Twitterは、素晴らしいプラットフォームだ。
情報収集をする上でも、娯楽として使う上でも、コミュニケーション目的でも、使いやすく、様々な可能性を秘めている。
しかし、ツイッター上でコモンセンスのように広まっている意見は、「一見まともそうだが実はヤバい」ものが多いので、注意が必要だ。
この記事は、「Twitterでよく見られる意見のどういうところがダメか?」を詳しく解説する内容だ。
興味のある方は読んでいってほしい。
目次
取捨選択しなくていいポジションから他人の偏りを責める
何らかの成果を出すためには、「何をやるか?」よりも「何をやらないか?」が重要になる場合が多い。
「やれるならやったほうがいい」ことは膨大にあるが、リソースが有限なので、「取捨選択」こそが成功を左右するのだ。
しかし、悪い意味でツイッターに染まったユーザーの多くは、「重要じゃないものはない」という規範を内面化している。
ツイッターで人気の「重要じゃないものはない」という意見は、人を批判するとき(特に成功者を批判するとき)に、めちゃくちゃ便利な道具だからだ。
突出的な成果を出した人や、意思決定の上流にいるほどの成功している人ほど、極端な「取捨選択」をしている場合が多い。それは成功の要因であると同時に、弱点でもある。
「天才、秀才、凡人を考える【成功するにはエリートコースを目指すべき?】」の記事でも書いたが、天才的な結果を出した人ほど、平均的な人の常識が抜け落ちて、偏っているものなのだ。
そのため、「重要じゃないものはない」というコンセプトは、成功者の至らない部分を指摘して批判するときにとても便利だ。
ツイッターは、そのプラットフォームの性質上、「大勢で個人を攻撃する」ことをしやすい。そして、「取捨選択」している個人に対して、「重要じゃないものはない」を掲げる大勢が攻撃する、という構図が見られやすい。
別の言い方をするならば、「各々の重要だと思っていること」を持ち寄った総体としての「重要じゃないものはない」が、多数派が団結して少数派を攻撃するときの旗印になっている。
つまり、「重要じゃないものはない」という価値観を掲げて、「取捨選択しなくていいポジションから他人の偏りを責める」のが、悪質なツイッターユーザーたちやり方なのだ。
しかし、「ツイッターで批判する我々」ではなく、「この社会を生きていく個人」とした場合、「やらなければならないこと(取捨選択)」と、「重要じゃないものはない」という価値観は、バッティングしてしまう。
そのため、ツイッターの価値観に染まると成功から遠ざかる。あるいは、成功を諦めた人がツイッターに引き寄せられるのだ。
もう少し具体的な例を出そう。
ツイッターは、テキスト主体という性質上、大学に職のある人など、学術的な訓練を修めたユーザーが多い。そして彼らは、政治家や経営者が何らかの分野を軽視するような発言をしたときに、「重要じゃないものはない」という類の主張をしがちだ。
しかしこれは、悪い意味でツイッターのコモンセンスに染まってしまった状態と言えるだろう。
研究費を削ろうとする政府などに対して、「重要じゃないものはない」というロジックで批判をする意見が見られるが、これは、批判する側に正当性がない。
なぜなら、学術研究を可能にする立場や設備は、「取捨選択」の結果だからである。
「『サピエンス全史』の「科学」の記述から考える、博士の待遇が悪く学術研究がつらい理由【ポスドク問題】」の記事で詳しく述べたが、近代国家による学術機関は、戦争を目的として作られた場合が多く、日本は特にそうだ。
現在、学術研究とされるものは、そのカテゴリーや、その立場が、「取捨選択」によって形成されたものだ。
「重要じゃないものはない」のであれば、学術に収まらない、個人の何気ない創意や作為も同じように重要なのであり、だからこそ学術は不当に支援されている、という理屈も正当性を持つ。
学者の立場であれば、研究費を削ろうとしてくる政府に対しては、「自分の研究は○○という理由で他よりも重要だ」と主張するのが道理だ。しかし、ツイッターのコモンセンス上では、「すべてのものが重要なので、○○の研究費を削るのはおかしい」という矛盾した理屈がまかり通っている。
もっとも、学者として職を得られる人は頭の良い人が多いので、たいていは上で述べてきたような理屈くらいは承知している。しかし、ツイッターで大勢を味方につけるために「重要じゃないものはない」を多用するようになると、いつのまにかそこに染まってしまう。
「重要じゃないものはない」というコンセプト自体は間違っていないが、だとすると、「あらゆるものがそれぞれに大事ですね」で話は終わりだ。
何らかの主張をしたり、人を非難するときに、「重要じゃないものはない」を掲げるのは簡単なやり方だが、自己矛盾を抱えてしまうことになる。
意思決定の重要性を理解できていない
上で述べた「重要じゃないものはない」に繋がる話だが、ツイッターのコモンセンスは、「意思決定(取捨選択する仕事)」の価値を低く見積もりすぎている。
「意思決定」をする仕事の代表格は、「政治家」と「経営者」だが、ツイッターはそれらを叩くためのサービスみたいなところがある。
もともと、「指示される側の人間」のほうが数としては圧倒的に多数派な上に、意思決定の重要性を理解しているような人間ほど、あまりツイッターの意見のようなものにリソースを割かないというのが理由だろう。
ツイッター上で多くのユーザーに刺さりやすい類型のひとつに、「優秀な自分が無能な上司に苦しめられている」というものがある。
客観的に考えた場合、「無能な上司に苦しめられているのにその職場に居続け、ツイッターで愚痴を吐き続ける」時点で、当人こそが無能である場合が多い。
そもそも、「ちゃんと勉強してものごとを理解する能力がある」とか「言われたことをちゃんとこなせる」というのは、「バカが考えがちな優秀さ」であり、結果の大部分を左右するのは「意思決定」のフェイズだ。
そのため、年収や社会的地位の高い人ほど、「様々な利害対立があるなかで、どうやって意思決定のフェイズに関与するか」を考える。
労働者として、政治家や社長や上司の意思決定に文句を言いたくなるのは当然のことだが、意思決定はたいていの場合、様々な利害が入り組んだ中で行われることが多いし、「無能なのに意思決定権を持っている人間がやらかす」みたいなことは、そんなには起こらない。
「無能な上司」のような牧歌的な現象は、ビジネスが成熟するほど淘汰されていくし、現在ビジネスの前線で意思決定をしている人間は、何かしらの形で能力があると考えたほうがいいだろう。
そして、「言われたことをこなす能力がある自分を優秀であると自認しながら、意思決定に文句をつける労働者」は、勉強ができようがスキルを持っていようが、優秀な人間ではない場合が多い。
世の中には、たしかに横暴な上司も存在する。
だが、
- 部下に完璧な働きを期待する上司
- 上司に完璧なオペレーションを期待する部下
は、どっちもどっちだろう。
「上の人間が技術や知識を軽視している」という系の不満がツイッターでは人気だが、その不満を言うツイッターユーザーたちも「意思決定」の重要さを理解していないので、お互い様なのだ。
そして、「優秀な部下が無能な上司に苦しめられる系ポルノ」をツイッター上で好んで摂取している時点で、おそらく、より無能なのは部下の側である可能性が高い。
「言語による抽象化」と「共感の追求」の最悪のコンボ
ツイッターは、テキスト主体のプラットフォームだが、「細部や過程を捨象して、自分に有利な情報だけを抽出しやすい」のがテキストの特徴のひとつだ。
言語による抽象化に加えて、「リツイート」や「ライク」など、ツイッターは「共感」が数値化される特徴を持つ。
ツイッターでは、「言語化による抽象化」と「共感の追求」の最悪のコンボによって、かなりヤバいことになっているつぶやきが見られる。
具体例として、「夫に文句を言う妻」系のツイートがわかりやすいかもしれない。
例えば、「共働きなのに家事をしない夫」という「言葉」からは、夫に悪い印象を持つ場合が多いだろう。
だが、同じ「共働き」という言葉で括られても、妻のほうは年収が低く、夫のほうは激務高給の場合は、妻のほうが家事を担当することで、双方の負担が釣り合う場合も考えられる。また、夫婦の間には、これまでの関係性や立ち位置など、様々な文脈があるだろう。
しかし、そういう「詳細がない」まま、「共働きなのに家事をしない夫」に対する不満がツイートされただけで、それに対して膨大な「リツイート」や「ライク」がつくことがある。
この手のツイートは、具体的なことがあまり説明されず、「詳細がない」からこそ、各々のユーザーが抱えている不満にヒットする。
抽象化されたテキストに対して、それぞれの共感(不満)が反響し合う、というのがツイッターで見られる光景であり、これが一概に悪いとは言えないが、問題は「投稿の質に対しての共感の多さ」だ。
SNSのバズにおける通常の考え方は、何かしら面白いもの、興味深いもの、趣向をこらしたものが、評価されて広まっていく、というものだろう。
しかし、「言語による抽象化」と「共感の追求」のコンボの場合はその限りではなく、特にひねりのない単純な不満の表明に、膨大な数の共感が集まる。
他人の事情を詮索する筋合いはないにしても、「この程度の投稿に、これほど多くの共感が集まって、この人の人生はこれから大丈夫なのだろうか?」と思ってしまうケースが、ツイッターでは見られる。
幼少期から使い切れないほどの金を親から与えられている子供を見ると不安になるように、「簡単なツイートで膨大な共感を得られるようになった人」にも似たようなものがある。
かけた労力とその見返りについての常識的な感覚を持つ人なら、「簡単なツイートに対して膨大な共感」に対して、「これはあかんやつや」となるだろうが、歯止めが効かなくなったケースがツイッターでは多々見られるようになっており、その意味でツイッターは危険性のあるメディアであるとも言える。
ツイッターでは極端な意見ほど目に入りやすい
「ツイッターでよく見る(拡散されている)意見」=「大勢から支持されている意見」と素朴に考えてしまいがちだが、ツイッターは、普通じゃない考え方のほうが注目されやすい。
コンビニでよく見る食品は「みんなが普段から食べているもの」と言えるかもしれないが、ツイッターでよく見るツイートは「みんなが普段から思っていること」ではない。
「当たり前すぎること」は、いちいちツイートしたりしないし、リツイートしたりもしない。
「普通じゃない極端なものだからこそ、面白いので拡散される」傾向が強いのがツイッターだ。
そして、現実で満たされている人、成功している人、熱中することがある人は、そもそも一生懸命ツイッターをやらない。
「たくさんリツイートされることを狙ってツイートをする」を日常的に繰り返している人間の意見を目にしやすいのが、ツイッターというプラットフォームだ。
そのため、ツイッターで目にしがちな意見は、「ツイッターなんかに熱中している異常者」の創作物とも言える。
「ツイッターでたくさん拡散されている = みんなが共感する価値観」と考えてしまわないようにしたい。
Twitterは必要な場だが、注意が必要
ツイッターのヤバい例をいろいろと述べてきたが、上に該当するツイートをしている人たちを批判したいわけではない。そもそも、批判できる筋合いがない。
ツイッターは、自分が見るものを選べるプラットフォームだ。フォローするアカウントを自由に選べるし、見たくないユーザーを「ブロック」することができる。
そのため、「ツイッターの意見はクソばかり」という主張には、何ら正当性がない。「そのクソなものを積極的に見ようとしているのは自分」だからだ。
この記事では、ツイッターの悪い面を強調して述べてきたが、ツイッターが日本にとって大事なプラットフォームであることは言うまでもない。権力者を批判できることも、日々の不満を共有できることも、基本的には良いことだ。上で取り上げたケースは、「良いことの反面」として発生しているものであり、何らかの規制を加えれば良いわけでもあにだろう。
現実で成功できない人が、心を癒やす手段としてツイッターを使っているのであれば、それをことさらに言い立てたり、茶化したりするのも、あまり良いことではないかもしれない。
ただ、ツイッターは「敗者が心を癒やす場」として機能しているがゆえに、ツイッターの意見に染まると成功できなくなる。そのため、まだ向上心を失っていない人は、ツイッターに染まりすぎないように注意するべきだろう。
以上、「Twitterの意見に染まると成功できなくなる」の解説をしてきた。
これを読んで、「では、向上心のあるビジネスパーソンは何を見ればいいのか?」という疑問が湧いた人もいるかもしれない。
その答えは、当サイト「経済ノート」である。
経済ノートでは、最強を目指すビジネスパーソン向けに、本質的な実力に繋がるような内容の記事を作っているので、よければ他の記事も読んでいってほしい。



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