規範的になるフェミニズムの正当性と問題点【リベラルと表現規制】

女性を扱った広告やポスターなどが、フェミニストから「女性差別」と批判され、取り下げられる例が、日本でも起こるようになった。

もともと、フェミニズムやジェンダー論は、「女性の開放」を目的とし、表現の自由を認めさせようとする立場だったのだが、今日では積極的に表現を規制しようとしている。

かつて「規範の解体」を目指していたフェミニズムは、今日ではむしろ積極的に「規範」を広めようとしている。

「規範的なフェミニズム」は、「家事をしない男性」や「男性のサポートをしようとする女性」を否定しようとする。

そのようなフェミニズムに対する批判も高まっているが、表現規制に積極的な「規範なフェミニズム」も、それなりに正当性がある。だがもちろん、問題点もある。

今回は、広告などを攻撃するフェミニズムに、どういった正当性があるのかを解説し、さらにその問題点を指摘する。

広告やポスターを攻撃するフェミニズムの正当性は何か?

「フェミニスト」や「女性の権利に関心がある人たち」の一部は、「家事をしない男性」や「男性のサポートをしようとする女性」を、積極的に批判するようになっている。

「規範からの開放」や「自由」が重視されるのであれば、家事を女性にやってもらう男性も、男性のサポートをすることに喜びを感じる女性も、等しく認められてしかるべきだが、それらを否定して「家事をする男性と、働く女性」という新しい規範を打ち立てようとしているのが、現代のフェミニズムだ。

これについて、「市場における男女平等」を目的にするのであれば、筋が通っている。

まず、「なぜ女性が市場競走で不利になりやすいか?」だが、詳しくは「なぜ働く女性はつらいのか?仕事と家庭の両立と現代の女性の困難について解説」で述べた。

なぜ働く女性はつらいのか?仕事と家庭の両立と現代の女性の困難について解説

上の記事の内容を、当記事の趣旨に合わせて要約すると

POINT

  • 「市場」の影響力が増しているので、「お金を稼ぐこと」の価値が上がっている。
  • 保守的な「男性は仕事、女性は家庭」というロールでやった場合、お金を稼いでいる側の男性が有利になる。
  • 女性は「妊娠・出産」を基本的に自分で行わざるをえないので、「市場で勝つだけではいけない」。
  • 一方で男性は、「妊娠・出産」を自分では行えないので、「市場で勝つしかない」。そのため、モチベーションの面で大きく差がつき、たとえ制度的には男女平等でも、男性が勝ちやすい。
  • 現代の女性は、「仕事にフルコミット」でも、「家庭にフルコミット」でも、不利になりやすく、両立を求められるので、それが女性の困難になっている。

となる。

ようするに、女性が市場で勝ちにくいのは、「フルコミットできない(両立を求められる)」という性質があるからだ。

この問題を解決して、「市場における男女平等」を目指す場合、どうすればいいだろうか?

それは、「男性のフルコミットを禁止する」ことだ。

「女性が両立を求められる」ことが避けがたい以上は、「男性も家事をしなければならない」という積極的な規範により、「男性も両立を求められる」状態にすることで、ようやく男女平等が実現する。

「女性が働いてもいい」だけでは、男女の生殖機能上の違いのために、女性が不利なことは変わらないので、「男性は家事をしなければならない」を積極的に広めていく必要がある。それが「規範的なフェミニズム」の論拠だ。

そのため、

  • 家庭を妻に任せて仕事に専念する男性
  • 何かに熱中する男性をサポートしようとする女性

も、批判の対象になる。

フェミニズムが規範的になることで、フェミニズム対する批判も強まってきているが、「市場における男女平等」にフォーカスした場合、「規範的になるフェミニズム」にも正当性はある。

女性だけが家事と仕事の両方の義務を負うのは不公平なので、男性にも両方の負担を負わせることで、ようやく男女平等が実現するのだ。

しかしこの考え方は、「市場で成功した人」しか見えていない、視野の狭いものでもある。

たしかに女性は、両立が求められ、突出しにくい傾向がある。しかし、「大勝ちしにくいぶん、大負けしにくい」のが女性の特徴だ。「女性」という性質は社会から包摂されやすく、経済的に成功せずとも、悲惨な状況には陥りにくい。

一方、「大成功」する人は男性の割合が多いが、そのぶんホームレスや自殺者の割合は男性が多く、勝ち負けがはっきりする傾向がある。

女性には「天井」があり、男性には「地下室」がある、という説明をされることがよくあるが、どちら側にもつらさがあり、どちらかが一方的に得をしているというわけでもない。

ここで述べてきたのは、「市場で成功した上位層」にフォーカスを絞った場合においては、「規範的なフェミニズム」にも正当性がある、ということだ。

大成功した一部の人たちだけを見れば、「男性が有利で、女性が不利」と感じてもおかしくはないだろう。

 

「リベラルなフェミニズム」から「規範的なフェミニズム」へ

「規範的なフェミニズム」にも、一定の論拠と正当性はあるが、かつての「リベラルなフェミニズム」と対立する問題がある。

表現規制をするフェミニズムの理屈では、男女平等のためには「自由」だけでは足りないので、「規範」を打ち出す必要がある。しかしその流れに対しては、当のフェミニストたちでさえも、当惑や裏切りを感じている。それは、かつてのフェミニズムが「リベラル」と足並みを合わせていたという経緯があるからだろう。

フェミニズムの主張は、「リベラル(自由を重んじる)」派の勢力と親和性があり、協力し合うような形で社会に受け入れられていった。(今はリベラル自体が規範的になっているという話は別として。)

「男女は人間として同じ権利を持ち、女性には自己決定権がある」というリベラルなコンセプト自体を否定する人は、今の先進国ではさすがに少数派だろう。

「女性にも働く自由がある」などの「リベラルなフェミニズム」の主張については、今の先進国の、少なくとも若い世代には、すでに受け入れられた価値観になっていると言っていい。

だが、上で述べたように、女性の権利を認めさせるところまでは「リベラルなフェミニズム」でよかったのだが、それだけではまだ女性が不利なままなので、フェミニズムは「規範的」になっていった。

  • 「自由」や「人権」をコンセプトに掲げて、男女平等を目指す「リベラルなフェミニズム」
  • 「男性は家事をし、女性は働くべきだ」という規範を広めようとする「規範的なフェミニズム」

の違いがあり、前者だけでは十分ではないので、後者が出てきた。

「リベラルなフェミニズム」による女性の権利の主張は、保守的な価値観を持つ男性でさえ、否定はしないだろう。だが、「規範的なフェミニズム」となると、女性たちからも支持を得られない場合が多い。

たとえば女性でも、「好きな男性のサポートをすることに喜びを感じる」「仕事を辞めて子育てに専念したい」という人はいるが、「規範的なフェミニズム」はそのような女性の生き方を否定する。

「自由」や「権利」といった点においてはフェミニズムに肯定的だった人でも、フェミニズムが規範的になっていくにつれて、むしろフェミニズムのアンチになっていく場合もある。

「規範的なフェミニズム」は、「市場における男女平等」を前提にした場合、それほど正当性に欠けているわけではない。だが、「リベラル」として受けいれられた後に、「規範的」になったがゆえに、人によってはそれを一貫性の欠如と捉えたり、裏切りと捉えたりするのだ。

「規範的なフェミニズム」であっても、例えば、「男性は突出を求められ、女性は両立を求められる」という生殖上の制限を緩和していくためのものであり、それが結果的に生きやすさに繋がる、といった認識が共有されれば、かつての「リベラルなフェミニズム」と同じように、社会に受け入れられていく可能性はある。

しかし、フェミニズム的な主張を好んでする人の中には、上で述べたような「リベラル」や「規範的」の違いを、そもそも区別できていない場合が多い。例えば、自己認識としては「リベラル」だが、実際の主張や活動は「規範的」になっている人などが多く見られる。

「支持者を獲得して影響力を持つ」ことと「正当性や一貫性によって信頼される」ことは、相反する傾向があり、フェミニズムのような大勢が関わる主張や活動が一貫性を持ちにくいのは仕方のないことでもある。そのため、それぞれに発言している女性の言動を取り上げてフェミニズムの一貫性の無さを指摘するのは不当かもしれない。しかしそれを加味してもなお、論拠や正当性という観念が根本的に欠如した内容の主張がされることもあり、それはフェミニズムやジェンダー論への信頼を長期的には損なっていく結果になるだろう。

 

保守とフェミニズムは、同じように表現規制をするが、前提が異なる

かつては、保守が表現を規制して、リベラル(フェミニズム)が表現規制に反対する立場だった。

しかし、現在は、フェミニズムが、かつての保守のように、女性の表現を規制したがるようになっている。

これに関して、「古今東西、不当に影響力を得ている集団は、自分たちが気に入らない表現を規制しがち」という一般論を言うこともできるかもしれない。

ただ、似たような形で女性の表現を規制しようとしていても、「保守」と「フェミニズム」では、動機が対照的だ。

簡単に言うと、保守は「市場を否定」しようとし、フェミニズムは「市場を肯定」しようとする。

保守的な価値観が生き残ってきた理由は、それが「生殖」にとってプラスに働くという理由に拠る。論理的な正当性ではなく、「生き残ってきたから」という理由で肯定されるのが「保守」だ。保守が女性の表現を規制しようとするのは、そのほうが生殖に有利に働くからだろう。現代でも、女性の性的魅力が市場に流通しない文化圏のほうが出生率は高い。

一方で、フェミニズムの表現規制は、「市場」における公正さのために行われる。「男性が家事の義務を負い、女性が働くのが当然」になってこそ、市場における男女の公正な競走が成り立つ。そのため、「家事を妻に任せる男性」はもちろんのこと、「男性に献身的に尽くそうとする女性」「家事や育児を全面的に請け負う女性」の表現が規制対象になる。

保守とフェミニズムは、表現規制において似たようなことをしているように見えるが、その動機が根本的に異なる。

もっとも、保守は「女性が性的・経済的に開放されること(強い女性)」を規制しようとし、フェミニズムは「女性が男性に従順になること(弱い女性)」を規制しようとするので、表現規制の内容もよく見れば対照的ではある。

ただ、動機や意図は違えど、表現を規制するという意味においては、同じことをしている。

保守による「女性が働いてはいけない」も、フェミニズムによる「女性は働かなければならない」も、どちらも女性が生きづらい社会を助長することに繋がる。

「保守」と「フェミニズム」を止揚するような、新しい解決策が求められている。

 

問題は「市場」にある

「市場」は様々な恩恵を人類にもたらした。しかし、限度があり、市場化が進みすぎた現代社会は、持続可能性を失っている。

現代の先進国に代表されるように、「市場」の影響力が増した共同体は、出生率が低くなり、長期的に存続できる見込みがない状態に陥っている。

少子化は、「解決すべき問題」というより、「解決を強制される問題」だ。子孫を残せない集団の価値観に持続性はなく、人口比の偏りは後に生まれてくる世代の負担になる。今の社会で支配的な価値観は、後の世代からは、尊ばれるよりも否定される可能性のほうが高いだろう。

市場の影響力が増した(経済活動が成熟した結果)、市場からより多くのものが手に入るようになったが、「普通の人が普通に仕事をして生きていく」ことが難しい社会になりつつある。「働いてお金を稼ぐ」ことの難易度が上がりすぎてしまったのだ。

かつての農村では、小さな子どもでも立派な労働力だった。だが今は、子供は経済的には負担にしかならない。

現在の「市場」が抱える根本的な欠陥は、「出生」が評価されないことだ。

なぜ働く女性はつらいのか?仕事と家庭の両立と現代の女性の困難について解説」で詳しく解説したが、「市場」の影響力が増している一方で、「妊娠・出産」が市場においてはマイナスにしかならないことが、女性の生きづらさの根本的な原因になっている。

現在の「規範的なフェミニズム」は、女性の立場の向上を目指す上で一定の正当性は持っているものの、「市場」そのものを疑わないので、多くのものを見落としてしまっている。

根本的には、今起こっている「つらさ」や「問題」は、男女が対立する種類のものではない。市場競争が加熱して、働いてお金を稼ぐことの難易度が上がった結果として、全員が苦しい社会になりつつある。

そもそもの「市場」自体が大きな問題になっているときに、「市場における正当性」を重視しても、当の女性たちの負担を増やす結果になりやすい。

フェミニズムは、「男尊女卑の伝統」に対抗しようとする過程で、「市場(お金さえあれば平等)」に多くを頼ってきた経緯がある。それは必要なことだったが、それゆえに「出生」を評価するのが難しくなってしまった。

今後必要なのは、「保守への回帰」とは別の形で、「出生」を積極的に評価する方法を模索していくことだろう。

 

 

以上、「規範的になるフェミニズムの正当性と問題点」について解説してきた。

人類にとって「性」は無視できない要素であり、それゆえに様々な議論が巻き起こる。

ただ、当記事も含めて、ネット上で気軽に意見を表明できる社会だからこそ、「男性」や「女性」を論じる際には、注意深くならなければならないように思う。

人類の約半分は男性で、約半分は女性である。そのため、世の中の何らかの問題に対して、とりあえず「男が悪い」とか「女が悪い」とか言っておけば、「当たらずとも遠からず」なのだ。

男女の話は誰もが言及しやすいものであり、それゆえに対立なども起こりやすいが、「男が悪い」「女が悪い」とは別のところに考えるべき問題がある可能性を考慮にいれたい。

 

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