TwitterなどのSNSや、YouTubeなどの大衆向けメディアでは、「経営者を批判する」系のものが数としては圧倒的に多い。
なぜそうなるかというと、「労働者」が多数派で、「経営者」が少数派だからだろう。
経営者が「加害者」で、労働者は「被害者」とされることが多いが、「数の力」では、圧倒的に労働者が勝っているのだ。
実際のところ、ほどんどの経営者は、労働者を搾取するどころか、非常につらい立場に追いやられていることが多い。
そして、今起こっているのは、「経営者がつらいからこそ、労働者もつらくなっている」という状況だ。
今回は、「世の中が経営者に厳しすぎる!」ことの問題について述べていきたい。
目次
経営者になりたいと思う人が減っている
中小企業庁の「中小企業白書」のデータによると、ここ30年ほど、起業を希望する人は減少傾向にある。
(グラフは、「2019年版中小企業白書 第2-2-10図-男女別に見た、起業を希望する者の推移」から引用)
「副業」に関して言えば、それほど減ってはおらず、むしろ微増の傾向すら見られる。
だが、「起業」となると、希望者の数は大きく減っている。
特に「男性起業希望者」の減りは顕著で、20年ほど前と比べて半分以下になっている。
メディアなどでは、「起業」や「新しいビジネス」が取り上げられがちで、盛り上がっているような印象を受けるかもしれないが、実際に「経営者になりたい」と思う人は、大きく減っているのが現状だ。
経営者に課せられる義務が重すぎる問題
労働者は数が多いので、ページビュー数が重要なメディアやSNSでは「労働者視点」のものが流行りやすい。
だが、「経営者の視点」に立ってみると、めちゃくちゃ理不尽な要求を突きつけられていることがわかる。
日本の場合、「経営者に厳しい制度」の典型例は、「解雇の難しさ」だ。
例えば日本には、以下のような裁判所の判例がある。
- 高知放送事件・最高裁(寝坊による放送事故を2週間に2回も起こした上に、2回目は嘘の報告書を提出したアナウンサーでも、解雇は無効)
- 東京エムケイ事件・東京地裁(視力低下で免許を喪失し勤務できなくなったタクシー運転手を、タクシー会社は解雇できない)
- 山田紡績事件・名古屋高裁(経営悪化で紡績部門を閉鎖し、そこで働いていた労働者を解雇しようとしたが、会社が破綻したわけではないので、解雇は無効)
など、「判例法理」上、日本の企業は、正社員として雇用した労働者を簡単に解雇できないようになっている。
たとえ労働者がめちゃくちゃ無能で、仕事のやる気がなかったとしても、だからといって解雇できるわけではないのだ。
上で出した判例は大企業のものであり、中小企業の多くでは、直接的な話し合いによって決まる場合も多いが、それを加味しても、「新しく会社を立ち上げて人を採用しようとする」経営者にとっては、理不尽とも言えるような厳しい制度と言えるだろう。
一方で、労働者は、退職届を出せば、ノーリスクですぐに会社を辞めることができる。(2週間前の申告でOK)
また、当然ながら、経営者は労働者に給料を払い続けなければならないし、労働者は賃金を貰う権利が労働法によってしっかり保護される。
- 経営者は、成果を出せない労働者を解雇することができず、必ず給料を支払わなければならない
- 労働者には、いつでも会社を辞められる権利や、絶対に給料を支払わせる権利が、労働法によって厚く保護されている
現在の労働法において、労働者の権利はめちゃくちゃ手厚いので、少なくとも制度上は「労働者が強く、経営者が弱い」のだ。
なお、上で出した判例などについては、水町勇一郎『労働法入門』などの書籍が一般向けの解説本としてわかりやすい。詳しく知りたい人は参考にしてほしい。

20世紀の「使用者と労働者」のイメージが、現在も続いている
もっとも、労働法は経営者を制限するために生まれたものなので、「経営者に厳しい」のは当然のことと言える。
水町勇一郎『労働法入門』の解説によると、「労働」はその性質上、使用者と労働者との「自由な契約」にまかせておくと、使用者(経営者)が有利になり、労働者が劣悪な待遇に追いやられやすい。
労働契約の性質として、
- 「人間的性格」……労働契約は働く人間そのものを取引の対象とする
- 「経済的格差」……労働者は、会社(使用者)に比べ、経済的に弱い立場に立たされていることが多い
- 「自由の欠如」……労働者は働くときに自由を奪われていることが多い
があり、労働者が不利になってしまうことが多いので、「労働法」によって経営者に義務を課す必要があるのだ。
19世紀後半から20世紀前半は、経営側による、労働者の搾取が激しい時代だった。その対応として、経営者から労働者を守るための「労働法」が重視された。
20世紀に確立された様々な労働者の保護は、非常に意味のあるものだったと言えるだろう。
しかし、「経営者になりたい人が減り続けている」21世紀において、「経営者の義務を増やす」20世紀的な政策が続けられている。
日本では、2018年に、8本の労働法の改正が行う「働き方改革関連法」が可決された。幅広い内容だが、「時間外労働の上限規制」や「有給休暇の消化義務」など、基本的には「経営者の義務を増やす」という発想のものが多い。
だが、このようにして、経営者の負担を増やし続けた場合、本当に困るのは労働者側かもしれない。
なぜなら、経営者が減るほど、労働者の待遇が悪くなるからだ。
経営者が減れば、労働者が厳しくなる
経営者か労働者かというのは、それほど堺があるわけではなく、流動的だ。
起業して会社を作れば、誰もが人を雇用する立場の「経営者」になるし、「経営者」をやめて雇用される「労働者」に戻る人もいる。
そして、単純に考えて、人を雇う立場の「経営者」が減るほど、「労働者余り」が起こるので、「労働者」は厳しい競争や、失業に晒されやすい。
逆に言えば、「経営者になりたがる人が多い社会」は、「労働者の取り合い」が起こるので、労働者の待遇が勝手に改善されていく。
経営者も労働者も同じ人間かつ、立場が入れ替わりやすいものであり、「経営者に優しい社会は労働者にも優しい社会」だし、「経営者に厳しい社会は労働者にも厳しい社会」なのだ。
労働者は多数派なので、メディアの言説や、インターネット上の言論では、「経営者に厳しく!」というものが支持されやすい。しかし、それは巡り巡って、労働者たちの首を締めている。
労働者の待遇を改善する方法として
- 経営者に義務を課す
- 経営者余りの、労働者の売り手市場にする
という2つがあるとする。
経営者と労働者の間に圧倒的な格差があった19世紀後半から20世紀前半は、①の方向性で、ルール作りをちゃんとやっていくことが重要だった。
しかし、①を進めるほど②が成り立たなくなり、民主化が進んだ現在は、①と②バランスを考える必要がある。
規制を増やせば増やすほど、「経営者」が減っていき、「労働者余り」が起きる。
仮に、制度上は労働者の保障が充実していても、「雇用されるまでに過酷な競争に晒される」という形で、結局は「労働者に厳しい社会」になってしまう。
「働き方」を規制することの難しさ
ここで述べてきた労使の問題は、「法律(一括ルール)」で規制することの難しさに直面しているようにも思える。
ひとえに「労働」といっても、世の中には多種多様な働き方があり、それを「法律」という抽象的な一括ルールによって規制するのは、必ず不満や矛盾や破綻が生じる。ただ、場合分けで対応しようとルールを細分化しすぎても、複雑すぎて一般人がアクセスできないものになってしまう。
それゆえに、例えば「労働法」に関しては、企業と労働組合による「労働協約」という法源が認められたり、日本においては企業の「就業規則」や、裁判所による「判例法理」が重視されてきたという経緯がある。
ただ、全体の流れとしては、
- 例外規定はあるものの、大企業を想定して作られたルールが、これから起業する人にも基本的には適用される
- 労働法の改正などに伴って、経営者が守らなければならないルールが増え続けている
と言える。
このような流れの上で、経営者になって人を雇用することのハードルが高くなり続けている。それが、「経営者になりたい人が減り、労働者の競争も激しくなる」という結果につながっている。
不満を持つ多くの労働者は、経営者に対して、ますますのルールの追加を望むかもしれないが、それこそが、「経営者不足、労働者余り」という形で、自分たちの首を締めるのだ。
メディアなどで取り上げられがちな経営者は、「横暴な強者」というイメージを抱かせる人もいるし、実際のところ、経営者になろうとする人の多くは、能力とモチベーションが高いことが多く、いわゆる「弱者」ではない。だからこそ、「もっと義務を与えてもいい」と労働者側は思うのかもしれない。
だが実際に起こっているのは、人を雇用して会社を経営できるポテンシャルのある人が、「雇用するなんてバカバカしいから、プレイヤーとして頑張ろう」となる動きだ。
経営者に対する義務を増やし続けた結果、「本来ならば上司だったはずの人が競争相手に」という寓話めいた事態が起こっている。
雇用が避けられ、みんながフリーランスになる世界
近年、様々な「新しい働き方」が提唱されている。しかし、そのようなものの多くは、実際のところ、「なるべく人を雇用しないやり方」を、何かしらの形で言い換えたものだったりする。
雇用のハードルが上がり続けているので、「雇用を回避したほうが、効率的かつ納得して働きやすい」という状況が増えているのだ。
例えば、Uber、Airbnb、Apple Store、YouTube、Google AdSenseやアフィリエイトサービスなど、「雇用関係を結ばずに働かせるプラットフォーム」の影響力が増しつつある。
このような流れは、不可避的に進行していく可能性が高い。
近代化が進むほど、「個人」であるという価値観が重要なものになっていく。そして、「個人」という価値観と、「雇用(使用者が労働法を使役する)」という概念は、相性が悪い。それゆえに、「雇用」における制限が積み重なっていくのは道理だが、「雇用」を避けようとする人が増えていくのもまた道理だ。
そして、労働者が多数派の社会において、経営者に対する義務の緩和が合意されるとは思いにくい。むしろ、労働者の待遇が悪くなっていくほど、20世紀的な発想の延長で経営者の義務が増やされ続け、それがますます経営者を減らす……という悪循環が起こってしまう可能性が大いにあり得る。
「経営者がつらくなり、それゆえに労働者もつらくなる」というマクロな流れに抗うのは、もはや難しいかもしれない。今や、ますます多くの人たちが、「良き労働者である」ことよりも、「良きプレイヤー(フリーランサー)」を目指そうとしている。
上司や会社の愚痴は、平均的な日本人なら当たり前にすることだったが、これからは、何らかの不満や改善案に対して、「じゃあ会社やめてフリーランスで働けば?」という言葉がまず浴びせられるような、恐ろしい世界がやってこようとしている。
もちろん、個人でできることには限界があり、何らかの大きな仕事をするために「協力」が必要不可欠であることは変わらないだろう。
だが、今後は、「雇用の枠組みを抜け出して協力し合える人間が勝つ」という世界になっていく可能性があり、そのような可能性を念頭に入れて、キャリアや働き方を考えていくべきかもしれない。
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