日本では、学校を卒業するタイミングで「就職活動」を行う者が多数派だ。
新卒採用のための就職活動や、あるいは転職の面接などにおいて、多くの人が、就職活動を、理不尽で、くだらないものだと感じる。
- 評価の基準が明確ではなく、「人柄」や「コミュ力」のような漠然としたもので判断される
- 人事のプロではない人間に審査される
- 大学で身につけた専門スキルがあまり評価されない
- 「お祈り(内定の断り)」をされると、人格を否定されたような気がしてしまう
などの不満を抱きやすいのが、日本の「就職活動」なのだ。
ではなぜ、日本の就職活動は、多くの参加者が理不尽なものと感じてしまうものなのだろうか? その構造的な理由を、この記事で詳しく解説したい。
なお、ここでは「不満を共有する」のが目的ではなく、あくまでも「仕組みを把握して成功のために活かす」ことを目的としている。
就職活動や転職活動をするつもりの人にとって、有用な内容だと思うので、よければ参考にしていってほしい。
目次
企業側からしても日本の就活は理不尽
就職活動においては、「自分を採用する企業側が何を考えているか?」を知ることが大事だ。
そして、企業側の立場で考えても、日本の就職活動(日本型雇用)は、とても理不尽な制度なのだ。
「経営者がつらいから労働者もつらい!世の中が経営者に厳しすぎる問題」の記事で詳しく解説したが、日本の労働法において、労働者をクビにするのはとても難しい!
労働者の解雇について、どれくらい厳しいかというと
- 労働者の勤務態度が悪くても解雇できない
- 労働者がまったく成果を出せなくても解雇できない
- 労働者を雇う以前の仕事がなくなっても解雇できない
- 会社の経営が傾いても、解雇を避けるための努力をしたと認められなければ解雇できない
という感じだ。(より詳しくは、「水町勇一郎『労働法入門』の要約と解説」を参考。)
日本では、法律(判例法理)上、経営者は、雇った人間がどれだけ無能でやる気がなかったとしても、簡単に辞めさせることができない。
当の労働者たちはあまり意識していないことなのだが、実は、「労働者の権利」はめちゃくちゃ強力なものなのだ。
企業に応募する側からすると、企業側の選定に理不尽さを感じることが多いかもしれないが、企業は企業で、「雇ったら辞めさせられない」という理不尽なルールでやっていかなければならないのだ。
あなたが経営者(金を払って人を雇う側)の立場だったら、どう思うだろうか?
まったく使えない人間を雇ってしまった場合、それに対する時間的な損失、金銭的な損失はとんでもないことになるので、「なるべく失敗したくない」と思う人が多い。
外面的にはキラキラしたことを色々と言うだろうが、日本の経営者の多くは、「変な社員を掴んでしまうこと」を恐れている。そしてそれは、日本では「会社に所属し続ける」労働者の権利が強く守られているからなのだ。
「人材の流動性が低い」ことが日本型雇用システムの特徴とされるが、簡単に解雇できないがゆえに、「雇いにくいし、雇われにくい」。
「仕事ができない」とか「やらせる仕事がなくなった」という理由で解雇できないからこそ、単にスキルではなく、「一緒に長く働いていけそうか?」といった人格やポテンシャルも含めて、総合的に「人物」を判断する採用基準になりやすい。
日本の就活で「人物」が評価される構造的な要因
日本の就活において、多くの就活生が不満を持ちやすいのは、内面や志望動機のような漠然としたものが聞かれやすく、スキルや専門性が評価されにくいことにあるだろう。
ただ、これは、日本型雇用が、「専門性」ではなく「柔軟性」を重視する働き方であることに起因する。
これは、欧米の「ジョブ型」雇用に対して、「メンバーシップ型」雇用と呼ばれたりする。
詳しくは、「「ジョブ型」と「メンバーシップ型」の働き方の違いを解説する」で解説したが、欧米は「仕事」が先にあるシステムで、日本は「人」が先にあるシステムだ。
- 欧米の「ジョブ型」は、「仕事」が先で、後から「人」を集める
- 日本の「メンバーシップ型」は、「人」が先で、後から「仕事」を割り振る
「ジョブ型」の欧米社会で働く労働者は、会社を変えやすいが、職種を変えにくいので、「職種の流動性が低く、人材の流動性が高い」社会と言える。
一方で、「メンバーシップ型」の日本社会で働く労働者は、配置転換によって職種が変わるが、会社を変えにくいので、「人材の流動性が低く、職種の流動性が高い」社会といえる。
- 「ジョブ型」の欧米社会は、「職種」が変化しにくいが、「会社」は変化しやすい
- 「メンバーシップ型」の日本社会は、「職種」が変化しやすいが、「会社」が変化しにくい
「ジョブ型」の欧米の就職において重要視されるのは「職務契約」だ。企業側は、「契約した仕事をこなせなかった」「契約した仕事がなくなった」という理由で、労働者を解雇することが許される。一方で、契約した以外の仕事をさせることができない。
「いい感じに人員を配置して、いい感じにやってもらう」という柔軟な働かせ方ができないのが「ジョブ型」だ。そのため、「専門性」を活かしやすい代わりに、「柔軟性」に乏しい。
欧米でワーク・ライフ・バランスが守られるイメージが強いのは、「職務契約」が厳密で、「柔軟性」がないことが大きな要因だ。
一方で「メンバーシップ型」の日本は、経営者側の都合で、社員を柔軟に配置できるのが特徴だ。そして、だからこそ、日本の労働法では、社員の解雇に非常に厳しい制限を課している。
もし仮に、「メンバーシップ型」の働き方かつ、「社員を解雇しやすい」のであれば、「あえて成果が出にくい仕事に配置する→成果を出せないという理由で解雇」という、経営側にとって都合の良すぎるやり方が可能になる。
だから、「柔軟に社員を働かせる」と「社員を簡単に辞めさせられない」は、セットになっている必要があるのだ。
「社員を簡単に辞めさせられない」というルールは、経営者にとって理不尽なものではあるが、「人員配置の柔軟性」という「メンバーシップ型」のシステム上は、必須の条件なのだ。
逆に、欧米は、「契約した仕事しかさせられない」と「できない社員を辞めさせられる」のセットになっている。
- 日本は、「柔軟な働き方」と「社員の解雇がしにくい」のセット
- 欧米は、「限定した働き方」と「社員の解雇がしやすい」のセット
この「ジョブ型」と「メンバーシップ型」の違いは、単なる慣行やマインドの問題だけではなく、労働法によって裏付けられているものなので、個々の企業レベルで簡単に変えられるものではない。
「ジョブ型」の欧米では、契約の前提となる資格や職歴など、職務能力における客観的な基準を、ある程度は定めやすい。
一方で、長期雇用を前提に、変化に柔軟に対応していける人物を求める「メンバーシップ型」の日本は、客観的な評価基準を定めにくく、「一緒に働きたいかどうか?」とか「コミュニケーション能力があるか?」という判定基準になりやすい。
そもそもの性質からして、日本企業が欲しがる人材は、客観的な基準を定めにくいものなのだ。だからこそ、「人格」や「これまでの人生」が評価されるような、就活生にとって負担の大きな就職活動になりやすい。
(なお、強いて言えば、日本における客観的かつ重要な基準として「学歴(入学した大学の偏差値)」が機能しているのだが、建前上は「どの大学でも同じ大卒で扱う」ということになっている。)
日本企業の人事はプロフェッショナルではない
日本において、「人事部」は、非常に影響力の強い部署だ。
「人事」の強さこそが、日本企業の特徴と言ってもいいくらい、日本企業は人事が重要視される。
これは、欧米では事情が異なる。
「職務契約」が重視される欧米では、「人事」の裁量が日本企業ほど大きくない。
一方で、社員が会社を辞めにくく、「配置転換」が頻繁に行われる日本においては、「どこに誰を配属させるか?」を決める「人事」こそが、大きな影響力を持つ。
特に大企業になるほど、「人事」が、企業の核を担う重要度の高い仕事になる。
とはいえ、日本の人事は、専門家(プロフェッショナル)ではない。なぜなら、「定量的な指標」や「客観的な基準」を見出しにくい種類の仕事だからだ。
欧米のように職務範囲が限定されているならば、人物評価の客観的な基準を定めることも可能だろう。だが、日本における「人事」は、考慮すべき要素があまりにも膨大であるがゆえに、「専門化(プロフェッショナル化)」しにくい業務なのだ。
日本型雇用においては、「その企業にとってどういう人材が望ましいのか?」についての客観的な基準を定めにくく、それゆえに「人事」は重要度の高い仕事なのだ。
就活生は、会社が何らかの明確な基準を元に判断していると思っているかもしれないが、企業側も「何が正解かよくわからない」のが実情だ。
正解の無いものなので、学校のテストのように採点できるわけではない。だからこそ日本の就活は、就活生にとって「理不尽、くだらない」という印象のものになりやすいが、だからといって重要度が低いわけでは決してない。(「くだらない」就活によって、「入社できるかどうか?」という重要事項が決まるのだ!)
なお、「人材のプロフェッショナル」を名乗りたがる人はたくさんいて、SNSやYouTubeなどのメディアで影響力のある人もいるが、「転職させて手数料を稼ぐのが目的」である場合が多いので、注意が必要だ。
また、「リクルート社」などは、ビッグデータによって、日本の複雑な人事評価を定量化しようとする試みを進めている。これについてはまだ試行錯誤の段階なので言及を避けるが、「日本の人事は定量化が難しい仕事であるがゆえに、重要性が高い」という前提自体は、少なくとも短期的には変わらないだろう。
企業である以上は減点評価になりやすい
人事の仕事も、社内でパフォーマンスが評価されることは当然あり得る。
人事の判断が的確だったかどうかは、「採用」や「配置転換」後の社員の活躍によってわかる。
そのとき、ほとんどの人事は「わかりやすい失敗」を避けたがる。
なぜなら、人事の仕事においては、「成功」よりも「失敗」のほうが可視化されやすい傾向があるからだ。
「無能に見えやすいが、実は優れた人材」を採用したときのプラスと、「すぐに辞めてしまった/まったく仕事ができなかった人材」を採用したときのマイナスを秤にかけた場合、長期雇用を前提とする日本型雇用の場合、「成功」が可視化されるには時間がかかるが、「失敗」は短期的に可視化されやすい。
なかには、情熱を持って、隠れた優秀な人材を掘り当てようとする人事もいるが、ほとんどの人事は、わかりやすい失敗を避ける選択肢を選びがちだ。
「労働者を簡単に解雇できない」日本型雇用の場合は、「変な人間」を採用してしまうことのリスクが非常に大きいので、「採用」においては、人事の判断が慎重かつ保守的になりやすい。
そのため、働くうえで学歴と能力の相関がそれほど高いわけではないと考えている人事でも、「学歴」を評価して採用した場合は失敗しても言い訳になりやすいので、学歴が高ければ採用に有利になることが多い。
なお、「入社後にすぐに辞めそう」な人物は、たとえ優秀だったとしても、採用担当者からは避けられがちだ。「採用した人材がすぐに転職してしまう」のは、採用における「わかりやすい失敗」の典型例になるからだ。
また、「転職の回数が多い人は良くない評価をされやすい」というのは、表向きには否定されるだろうが、事実である場合が多い。
日本企業の人物評価における隠れた判断基準
日本企業には、社員を「採用」するときや「出世」させるときの、「隠れた判断基準」がある。
実際のところ、それほど隠れているわけではないのだが、少なくとも「おおやけに表明することができない判断基準」なのだ。
それは、「忠誠心があるかどうか」だ。
日本型雇用は、「人材の流動性の低さ(社員が辞めないこと)」を前提に、様々な部署を経験させながら、社員を育てていく。そのため、転職されたり、独立されたりすると、企業は損をするのだ。
だが、労働者の「辞める権利」は、労働法に保証されている非常に強い権利で、企業はそれを侵害することができない。そのため、「企業側は労働者を辞めさせられないが、労働者は企業を簡単に辞めることができる」という非対称性が原則になっている。
しかし、「長く世話になった企業を辞めた労働者は信用できない」というのが、今でも日本企業の本音となっている。
そのため、管理職をしていた人材がその企業を辞めた場合、別の企業で同じような待遇の管理職として働くことは基本的に難しい。
「忠誠心があるかどうか」は、強く重視される基準ではあるのだが、今どきそのような本音を企業がうっかり表明しようものならネット上で袋叩きにされるので、おおやけには表明されない「隠れた判断基準」なのだ。
「なぜ日本の管理職は無能なのか?女性比率が低い理由や欧米との違いを解説」でも述べたが、「メンバーシップ型」の日本は、「信頼できる人」が管理職になるシステムだ。
「年功序列」の日本において、出世と最も相関するファクターは、勤続年数(企業への忠誠心)であり、この仕組みはほとんどの大企業において継続中である。
もちろん、日本においても人材の流動性は高まりつつあるし、「忠誠心」を重視するような「年功序列」の仕組みが古い時代のものだと、ほとんどの労働者が思っているだろう。
ただ、「年功序列」の仕組みは、単なる考え方の問題ではなく、過去に積み上げられてきた労働法の判例や労働協約などで確立されている「労働者の権利」でもあるので、簡単に変えることは難しい。
理不尽な就職活動を乗り切るために
以上、日本の就職活動が理不尽になりやすい構造的な理由を解説してきた。
これまでの話を簡単にまとめると、
POINT
- 労働法などの日本の制度は雇用する側(経営者側)にとっても理不尽
- 日本の「人事」は、専門化しにくい種類の仕事であり、それゆえに影響力が強い
- 採用においては、成功よりも失敗のほうが可視化されやすいので、人事は保守的な評価をしがち
- 公言されることはないが、日本企業は採用や出世において、「忠誠心」を重視する
となる。
「就活がくだらない」というのは、まったくもってその通りで、大学でしっかり勉強した人ほどそう思ってしまうだろう。
だが、「日本の就職活動は理不尽ではあるが、不合理なわけではない」ことに注意する必要がある。
自分が何らかの不利益を受けたと感じたとき、その悪い面ばかりに着目してしまうのは当然だが、「ただ理不尽なだけの制度」は長期的なものにはならないので、合理的に機能している部分があるからこそ、その制度が維持され続けているのだという視点も必要である。
まったくデタラメなシステムだった場合、長期的には改善されていく。多くの人が働き続け、維持され続けているシステムである以上は、それなりに合理性が機能していて、理不尽だと感じる部分は、合理性の負の側面である場合が多い。
「日本型雇用」と言われる仕組みのメリット・デメリットについて、詳しくは、
などの記事を参考にしてほしい。
日本型雇用が限界を迎えているのは事実で、これから日本人の働き方が大きく変わっていく可能性はある。
しかし、「新卒一括採用」や「年功序列」といった日本型雇用の核となるシステムは、「もう終わり」と言われた時期から30年経った現在も、ほとんどの大企業において継続中だ。
日本型雇用は、慣習のみならず、労働法によって規定されているものでもある。つまり、「日本で会社を経営していくうえで守らなければならないルール = 日本型雇用」なので、かなり強固なものであることも事実だ。
制度的な限界はとっくに来ているし、日本型雇用を緩める法改正も進められてはいるが、「後どれくらい続くのか?」は正直わからない。現在新卒で入社する若者が、50代、60代のおじさんになるまで、なんだかんだ日本型雇用が継続している可能性も、まったくないとは言えない。
日本の就職活動は、理不尽でくだらないものではあるが、就活生であるなら、なるべく頑張ったほうがいいだろう。
新卒採用時にうまく行かなくても、その後のチャンスはいくらでもあり、それだけで大きく不利になるなんてことはない。ただ、「理不尽であることを理解した上で成果を出そうとする」経験は、今後の人生で生きてくる可能性が高い。
就職活動や転職活動をする人にとって、この記事が何らかの参考になったのなら幸いである。
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