GDP(国内総生産)が国の豊かさを反映しない理由【GDPの欠陥・問題点】

「GDP(Gross Domestic Product:国内総生産)」は、「一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額」とされている。

名目GDPや実質GDPや集計方法の議論など、ややこしい話も色々あるのだが、ようは「国内でどれだけのものが生産されたか?」を表す指標が「GDP」だ。

「国内で生み出された物やサービスを合計して、インフレや物価変動や購買力などの考慮して補正したもの」「GDP」として、国ごとに比較したり、年度ごとに比較したりしている。

かつて、日本はGDPが世界第2位の国だったが、今は中国に抜かされたので、第3位だ。

ただ、今回は、GDP(国内総生産)は、本当にその国の豊かさを表せている指標なのか?という話をする。

GDPに否定的なスタンスの論者としては、「経済統計よりも人口統計のほうが信用できる」と主張するエマニュエル・トッドなどが有名だが、多くの経済学者や社会学者が、GDPの欠陥・問題点を指摘している。

例えば、デイヴィッド・ピリング『幻想の経済成長』は、海外では話題になっているGDP批判の本だ。

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早川書房

 

他に、似たような問題意識で話題になっている著書としては、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』が挙げられるだろう。

 

ここでは、手短にGDPの欠陥を指摘しているテキストである、ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』の第5章「GDPの大いなる詐術」を下敷きにして、

  • GDPは本当に経済の実態を反映している指標なのか?
  • どのような経緯でGDPが生み出されたのか?
  • GDPに替わる経済指標はあるのか?

などについて解説していく。

 

GDPは豊かさを反映しない

「GDP(国内総生産)」は、現在、世界中で使用されている指標であり、最も信頼されている経済統計と言っても過言ではない。

しかし、20世紀の工業化の時代と違って、サービス業が主流になった21世紀の先進国においては、あまり有用な指標ではなくなってきている。

「GDP」は長らく、「豊かさ」や「国の経済力」の指標と見なされてきたが、物質的な豊かさが達成され、サービス業が統計の多くを占めるようになった現在は、時代に対応できていないものになっている。

「GDP」には、「市場で取引されない価値を計測できない」という根本的な欠陥があるのだ。

身近な例を出すなら、

  • コンビニの食品のクオリティが上がって美味しくなった
  • 娯楽作品のクオリティが上がって面白くなった

など、普通の人が素朴に考えて「豊かになった」と思うような現象は、GDPの増加を特にもたらさない。

むしろ上の例は、GDP的にはマイナスに働く可能性も十分にある。

人間の胃袋や可処分所得は特に変わらないので、「美味しすぎてたくさん買ってしまう」「面白すぎてたくさん課金してしまう」ならまだしも、「美味しいので少量で満足してしまう」「面白いので長く遊んでしまう」という場合は、市場で取引されるお金の総量が減るので、GDPはマイナスだ。

つまり、「ご飯が美味しい」とか「めちゃくちゃ面白いゲームが出た」というような「豊かさ」は、GDPに反映されにくい。

住居、衣服、家電、電信機器などを例に出しても、「より満足できる、より性能が高い、より物持ちが良い」という形に進化すると、新しいものが必要とされなくなるので、GDPを低くする方向に働く。

素朴に「良くなった」とされるような改良の成果を、GDPは評価することができない。

「モノを作るほど売れる」という時代ならば、「GDPの向上=豊かさの向上」と考えられるだろうが、現在はそうではなくなっている。

 

苦しみが多いほどGDPが増える?

では逆に、21世紀において、どうすればGDPは向上するのだろうか?

典型的な例として、それ以前は「家庭」「身内」「共同体」でやっていたことを、「市場」に任せるとGDPが上がる。

家事をアウトソーシングして「家事代行」を雇えば、市場での取引が生まれたことになるので、GDPは上がる。

家庭内で夫婦の喧嘩が起こったとき、自分たちで解決するのではなく、お互いに弁護士を雇ったほうが、GDP的にはプラスだ。

GDPの観点から見て、世界最強の国はアメリカだ。GDPが最も高い国であることはもちろん、「一人あたりGDP」にしても、人口が少ない国ほど有利であることを加味すれば、アメリカは頭一つ抜けていると言えるだろう。

しかしアメリカは、その「経済力」の反面、深刻な社会問題を非常に多く抱える国である。

「GDP」や「一人あたりGDP」のランキングを上げることを目的にするなら、多くの国はアメリカを見習うべきとなるが、アメリカの社会問題の深刻さを見る限り、それが正しいこととは思いにくい。

ルトガー・ブレグマンは、苦しみが多いほどGDPが増える矛盾について述べている。

やや誇張した表現かもしれないが、以下に引用したい。

 GDPは多くの成果を無視する一方、人類のあらゆる苦しみから恩恵を受ける。交通渋滞、薬物濫用、不倫はどうだろう? それぞれガソリンスタンド、リハビリ・センター、離婚弁護士にとってはドル箱だ。GDPにとって理想的な市民は、がんを患うギャンブル狂で、離婚調停が長引くせいでプロザック(抗うつ剤)を常用し、ブラック・フライデー[クリスマスセールの初日]には狂ったように買い物にふける人だ。環境汚染でさえ、GDPにとっては二重の恩恵となる。ある企業が環境対策をおろそかにして儲け、別の企業がその尻ぬぐいをして儲けるからだ。それに対して、樹齢100年の古木は、伐採されて丸太として販売されるまで、GDPには計上されない。
精神疾患や肥満、汚染、犯罪は、GDPの観点からは、多ければ多いほどよい。そのことは、一人あたりのGDPが世界で最も高いアメリカが、社会問題でも世界のトップに立っている理由でもある。経済を専門とするライターのジョナサン・ロウはこう語る。
「GDPの観点から言えば、アメリカで最悪の家庭は、家族として機能している家庭だ。すなわち、自分たちで料理し、夕食後に皆で散歩したり、話したりして、子どもたちを商業文化に任せっきりにしない家庭である」
(ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』第5章「GDPの大いなる詐術」)

「市場で取引されたものを計測する」というGDPの性質上、市場で交換されない種類の「豊かさ」は、GDPにとっては無価値になる。また、市場で解決されるタイプの不幸は、多ければ多いほどGDPにとってプラスになることを、ブレグマンは指摘している。

GDPの最大化を目指すなら、「人類のあらゆる要素が市場でやり取りされるべき」となるが、それは多くの人間がイメージする「豊かさ」や「幸福」とはかけ離れているだろう。

 

GDPはいつ発明されたのか?

では、そもそも「GDP」という指標は、いつ、どこで、どのようにして発明されたのだろうか?

「GDP」は、1930年代のアメリカで、経済学者のサイモン・クズネッツによって、そのベースが作られた。

1920年代終わりのアメリカは、世界恐慌による不況の底にあった。「経済」を反映する指標が当時は存在しなかったので、不況になってホームレスが増え、企業の倒産が相次いでいても、問題の本当の大きさを把握することができなかった。

世界恐慌がきっかけでアメリカは、細切れで無秩序なデータではなく、「国の経済」を反映する信頼性の高い経済指標を希求するようになったのだ。

30年代のアメリカ政府は、優秀な統計学者たちを招集するなどして、「経済指標」を作らせようとした。アメリカに雇われた若いロシア人の経済学者であるサイモン・クズネッツが、数年かけて「GDP」の基礎を固め、その結果、「国民所得」や「国民総生産」というアイデアが普及していった。

20世紀は工業的な「生産」に国力が左右される時代であり、「GDP」は国力や経済力の尺度として非常に有用なものだった。

戦車、飛行機、爆弾などをどれだけ製造しているかは、戦時において重要な指標で、「GDP」はそれを見事に反映していた。世界大戦後も、家電や自動車やパソコンが国民に普及するまでは、「GDP」は重要な指標であり続けた。。

だが、上で述べてきたように、工業製品がすでに行き渡り、サービス業が主要になっている21世紀の先進国の豊かさを表す上では、「GDP」は適切なものではなくなってきている。

 

GDPに変わる指標はあるか?

GDPには多くの欠陥があるので、それに替わる経済指標を提唱する試みもある。

例えば、

  • ブータンが提唱している、「国民総幸福量」
  • アメリカのNGO「リディファイニング・プログレス」が提唱している、「GPI(Genuine Progress Indicator:真の進歩指標)」
  • 経済学者ハーマン・デイリー、ジョン・コップが提唱している、「ISEW(Index of sustainable economic welfare:持続可能な経済福祉指標)」

などである。

しかしこのような試みについても、ブレグマンは「信用する気になれない」と述べている。

何らかの指標には、設定した人の意図と主観が混じりこみ、多くの人が納得できる客観的なものを作るのは非常に難しい。

なお、経済分野におけるハードサイエンスと見なされがちな「GDP」も、何をどう集計するかに関して、膨大な主観が入り込んでいる。

GDPの算出などについて詳しくは、ダイアン・コイル『GDP――〈小さくて大きな数字〉の歴史』などの書籍がおすすめである。

ちなみに、GDPの考案によって1971年にノーベル経済学賞を需要しているサイモン・クズネッツは、GDPを算定する際に、軍事、広告、金融部門の支出を含めることを咎めている。しかし発案者の意図とは離れ、アメリカにおける軍事費の対GDP比は高いし、広告産業と金融産業は、現代の多くの主要先進国のGDPに寄与している。

何を「生産」とするかは定義の問題であり、客観的と思われがちな「GDP」という指標も、実は様々な主観と利害に左右されるものなのだ。

しかしそれでも、広く使われている指標であるだけに、多くの経済学者の精査を経てはいるので、GDPの客観性を担保する努力は続けられている。

GDPは、欠陥と問題の多い指標ではあるが、それでも、現時点では、GDPに替わるほどの客観性を持つ指標は存在しない。

 

GDPにとらわれすぎてはいけない

ここまでの話をまとめると

  • 「豊かさ」を向上させてもGDPに反映されないことがある
  • 「苦しみ」が多いほどGDPが増えることがある
  • GDPは20世紀の工業化の時代に発明された
  • 工業化の時代には、GDPは国の豊かさをうまく反映していた
  • サービス業中心の時代になると、GDPが正しく豊かさを反映しているとは言えなくなった
  • GDPは作為的な指標でもあるが、客観性のために多くの労力が注がれており、現在も使われ続けている

となる。

現状では、GDPは決して無価値な指標とは言えない。何らかの客観性のある指標は重要であり、GDPに替わる有用な指標が他にあるわけではない。

しかし、GDPという指標が限界を迎えているのも確かで、「豊かさの向上=GDPの向上」と素朴に考えるべきではいだろう。

指標は実態を正しく把握するための手段であるはずで、手段に目的が引きずられる形になるのは、本末転倒というべき事態だ。

日本の場合は「社会保障制度が経済成長を前提に構築されている」などの事情もあるのだが、それでも、GDPを神聖視せずに、21世紀における「豊かさ」を考える視点を持ちたい。

 

なお、「GDPの向上=豊かさの向上」と素朴に言うことができないのであれば、近年の日本で言われている「生産性」という概念も疑って然るべきである。なぜなら、生産性とは「GDP」を「就業者数」や「労働時間」で割って算出しているからだ。

当サイトでは、「日本人の労働生産性が低い」論を批判する記事も書いているので、よければ以下も見ていってほしい。

「日本人の労働生産性が低い」論を批判する!生産性の向上を目指すべきか?

 

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