ないほど充実させてきた。しかし、ワークライフバランスの前提となる「労働時間の規制」が「メンバーシップ型」ゆえに空洞化してしまっているので、土台のぐらついた、使いにくい制度となってしまっている。
働く女性の運命は?
本書のタイトルからして、「働く女性の運命はどうなるのか?」と気になった方もいるかもしれない。
著者は本書を、
多重に錯綜する日本型雇用の縮小と濃縮と変形のはざまで振り回される現代の女子の運命は、なお濃い霧の中にあるようです。
と結んでいる。
結論としては「模索中」であり、具体的な解決策や働き方の指針を求めて本書を手にとった人からすると、ややミスマッチだったかもしれない。もっとも、様々な働き方改革が言われる中で、起こっている問題の前提すら理解できていない人が大半であり、本書の内容を踏まえておくことは無駄にはならないだろう。
ただ、労働時間に詳しい著者からしても、日本の「働き方」における男女平等の問題はかなり難しいという認識なのが見て取れる。(欧米にしてもそれほど問題なくうまくいっているわけではないが。)
「メンバーシップ型」は、現在もなお日本人の働き方に深く根付いているので、そう簡単に変えることはできないし、その部分に、日本だからこそ起こる女性の不利が発生している。
本書出版後の状況は?
『働く女子の運命』は2015年に出版されたが、2018年には、「労働基準法」の約70年ぶりの大改正があった。背景としては、電通に勤務していた女性社員の、違法残業からの過労自殺がある。
これまで、時間外労働(残業)は、労使協定しだいで実質的に青天井だったが、「月45時間、年360時間」、繁忙期でも「月100時間未満」を法律で定め、違反した場合には明確な罰金が課せられるようになった。
70年ぶりの働き方改革は、本書で言われている「第一次ワークライフバランス」の「労働時間の規制」が進められたと見ることができる。センセーショナルな事件の結果ではあるが、「まずは労働時間の規制をしっかりやろう」というオーソドックスな方向に向かった。
とはいえ、本書で指摘されてきた「総合職(日本型雇用)」や「非正規雇用」の問題が解決に向かっているとは言い切れない。
今後も時代に合わせた「働き方改革」が必要になり、それを行ううえでも、本書で論じられている内容はよく踏まえておきたい。
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