世の中には「結婚すると幸せになれる」と考えている人が多いし、一方で「結婚=幸せ」を否定したいと考えている人も多い。
「結婚=幸せ」について、「実際のところどうなの?」という話を、進化心理学、社会学、哲学的な観点から、解説しようと思う。
「結婚」という制度を考える上で、参考になる内容だと思うので、気になる方は読んでいってほしい。
目次
「結婚」は制度としては非常に強固
まず、「結婚(婚姻)」は、人類が持つ社会制度の中でも、長い歴史に裏打ちされたものであることを踏まえる必要がある。
法治主義、国民国家、民主主義など、近代的な社会制度が生み出されるずっと前から、婚姻は存在した。
近代に至るまで、世界各地で、様々な文化がそれぞれに勃興してきたが、一定以上の規模を獲得した社会は例外なく、男女が「結婚」して夫婦になり、夫婦になった後は他の異性との交わりが規制されるという社会制度が機能していた。
また、婚姻は、基本的に「一夫一婦制」の形をとる。「一夫多妻制」の文化圏は現在も存在するが、人数制限がある上に、かなりの資産がなければ不可能なので、ベースとしてあるのは「一夫一婦」と言っていいだろう。
人間の文化や社会制度には様々なバリエーションがあるが、ゴリラのような極端な一夫多妻や、チンパンジーのような乱婚や、婚姻という概念の存在しない共同体は、一部の少数民族を除いて、近代までは生き残ってこれなかった。
婚姻は、大規模な社会を維持するために決定的な役割を担う制度だったと言っていいだろう。
しかし、だからといって「結婚すること」が「正しい」とは限らない。
「生き残ってきた」と「正しい」は別
「それだけ長い時間生き残ってきたなら、正しいことなんじゃないの?」と素朴に考える人は多いかもしれない。だが、「生き残ってきた」と「正しい」は、まったく別だ。
むしろ、人類の社会制度の中には、「論理的に考えると歪んでいるが、それゆえに生き残ってきた」ものも少なくはない。
その顕著な例として、例えば「一神教」が挙げられるだろう。
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』で、宗教の解説がされているが、ここではその一部分を紹介したい。(参考:『サピエンス全史』の宗教とイデオロギーの解説が面白い)
現代、世界で最も多くの信者を獲得しているのは「一神教」の宗教だ。しかし「一神教」は、もともとは多神教のバリエーションの一つに過ぎないマイナーな考え方だったし、理屈が通ったものではなかった。
実は、多神教の宗教も、「全知全能の神」のような概念は持っていた。ただ、「全知全能の神」は、まさに絶対的な存在であるからこそ、個別の人間の些末な願いに取りあってくれないと考えられていた。
神に自分たちを贔屓してもらうためには、「全知全能の神」ではなく、それよりも下位の具体的な神々(戦争するときは戦の神とか、怪我をしたときは治癒の神とか)に祈るのが、ある種の道理に沿った常識的な考え方だった。
しかし、どういうわけか、「絶対的な神が、自分たちだけに関心を持ち、自分たちだけを贔屓してくれる」という理屈の通らないことを信じた人たちがいて、それが「一神教」の誕生だった。
当然ながら「一神教」は、ヤバい理屈なので、簡単には信じられなかっただろう。だが、多神教と違って、「積極的に自分たちの理屈を広め、他の宗教を排斥する」という性質を持っていたがゆえに、世代を経るごとに信者を増やしていった。
「一神教」が広まったのは、正しいからでも、道理に合っているからでもなく、「自分たちの教えを強引に広めて、他の宗教を排斥しようとする」という「生き残りやすい」性質を持っていたからだ。
往々にして、思想や制度は、そういう生き残り方をするし、それはむしろ「正しさ」に反することもある。
そして、「結婚」という制度も、正しいとか、当人たちを幸福にするとか、そういうことは関係なしに、「生き残りやすいから」という理由で続いてきたものかもしれない。
近代的な合理性によって宗教の影響力が弱まったように、「結婚」もまた、その正当性や道理を考えるほど、否定されやすい性質のものなのだ。
ちなみに言うと、「正しい」という人間の観念でさえも、それが結果として「生き残りやすかった」という理由で、我々が持っているものに過ぎないという見方もある。
ダーウィンの「進化論(適者生存)」の思想が、生物学ではなく、哲学や人文学にも衝撃を持って受け入れられたのは、それが「正しいから生き残ってきた」という考え方を否定するからだ。「適者生存」というのは、いわば「生き残りやすかったから生き残った」という身も蓋もない考え方だ。
哲学的のニーチェは、ダーウィンの影響を受けていた可能性を指摘されることが多い。ニーチェは「正しさ」を批判した哲学者だが、人間が持つ「正しい」とか「善い」という観念でさえも、それが生存に有利な機能だからという理由で人間に備わってきたものに過ぎない、というわけだ。(ニーチェはそういう言い方はしていないが。)
ただ、「正しい」という問題はここで扱うには重すぎるので、今回は趣旨である「幸せ」に戻ろうと思う。(もちろん「幸せ」というのも定義が難しい問題ではあるが。)
今回の主題である、「結婚=幸せ」は本当か?を考える上では、「本能」と「制度」の違いに着目するのがいいだろう。
「本能」と「制度」との齟齬
「本能」にしても「制度」にしても、それは「正しいから」ではなく、「生き残りやすかったから生き残った」ものに過ぎない。ただ、「幸福」に関して言えば、「本能」に規定される部分が大きいとは言えるだろう。
つまり、「本能」も「制度」も、どちらとも「正しい」わけではないが、「本能」のほうが「幸福」には近い。
「制度」は、「本能」に沿って作られる側面もあるが、「本能」に反する側面もある。
現代において問題とされるものの多くは、「本能」と「制度」との齟齬が原因であることが多い。
この問題については、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』などの書籍で、詳しく論じられている(気になる方は『サピエンス全史』の要約と解説を参考にしてほしい)のだが、簡単に説明すると、「本能」は長い時間をかけて作られたものだが、人間の「制度」は短期間でも変化しうる。
「本能」と「制度」では、時間のスパンが大きく異なるのだ。
遺伝子は何世代もの時間をかけないと変化しないが、社会制度は人間の認識が変化すればすぐにでも変化しうる。
「本能」にしても「制度」にしても、「生き残りやすかったから生き残った」ものに過ぎないのだが、人間の「幸せ(少なくとも快・不快)」は、長い時間をかけて形成されてきた「本能」のほうに寄っている。
一方で、「制度」は、「本能」に反発する(人を不幸にする)ものであれ、それが生殖や戦争などにおいて有利に機能するならば、継続することがある。
人間(ホモ・サピエンス)の「本能」の部分では、女性は、一部の特に優秀な男性と子供を残したいと思うかもしれない。男性は、若い女性にアプローチして、相手が年老いたら興味を持たなくなるかもしれない。
そのような、遺伝的な「本能」に反して、「ぱっとしない男性が相手でも、周囲に薦められたら子供を作る」「相手が年老いても、生活の面倒を見ようと頑張る」のが、「結婚」という「制度」だ。
「結婚」は、正しいわけでもないし、本能的な幸福を約束してくれるわけでもない。
しかし、「結婚」という「制度」を採用した集団は、「それを採用しない集団よりも生き残りやすかった」のだろう。
それゆえに、「結婚=幸せ」とされる価値観は、今の社会にも強く残っている。
「リベラル」は「本能」の再評価?
「保守」と言われる考え方と、「リベラル(革新)」と言われる考え方は、対立しやすい。
何が「保守(右派)」で何が「革新(左派)」かは、二元論では捉えきれないことが多く、詳しい言及はここでは避ける。ただ、一般的に、「結婚しなければならない」などの「保守的な考え方」が廃れ、「それぞれが望むように」という「リベラルな考え方」が影響力を増している傾向はあるだろう。
現代の先進国においては、程度の差はあれ、保守的な制度や価値観の影響力が廃れ、「自由」や「平等」といった考え方が受け入れられるようになっている。
「自由」や「平等」を掲げるリベラルは、ある意味では「本能」の再評価でもある。
「保守」が重んじる、「本能には反するものの、生殖などに有利だから生き残ってきた制度」に対して、「それってよく考えると間違ってない?」を突きつけるのが「リベラル」なのだ。
近代化が進み、人々が合理的に思考するになると、「保守的な制度」が、「よく考えるとおかしなもの」であることがわかってくる。
近代的個人として合理的に思考するならば、「結婚」という制度は不自然で不合理なものなのだ。
だが、そのようにしてリベラル化が進んだ先進国は、「社会の持続可能性が失われるほどの少子化」に見舞われている。
未来予測は難しいが、「リベラル(本能の再評価)」が行き詰まったあとには、「保守的な制度の再評価」が起こる可能性もある。
「子孫を残せる=幸福」とは限らない
上で述べてきたような話は、「結婚」について考える上での参考にはなったかもしれない。しかし、「本能」と「制度」と「幸福」との関係は、実際のところもっと複雑だ。
まず、「幸せ」は「本能」に規定されていることが多いが、「本能」もまた、「それによって生き残りやすくなる」という仕組みに過ぎない。例えば、「痛み」は、人間を幸福にするためではなく、痛みを感じたほうが生き残りやすくなるという理由で残っているものに過ぎない。
「子孫を残すことができれば幸福」であることは、生物にとっては揺るがない事実のように見えるが、『サピエンス全史』は、「個の幸福」と「種の繁栄」は別物というテーマをはっきり打ち出している。(ここで説明すると長くなりすぎるので、詳しくは「要約と解説」か、実際に本を読んでほしい。)
『サピエンス全史』を持ち出さずにシンプルに考えても、遺伝子(本能)は、「子供ができてしまう行為」に大きな快楽を感じさせれば、「子供が生まれたあと」に幸福になれることを約束する必要はない。
むしろ、子供が生まれたあとは不幸になる個体でも、その子供が無事に生き延びさえすれば、その性質は次世代に受け継がれる。
現代社会では、自分の子孫を残す現実的な方法が「結婚」なので、「子孫を残す手段=結婚=幸せ」と単純に繋げて考える人は多いが、それほど明確に言い切れることではないのだ。
「制度」に順応することで幸せになれる性質の人は多い
「結婚=幸せ」の当否を考える上では、「制度」への順応を心地よく感じるのもまた人間の「本能」である、という視点が必要だろう。
人間以外の霊長類にさえ社会性はあり、「社会性」は人間(ホモ・サピエンス)の強い「本能」だ。
「制度に順応することを幸福と感じる」性質を持った人間は、少なくないだろう。
そのような人間が「結婚」によって幸せになれるかどうかは、周囲の環境(その社会における結婚という制度の位置づけ)による。
制度や環境に順応していることや、それによって他者からの承認を得ることで満たされやすい人の場合、「結婚するのが当たり前の社会ならば、結婚したほうが幸せになれる」し、「結婚しないことが当たり前の社会ならば、結婚しないほうが幸せになれる」と言えるだろう。
もちろん、人間の個性には多様性があるので、「制度に順応することを不幸と感じる」性質を持つ人もいる。
重要になるのは、「結婚」という制度の社会的な位置づけだが、「結婚」が、これからどんどん解体されていくのか、それともある時点から再評価の機運が高まるのかは、未来のことなのでわからない。
「結婚=幸せ」は本当か?
「結婚=幸せ」は本当か?の回答だが、一般論として言うならば、みんなが素朴に考えているほど「結婚=幸せ」ではない、となる。
「結婚=幸せ」という価値観は、個人の都合ではなく、集団(共同体)の都合だ。
親戚の集まりなどでは、よく「結婚すると幸せになれるよ」と言われがちで、嫌な気持ちになる人は多いだろう。それは、親戚や地元の人たちは、「結婚=幸せ」と主張したいのではなく、出生によって共同体に貢献しないことを咎めようとしているわけで、そこには言葉の意味以上の悪意やプレッシャーが含まれているからだ。
しかし、近代的な個人として合理的に思考するならば、「結婚したくない」という結論になるのは何もおかしなことではない。
「結婚」は、不合理ではあっても、共同体の存続を有利にするからという理由で生き残ってきた制度であり、個人のためのものというよりは、集団のためのものだからだ。
とはいえ、人間には、「集団の利益に貢献することを幸せと感じる」という本能も備わっていて、その性質が強い人であれば、結婚しておいたほうが「何だかんだで楽だし、幸せになれる」ということはあるかもしれない。
また、少子化が進む中で、「結婚するべき」という保守的な価値観が再評価されていくなら、結婚したり子供を作ったりすることで得られる社会からの承認は大きくなっていくかもしれない。
その意味では、「結婚」は、幸福度の期待値を上げる現実的な方法として、機能し続ける可能性はそれなりに高い。
一般論としてではなく、「あなたは結婚すると幸せになれるのか?」についてだが、
- 個人の性質による
- そのときの状況による
という面白みのない回答になってしまう。
何に幸せを感じやすいかの「本能」には個体差があるし、「結婚」という制度がその社会で捉えられているのかも状況によるので、「あなたは結婚すれと幸せになれるのか?」については、確かなことは何も言えない。
上で述べてきたようなことを踏まえて、自分で判断するしかないだろう。
以上、「結婚=幸せ」は本当か?について述べてきた。
「結婚=幸せ」は決して自明ではないので、「結婚できない自分は幸せになれないのではないか?」と落ち込む必要は一切ない。
だが一方で、「結婚」は制度としては強固なものであり、リベラルがうまく行かなくなるにつれて再評価される可能性もある。「結婚するために努力する」のは、幸福な人生への期待値を上げるための方法として、的はずれなものとは言えない。
歳を取るほど結婚や出産がしにくくなるという不可逆な要素もあるので、まだ結婚できる可能性がある状況なら、結婚するために努力をするのも悪い選択肢ではないだろう。
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